三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

薩摩シラスの塗り壁

2007年02月18日 06時55分15秒 | Weblog

きのうは奥州市水沢で取材。
最近の市町村合併の結果、新しい街が誕生してきていますが、
カーナビはなかなかデータを交換するわけにも行かず、
困ったことになってきている上に、
目的の住宅は新興開発住宅地のど真ん中。
例によって、枝番からは場所が推定できない、っていうか、
ほんのとなりでも、全然違う番地だったりするので、わかりにくい。
カメラマンは盛岡から、ライターさんは仙台から他のスタッフと同行。
それとディレクター役のわたしと、それぞれ車が違うので、落ち合えるまで心配。
案の定、一番地元に近いカメラマンが迷った様子。
住居表示って、それぞれの自治体、担当者によって、
付け方にルールってないのでしょうかね。
まぁ、こういう仕事らしい、愚痴ではありますが(笑)。

取材した住宅は、高性能Q1.0住宅。
新在来工法をベースに、壁の付加断熱を行い、床下ピット空間にパネルヒーターを
入れてセントラルヒーティングで全館暖房。
換気は第1種換気装置を導入している、という住宅でした。
設計施工は、木の香の家・白鳥さん。
とても細やかな設計で、名前通り素材の質感をたいへん重視した家づくりです。
写真は居間から上る階段周囲の様子。
木製階段の質感もいいのですが、その背景の壁の塗り壁もまたいい。
聞くと、桜島からの火山灰が蓄積した薩摩地方のシラスを
壁の塗装材として使用しているものです。
この薩摩シラスって、全国的にもけっこう好きな方が多く、よく見ます。
北海道では、珪藻土という宗谷半島地方の土壌から採取できる素材が
「多孔質」の性能値が高く、塗り壁材として使用すると
吸湿性、空気清浄性に効果が高いということで使われるケースが多いのですが、
素材としてはこの薩摩シラスの方が性能はいいのだとか。
<すいません、しっかり調べたりはしておりません(汗)>
素材の色彩なりに、塗り上げられていますが、何とも言えず
風合いの感じられる見事な素材感で迫ってきます。
こういうのって、写真ではなかなか表現しにくいのですが、
しっとりとした、吐息が吸い込まれるような、というような雰囲気とでも
言える感じなんですね。
高性能住宅としての重厚な壁厚が、こういう素材感で被覆され、
性能としても、質感としても、安心感の感じられる表情になっていました。

取材が終わって、またスタッフはそれぞれに解散。
水沢から青森まで移動するスタッフは、ここから約4時間後、
無事つきました、って連絡が入りました。
運転も大変なので、なぜかダイエット効果があるというドリンクを差し入れ。
そうなんです、運転ばかりしていると、運動不足にはなるわ、
ストレスはたまるわ、なので、ついパーキングエリアであれこれ、間食するんです。
これがあとで、てきめんでお腹周りに集中して参ります。
どうしても車移動の多い仕事、これには注意しなければなりません。
ところが、わたしのブログで食べ物テーマが多いので、
「編集長、どっかこの辺でおいしいラーメン屋さん、ありませんかね?」
って、スタッフから聞かれました。
「地元でもないし、そんなに、全国各地、食いまくっていないよ。むしろ小食系なんだよ、俺。」
って、やはり、説得力はありません(笑)。
でもみなさん、食べ過ぎ、ストレス食には気をつけましょうね。ではでは。
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快適を支える設備

2007年02月17日 06時38分36秒 | Weblog

さてリプランの北海道版、東北版とも
取材などのフィールドワークは最盛期にさしかかってきています。
ことしは暖冬ということで、天候による影響というのは、これまで比較的に少なくて、
地球温暖化という深刻なテーマとは別に助かる部分はあったのですが、
スタッフは日夜、東奔西走の状況であります。
わたし自身も、おとといは直前まで座談会の司会役を忘れていて、
別件の用事をスケジュールしていた、
ということで、担当さんから大目玉を食らいました。(冷や汗)
誌面作りって、最終的には写真などのきれいな部分でお見せするわけですが、
作業自体は、じつに多種多様なアヒルの犬かきの連続なんですね。

