仙台の街では、市内各所にあった寺院建築を駅東側に
一括して移転させて、「新寺町」という地名の街区を作っています。
お寺というと歴史性を感じさせる「古美」た風情というのがポイントですが、
この一帯では、むしろ建築としては新しいものばかりで、
わび、という感じがイマイチ、いたしません。
わが社の事務所はこの地域にあるのですが、
むしろ事務所のほうが「古びた」鉄筋コンクリートで、風情を感じるほど(笑)。
という次第なんですが、
やはり寺院建築では、そんなにおかしな「新建材」などを使うことは少ないので、
まっとうに年をとり続けているようなところは感じられます。
素材の若々しさは目にそのまま感じられるけれど、
これからが素材の味わいがだんだんに出てくるものなのでしょう。
最低、百年くらいの風雪を経ていかないと、
「わびさび」というような建築的な味わいには到達してこないのでしょうね。
出江寛さんのお話しに、
「わびとはなにか?」という疑問への答として、利休の師匠である
武野紹鴎の残した、
「わびとは、正直で、慎み深く、おごらぬさまを言う」という言葉が紹介されていました。
出江さんにお話を聞いたら、出江さんは京都の出身と言うことで、
小さいときから、古いお寺などで遊んで過ごしてきたのだそうです。
自然にそうしたことへの感受性が育てられる環境にいた、ということ。
この言葉そのままに理解すれば、
建築としての有り様というものが見えてくる部分があるでしょう。
きっと、そういう部分が本質的なものなのだろうと感じられます。
一方で、お寺さんの建築には奥行きのある装飾性もあります。
写真にあるように、ゴテゴテとは言えないけれど、
過不足なく、随所にデザインが施されています。
大きな意味では、単純な三角の屋根の造形を引き立てるような役割を担っているのでしょうが、
ひとつひとつの装飾は、感覚がおもしろいものばかり。
ディテールを見ていると、ちょっと時間を忘れるような気がしてきます。
「あれはなんの意味を持っているんだろうか?」という素朴な疑問が
次々に起き上がってきて、ひとがそのものに託した機能や思いを
思念し続けるような時間を味わうことができます。
そういう思いが、ふたたび、単純な外観プロポーションに戻ってきて
カタルシス的なものも感じられるようになる。
多くの人間が見続けてきたお寺などの建築デザインには
そういうさまざまな「仕掛け」が詰まっているのだろうな、と思われます。
まぁ、こういう新しいお寺さんは、伝統的美感の
「しきたり」を忠実になぞっている、というところなのでしょうが、
それでも、いろいろに想像力を膨らませてくれます。
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