一見するとこれが明治の公共建築として建てられたことに驚かされる。
非常に装飾性が強い建築であり、開拓使の建築の中で異彩を放つ。
こうした建築はどのような色彩で彩られたのだろうか?
もしカラー写真で残っていれば、そのまま現代といわれても不思議はない。
この建物は建坪59坪・起工明治6年4月、竣工8月。総経費7,872円余。
開拓使本庁舎、洋造弐邸に次ぐ経費を要したとされる。
洋造弐邸についてはあす、触れてみたい。
この本庁分局は開拓使を訪れる「貴賓」のための宿館とされている。
開拓使が札幌で次々と建築を建てて、洋造新都市を建設していることが
多くの要人たちの注目を集めたものか。
北辺の開拓の実情、その進展具合に接したいという希望は強かっただろう。
この当時判官職にあった岩村通俊の方針に沿ったものか、
設計者として岩瀬隆弘がこうした「洋造デザイン」に関わったものか、
そういう消息を伝える情報は残されていないけれど、
このような建築写真を見れば、横浜や神戸の外人街同様の
「ハイカラな」街並みが日本人の手で造成されている状況が見て取れる。
平面図は残されていないけれど、正面立面図が残っていて
その「断面図」状の箇所には邦尺の記入があるので
洋造デザインの住宅建築を日本の職人たちが見事に実現している証しか。
窓には格子状の建具が明瞭でガラス窓が装着されている。
切り妻総2階建てのシンプルな構成に装飾的付加が施される。
まず大きなポイントは正面と建物左手から背面に装置されたベランダ。
「洋造縁側」とでも現場大工たちは呼んでいたかと想像される(笑)。
基礎を高くして玄関まで5段の階段を上がる。
日本の伝統的建築には存在しないこういう半外部空間に
どのような暮らし方・使い方イメージを持っていたか、
初源の「造作した気分」を取材したくなる。
あるいは、すでに居留地としての横浜などでこういう洋造空間を
作った大工たちが呼び集められていた可能性も高いと思う。
開拓使の営繕には岩瀬隆弘がすでに勤務しているので、
1,200人以上新規に東京から集められた職人たちの選抜要項に
こういった「洋造経験者」という項目もあっただろうと推定する。
小屋根や軒先などの端部には過剰なまでの洋風装飾性が加えられている。
注意すべきは屋根頂部に見えている「煙突」。
これは室内に暖炉か、ストーブなどの「暖房装置」が据えられたことを
明確に伝えてくれている。
こういう建築たちが目に見える「坂の上の雲」を札幌に現出させた。
開拓使事業報告では、こうした建築について
「皆洋式ニシテ防寒ヲ主トス」というように高らかに宣言している。
やはり明治初年のこのような建築群が、その後の独自な
北海道住宅の「進化」を決定づけたインパクトだったのだろうと思う。
この年ようやく戸数634軒を数えたけれど、
その住居はおおむね出身地の建築様式としていた札幌定住者たちは、
こういった開拓使の住宅建築への「意志」表明をどう感じていたか?
それはその後の北海道住宅がたどった道筋が証していると思う。
非常に装飾性が強い建築であり、開拓使の建築の中で異彩を放つ。
こうした建築はどのような色彩で彩られたのだろうか?
もしカラー写真で残っていれば、そのまま現代といわれても不思議はない。
この建物は建坪59坪・起工明治6年4月、竣工8月。総経費7,872円余。
開拓使本庁舎、洋造弐邸に次ぐ経費を要したとされる。
洋造弐邸についてはあす、触れてみたい。
この本庁分局は開拓使を訪れる「貴賓」のための宿館とされている。
開拓使が札幌で次々と建築を建てて、洋造新都市を建設していることが
多くの要人たちの注目を集めたものか。
北辺の開拓の実情、その進展具合に接したいという希望は強かっただろう。
この当時判官職にあった岩村通俊の方針に沿ったものか、
設計者として岩瀬隆弘がこうした「洋造デザイン」に関わったものか、
そういう消息を伝える情報は残されていないけれど、
このような建築写真を見れば、横浜や神戸の外人街同様の
「ハイカラな」街並みが日本人の手で造成されている状況が見て取れる。
平面図は残されていないけれど、正面立面図が残っていて
その「断面図」状の箇所には邦尺の記入があるので
洋造デザインの住宅建築を日本の職人たちが見事に実現している証しか。
窓には格子状の建具が明瞭でガラス窓が装着されている。
切り妻総2階建てのシンプルな構成に装飾的付加が施される。
まず大きなポイントは正面と建物左手から背面に装置されたベランダ。
「洋造縁側」とでも現場大工たちは呼んでいたかと想像される(笑)。
基礎を高くして玄関まで5段の階段を上がる。
日本の伝統的建築には存在しないこういう半外部空間に
どのような暮らし方・使い方イメージを持っていたか、
初源の「造作した気分」を取材したくなる。
あるいは、すでに居留地としての横浜などでこういう洋造空間を
作った大工たちが呼び集められていた可能性も高いと思う。
開拓使の営繕には岩瀬隆弘がすでに勤務しているので、
1,200人以上新規に東京から集められた職人たちの選抜要項に
こういった「洋造経験者」という項目もあっただろうと推定する。
小屋根や軒先などの端部には過剰なまでの洋風装飾性が加えられている。
注意すべきは屋根頂部に見えている「煙突」。
これは室内に暖炉か、ストーブなどの「暖房装置」が据えられたことを
明確に伝えてくれている。
こういう建築たちが目に見える「坂の上の雲」を札幌に現出させた。
開拓使事業報告では、こうした建築について
「皆洋式ニシテ防寒ヲ主トス」というように高らかに宣言している。
やはり明治初年のこのような建築群が、その後の独自な
北海道住宅の「進化」を決定づけたインパクトだったのだろうと思う。
この年ようやく戸数634軒を数えたけれど、
その住居はおおむね出身地の建築様式としていた札幌定住者たちは、
こういった開拓使の住宅建築への「意志」表明をどう感じていたか?
それはその後の北海道住宅がたどった道筋が証していると思う。