写真は、ひだりが第1種換気の装置と、右側がセントラルヒーティングの配管集中部分。
現代の室内環境をコントロールする性能を維持する、縁の下の部分。
暖かさとか、空気環境の健康性を高める、という感性的な
情緒的な快適性を、こういう装置が支えているのですね。
こういう部分でも、進歩は日進月歩。
左側の換気装置は、Q1.0の高性能住宅で、多く使われてきています。
この写真の家では、2階夫婦寝室の横のクローゼット内部にありました。
大きさもごつい。パイプの配管ぶりも凄い、という印象がありますね。
換気による熱のロスを90%回収します、ということなのですが、
単純にメーカーが言っていることがそのまま、実際に性能発揮できるかどうか、
そのこと自体もしっかり検証して行く必要があります。
右のセントラルヒーティングの配管ですが、
この家では電気温水器の深夜電力で暖めたお湯を
この配管で、パネルヒーターで家中に回していくというタイプの暖房方式。
玄関脇の収納兼用のスペースに納められていました。

どちらも、ちょっとメンテナンスは必要なので、このように写真撮影も可能なような
スペースのなかに納め、同時に生活上は気にならないように配置する必要があります。
でも、場合によっては、こういう部分も露出させていくという
インテリア作戦もありなんではないかと、
ときどき思ったりします。正直に、こういう装置が快適を支えていますよ、
と明確にするというのも、ひとつの作戦にはなるのではないか、と。
メカニックが好きな建て主さんなんかは、どうでしょうかね。
案外、こういうのを正直にさらすのが、安心感をもたらせてくれるかも知れないなと
思ったりもする昨今です。

さて、本日も岩手県でQ1.0住宅の取材・撮影です。
きのうまでは、けっこうな荒天でしたが、さてさて・・。
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竪穴式住居

2007年02月16日 04時42分46秒 | Weblog

なんか、ふたつの低気圧が北海道南部を
横断中で、ここ2~3日、東北北海道を中心に荒天です。
今時期は、スタッフが各地で取材やらなにやら移動が頻繁だし、
同時に写真撮影も真っ盛りなので、なにかと気がかりです。
気温は北海道も高めの状態ではありますが、
雪や風といった部分では、やはり暖冬とはいえ、冬真っ盛り。
みなさんも、十分お気をつけくださいね。

さて、写真は東北北部地方の奈良時代の民家で、
一般的であった「竪穴住居」の模型写真です。
ごくふつうの庶民の家って、歴史的には、江戸期までも含めてつい最近まで、
この竪穴式住居っていうのが一般的だったんですよね。
で、こういうふうな断面模型にしてあると、
いろいろと生活ぶりとか、見えてくる部分があって、興味を引かれます。
奈良時代くらいというと、定住的な農耕が行われるようになっていて、
人口の大部分は、こうした生活様式で暮らしていたに違いありません。
日本の場合は、海での漁労を中心とした暮らしも多くあったでしょう。
しかし、民家形式としてはこういうものがベースだったに違いありません。

建物内部で火をおこして、煮炊きと暖房の用途に使い
その結果の煙を、屋根天井の方向などを検討することで、
その地域の気候風土に適した家のかたちを選択していたものと思われます。
もっと古い年代からのものを見ても、
間取りとか、大きさは構造維持の問題もあったので、大体この程度、
したがって、そこに暮らす人数も自ずと定まり、
いわゆる、夫婦を中心とした範囲内に収まっていたように思います。
屋根は、風向きとか、その土地の特徴を考えながら、
方向や開口の大きさを検討して、形態などを決めたのでしょう。
デザインで考えれば、この屋根形状が決定的だったと思いますね。
まぁ、そういうゆとりはなかったでしょうけれどね(笑)。
床は、湿気を考えて、すこし床面を上げているようです。
地盤面から掘り込んで床面を定めるので、雨水の浸入をいかに防ぐか、
いろいろに考えたに違いありません。
自然や天候に相当に翻弄される暮らしぶりだったに違いないことは
こういう住まいをみれば、あらためて認識させられますね。
仏教という、文明と不可分に結びついていた信仰以前に、
自然崇拝をベースにした呪術的な自然信仰が先行して存在していた
ということを、こういう生活ぶりからうかがうことが出来ると思います。

