北海道住宅始原期への旅、やはり独特の文化風土の根源にも触れたい(笑)。
ススキノというのは、日本の風俗文化史のなかでも特異な存在。
いわゆる「繁華街」というもの、風俗というものを
北海道開拓という目的のための有益な「手段」として
意図して作り出したという意味で、驚くべきことだったのだろうなと思います。
明治5年という年は黒田清隆による新都市「洋造」方針が基本方針として
決定され旺盛に建築事業が興された年とされている。象徴的建築として
「開拓使本庁舎」の建設が開始され、翌年6年に完工することになる。
同時進行で各種建築工事が行われ建築工事「人足」が大量に札幌に投入されていた。
「開拓使事業報告」ではこの本庁舎工事のためだけの分として5年7月に
東京で「大工木挽鍛冶などの諸職工1,225名東京より招募す」とあります。
その他も考えれば当時の札幌定住者を上回るような規模で
「札チョン族」が始原し大量にこの地に集中していたことが自明ですね。
〜共通語になっていると思うけど念のため「札幌単身赴任生活」=札チョン〜
そもそも幕末の最終期まで積丹半島の突端から以北は
「婦人」の定住を認めていなかったというほどなので、
そもそも女性の数自体が圧倒的に少ない地域だったことも背景にある。
こうした工事人足さんたちは、遠く故郷を離れ家族の温もりから遠ざかり
その上、札幌の夜の過酷な「なにもない」さみしい状況では
帰心矢のごとしとなることがあきらかで、夜になると
人数がひとりふたりと消えていく、そういった状況のようだった。
そして市中では婦女暴行などの事件も頻発していたという。
このような社会状況を考えれば当たり前だが、なにより「治安維持」が重要になる。
5年9月には「札幌邏卒屯所」という警察官駐在所も全20名体制で作られた。
同年4月には2代判官の岩村通俊の「御用火事」も起こされているけれど、
こういう社会状況を考えれば、この火事自体、
一種の権力による暴力示威、治安維持のための方策・見せしめと
了解することが可能なのではないかと思えてくる。
こういった背景を踏まえて、風雲覚めやらぬ幕末を
かいくぐってきた武人である岩村通俊は、建築政策で思い切った手を打つ。
それが、官製の「遊郭ススキノ」であったということができる。
<開拓使「営繕報告書」明治5年「家屋表」に、
・薄野「仮旅店」建坪139坪余。7月着工10月完成。経費2,239円余の記載>
こういった遊郭建設と御用火事というような、荒っぽい「男性的」施策は
開発地域行政という独特の、平時には考えにくい発想の飛躍であり、
いかにも戦陣をくぐってきた武人にして思い浮かぶ策のように思われる。
いかにも「アメとムチ」という振り幅の大きさ。
この官製の遊郭施設は土塁でもって市中と隔壁していたということですが、
「東京楼」という店名をもって開業していたということ。
いかにも、蜃気楼のように出現した「歓楽街」の店の名前として
まだ新奇性のある首都名を冠して、ひとの温もりに飢えていた札チョン族の
旺盛な「盛り場希求」需要を満たしたのだろうとリアルに想像できる。
苦しくきびしい建設作業に耐えれば、女性のやさしさにススキノで触れられる。
まことにわかりやすい「開発地域」独特の「文化」といえるのでしょう。
こういった経緯で出現してきた「ススキノ文化」。
北海道・札幌を代表する「文化」にまでなっていった始原なのだと思います。
<上の写真は開拓使本庁の工事。下はススキノ遊郭イラスト類。
資料を探しているけれど「洋造」だったとされる遊郭初源写真は不明。>