と、しばし、古人の生活ぶりをあれこれ想像するのも、おもしろい。
さて、きょうはわたしも仙台へ移動の予定。
どうも、外の天気が気になります。
人間、自然や天候の状況に左右されるのは古今を問わないもの。
そのうえ、最近は地球温暖化が、暮らしに直結してきていると
感じる場面が増えてきています。どうなんでしょうか?
そういう大きな変動の寸前で、われわれのいまの暮らしが
あるのかも知れませんね。
そういう意味では、この写真のような暮らしようの方が
知恵のあるくらい方だった、と言えなくもないかも知れない、って思えてきます。
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産業育成ということ

2007年02月15日 12時58分50秒 | Weblog

きのう、絶対覚えられない名前の会合に行ってきました。
いわく「北海道情報産業クラスター・フォーラム事業&知的クラスター創生事業」
(途中あたりで、もう頭のなかでの単語登録限界を超える)
「平成18年度合同成果発表会」~北海道ITクラスター形成の新たなる発展に向けて~
というサブタイトルが追い打ちを掛けてくる。
こういう集まりがあるから、
「こういうのに出てこないと、情報集まらないじゃないですか!」
とかいう背中を押される声もあって、行ってきた次第。
冒頭では、北海道の知事さんも挨拶をしていたようですが、
残念ながら、ちょっと渋滞で遅れたので、聞けませんでした。
本題に入ってから登壇するのは、
優秀そのものの中央官庁のえらいみなさん。
でも使われる言葉が、どうにも、単語フレーズが長くて、そのうえ、
その概念を主語としたストーリーが展開していくものだから、
残念ながら、どうにも論旨が不明でした。不真面目な参加者で申し訳ありません。
どうやら、いろいろ補助金事業をやっているから、
大学の先生たちと研究開発して、補助金をゲットするようなアイデアを出しなさい、
という勧奨が、お話のポイントのようでした。
まぁ、それが「地方産業育成」という国の施策ですよ、ということ。
しかし、目的としては、産業の育成なのでしょうから、
最終的にはユーザーの視点でのわかりやすい商品に結実しなければならないと思います。
お役所言葉ではなく、もうすこしわかりやすい言葉でできないものかなぁ、
と、ひとり悶々としておりました。

そんなことを考えながら、写真を整理していまして、
偶然目にとまったのが、この写真。
江戸期にまとめられた各藩地域の特産品産業と
その海運流通を示した「江戸期産業絵図」とでもいえるもの。
見ていると実に活写されています。
日本って、この海運業というのが非常に活発だった地域のようで、
律令国家成立時期に、中国王朝のまねをして陸路を整備したけれど、
そっちはあんまり利用されず、伝統的な海運水運が大動脈であった、ということです。
こういう産業基盤があって、各地方からそれぞれの特産品が生まれ出てきたように思います。
運送業で考えれば、荷を常に満載して運んで交易した方が回転率がいいのですね。

東京一極大集中で、地方経済の基盤がどんどん落ち込んでいる現代では、
税金を使って、こういう官製の事業育成システムをやるわけですが、さて。
この写真を見ていると、地方産業は、むしろ江戸期の方が、
より生き生きとした活力を持っていたように感じられるのは、
わたしだけでしょうか。
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アテルイってご存知ですか?

2007年02月14日 05時58分43秒 | Weblog

この人なんですけど・・・って、まぁ冗談みたいな標本ですね(笑)。
このアテルイって、坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされた東北人の族長です。
東北を歩き回るうちに、知ることが出来てきた人物。
先日、胆沢城というヤマト政権による東北侵略の拠点になった
城塞の発掘跡の博物館に立ち寄ったときに見た標本ってわけです。
しかし、乏しい書物の記録や、考古的に得られた資料を活用して、
一般のみなさんにもわかりやすくアテルイのことを伝えようとする努力には敬服します。
それにしても、かなりの想像力が動員された結果が偲ばれます(笑)。
基本的には文字としては、日本国家側の記録しか残っていないのですが、
坂上田村麻呂以前には、このアテルイによって、
ヤマト政権側は、実に手ひどい敗戦を経験しているようです。
北上川を挟んでの戦闘の様子が、資料に即して映像によって再構成され、
ヤマト政権軍を挑発し、十分におびき寄せてから、
半分以下の人数で、大軍を包囲して潰走させ、
多くの兵を北上川で溺死させたという、戦争の様子を活写していました。

この戦争のあと、坂上田村麻呂が最初は副将として、
それから以降は主将としてアテルイと対峙し、
ヤマト政権側の記録としては、勝ち続けたことになっていますが、
最終的にアテルイが降伏するまでに、10年ほどの時間がかかっています。
たぶん、膠着した状態があったのだと思いますが、
遠征軍側からすれば、自分たちに都合の悪い報告は
それほどは本営に送らなかったのではないかと推測できます。
ちょうど時代は桓武天皇による京都遷都と軌を一にした時期であり、
新体制国家の武威の象徴のように、このヤマト政権の勝利は利用されたようです。
降伏して、都に護送されたアテルイは、
征夷大将軍になった坂上田村麻呂の上奏にかかわらず、
刑死させられることになります。
東北人に対する占領政策において、強硬路線を突っ走ったのですね。
たぶん、こうした戦後処理が東北人に
より強いヤマト政権への敵意を残した部分が大きかったのではないでしょうか?

歴史のなかに、敗者の記述としてこの刑死は、淡々と記されているのみですが、
いったん、敗者の側からこの事実を再構成してみれば、
ヤマト政権とは、なんという強権的な権力であることか、と思い至ることと思います。
その後も前八年、後三年戦争まで、ひき起こっていく
東北の治安の不安定さは、このアテルイの虐殺が大きいのではないかと思えます。
しかし、こういうことがらも考古的な検証など、
時間とともにいろいろとわかってきているのですね。
わたしたちが学んだ歴史では、ほんの数行しか触れられていなかった経緯が
各地の博物館などの整備によって、予算が付いて、
解明されてきているのだなと、楽しい気分になってきます。
この写真のアテルイさんの標本も、たとえば衣装などは
いろいろな調査結果を反映してもいるようですし、
髪型や目鼻立ちという部分も、東北人の特徴などに取材もしているようです。
もちろん想像力の産物ですが、そこには知の蓄積も映し出されているわけですね。
というようなことで、歴史研究、連日のテーマでした。(笑)
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平泉という夢のあと

2007年02月13日 07時12分04秒 | Weblog

東北版のリプランを発行しはじめてから
当然ですが、東北各地を取材で訪れるようになり、
いきおい、東北の歴史に関心が向かっていきます。
北海道では最近、考古的な年代でのいろいろな発見がありますが、
やはり文字による記録が残された、手がかりのある歴史的事実の集積は乏しいので、
なかなか実感を伴って歴史を再構築しにくい。
そうした意味では、歴史的事実が明確な東北の歴史は
わかりやすく、実に興味深いものがあります。
簡単に言えば、東北って、ヤマト国家との緊張関係の歴史であって、
それも敗者の側の歴史ということが、わかりにくくしてきたということのようですね。
しかし、わかりにくいというだけであって
富の集積であるとか、そういう部分ではヤマト国家と
それほどの乖離のある存在ではなかったと思えるのです。
この写真は、平泉の中尊寺一帯の宗教施設群のなかにある 
能楽堂の全景写真ですが、権力の正統性の担保としての宗教施設に
これだけの建築を遺してきた経済力は、すごい。
ヤマト国家と東北の関係は、
比較的早くからその国家権力のなかに組み入れられていた宮城県以南の地域と、
平泉を中心とするような「奥六郡」以北地域との間で、
実に複雑な推移が展開してきたようです。
わかりにくさというのは、ヤマト政権の側からだけ見た歴史観では、
よく見えにくい事態の推移が主要にあった、ということを表しています。
平泉・奥州藤原氏の時代になると、
明確にヤマト朝廷国家とは一線を画したひとつの王権として成立していたといえます。
この平泉が滅ぼされたのは、関東に新制度国家を設立した関東武士団によってです。
この時期というのは、後の戦国時代以上に、権力争闘が熾烈であり、
本当であれば、日本にはいくつもの国家が存在しても不思議ではなかった
というような様相を見せていた時代だと思います。

奥州藤原氏というのも、自ら「俘囚の長」であると宣言していた、
ということですが、どうも感覚として独立国家を運営していたと自覚していたと思われます。
<俘囚>っていうことばは、ヤマト国家の側から東北北部に暮らす人々を
蔑んで呼んだ言い方なわけで、それをあえてこうして表現するというのは
そこに強い意志の存在を感じます。
ヤマト国家の側からは、律令制度での官位を与えたりして懐柔しています。
しかし、それに対して別に上京して臣下の礼を取った、というようでもないようです。
平家による宋との交易による、いわば貿易立国的な志向性、
一方で形骸化していたとはいえ、一応国家としての統治機構としての
律令体制を維持していたヤマト朝廷国家。
さらには、ヤマト国家の土地経済政策の破綻の結果、自立を志向した関東新国家、
頼朝を盟主と仰いだ関東武士団による独立の動き。
そしてこの平泉を根拠地とした奥州藤原氏の覇権成立地域。
ちょうど、関東新国家が武権として、全国制覇していく過程で、
こういうような政治状況が生まれていたようですね。
後の戦国期のような、覇権争奪という側面はそう大きくはない、
むしろ、それぞれが自立的な方向を志向していた時代のようです。

こういう時代は、普通に考えればそれぞれの独立国家による
外交関係と捉えた方が、よりわかりやすいし、当人たちも、
「日本」という統一国家意識というのは、特段強くなかったのではないかと思います。
藤原氏の「俘囚の長」という発言を、
歴史のなかでとらえたとき、そういう雰囲気を感じ取ることが出来ると思います。
っていうような、夢想を抱かせる平泉の建築群です。
久しぶりに、歴史のテーマでした。
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B級グルメ国道4号「斉藤うどん店」篇

2007年02月12日 07時40分21秒 | Weblog

1週間ほど前の東北出張の時に
国道4号線を宮城県栗原市から岩手県一関市にさしかかるあたりで
ふと目にした店が「斉藤うどん店」というお店。
お昼時間を過ぎていたので、まぁ、とりあえずいいか、と立ち寄った次第。
こういう初めて立ち寄るお店って、
入るかどうか、どんなポイントがみなさん、決め手になるものでしょうかね?
まず第一に、腹の減り具合加減がありますね。
これがまず、第一の基準になることは疑いがありません。
腹が減っていて、周辺に食べるところがなければ、考える余地はない。
ただ、商売で考えれば、いまどきそんな基準だけで、きてくれる客はいない。
そうすると、立地条件をわきまえた上で、見た目のメッセージ性を考える。
その辺が、建物としても、看板その他のメッセージボードも、問題になってきますね。
この店の場合、写真は掲載しませんが、ボード類はまずまずなのに、
建物が、なぜか、輸入住宅風なんですね、それもまぁ、ローコスト系の。
うどん屋といえば、基本的には和風だろうが・・・
って、ちょっと突っ込みを入れたくなるイメージでしたね。
要するに、入るまでは瀬踏みの難しい雰囲気でしたね。
ただし、「ごぼう天うどん」「比内地鶏親子丼」などといった
宣伝ボード類は、そう悪くはなく、胃袋感覚を直撃する。

っていうような前置きで、入って、案の定、輸入住宅風の似合わない内装。
「大丈夫か・・・」という不安が募ってくる。
でも、まぁ、気を取り直して、ランチ時間の外れ寸前のごらんのメニューを注文。
お店の看板メニューをふたつ組み合わせているヤツです。
親子丼の方が、半分量くらいなので、ボリュームはあるけれど、
こっちも昼が遅れたので、おなかペコペコ。
まぁ、ちょうどいいだろうと、頼んでみた次第なんですが・・・、
運ばれて来てみると、やっぱり凄い迫力の量感でございます。
「すごいね、けっこう・・・!」とかと、店員さんに言うと、
にっこりほほえんで「頑張って食べてください」と優しいお言葉。

さて、こういうふうに目の前に並ぶと、
なにから箸を付けようか、迷うところですが、
やはり看板メニューに敬意を表して、ごぼう天から。
って、これがう・ま・い!
ごぼうの掻き方が繊細で、ふんわりしていまして、大きいけれど、
わりと軽く、どんどんいけるんですね。
付け合わせの半熟卵、きつね、ちくわ、ワカメもいいコンビです。
と、ひとわたり具材を食してみて、
こんどは、左の親子丼へ箸を、回してみる。
たまごの柔らかい仕上げが、「比内地鶏」っていううまみを感じさせてくれる。
鶏肉は、ちょっと大きめに切られていますが、
肉質繊維の口中での別れ方が、なかなか小気味いい。
噛んでいっての肉汁の広がり方も、いいハーモニーであります。
味付けは、ちょっと軽めで、つゆだくさん系。
というような食感を楽しんで、やおら、うどんのつゆをレンゲで一口すすったあと、
ようやく具材の下の、うどんにたどりつきました。
これはけっこう、さっぱりとした細麺風というわたし好み。
つるつる、すーっという食べ応えが、薄めの味付けもあっていい感じ。
あとはもう、いろいろな食材をあちこち、バトルロイヤルで。
しかし、具材を平らげて、うどんを半分くらい食べて
丼の方をなんとか食べきったあたりで、胃袋からは満腹信号。
こういうところでやめられれば、ダイエットの必要もないのでしょうが(笑)、
ここまでくると、止まらなくなる。
でもまぁ、しかし、うどん8割方かたづけたあたりで、さすがに定量。
店員さんに、参りましたと挨拶して、許してもらいました(笑)。

そのうち、ブログに書こうと思っていたのですが、
食べたのは、2月3日でした。で、住所とかはインターネットででもわかるだろうと
先を急いで、店を出ちゃったのですが、
どうも、yahoo電話帳でも電話番号なども調べられませんでした。
特段、チェーン店でもないようなので、
お近くの方しか、わからないお店の話題になってしまって恐縮です。
でも、今度も近くを通りかかったら、もう一度、入ってみたいお店でした。ごちそうさま。
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函館朝市散歩

2007年02月11日 10時51分53秒 | Weblog

世間は3連休に突入中のなか、
またまた節句働きの講演を函館で行ってきました。
前日まで東京で、飛行機で移動。
ひさしぶりに函館空港を利用しましたが、
すっかり小綺麗に一新している印象を受けました。
札幌から函館に入るにはふつうは車で行くし、
用務先が限られている場合で汽車。
なもので、空港を利用したのって、考えてみれば以前、1度、
函館から東京へ飛行機で移動したときくらいでした。
空港から市内までは、時間もわずかで、観光都市らしく
道路脇の店屋さんもずいぶん活気がありそうな雰囲気。
これもずいぶん新鮮な思いを抱きました。

ホテルは函館駅前の新装開店のものでしたが、
駅前も、昔を知る身としては、「え、これ、どこよ?」と
感嘆させられるような変貌ぶり、というかやたら空き地が目につきますね。
一時期、すっかり駅前の大門地区の衰退ぶりが伝えられていましたが、
大規模な再開発はいったい、どうなっていくのでしょうかね。
翌朝、やっぱり函館に来たら、ホテルでメシを食うよりは、
ということで、朝市をぶらついて参りました。
いろんな店店の看板が小綺麗に変わっていて、清潔感を感じますが、
なんか、函館らしいローカルな味わいが薄れてきている感じもありますね。
写真の店などは、完全に観光客の足下ウォッチ価格な気がします。
いかって、むかしは大衆的なもので、それこそ大盛りいくら、っていう
そういう食べ物だった記憶がありますが、これではふぐとも変わらない高級魚扱い。
どうも、あまり感心いたしませんね。

それと、観光客で気になったのが、おおくのアジア・台湾などからのみなさん。
ちょうどホテルでもたくさんの方が団体で来ていましたが、
こういうとき、どうも同じアジア人なのに、言葉を交わしたり出来ない。
なんか、英語を使うのも変だと思うのですが、
先方のみなさんも、あまり声を掛けてきたりはしませんね。
まぁ、来客のみなさんは自分からコミュニケーションは取りにくいでしょうから、
迎えるこちらから、声を掛けるべきだと思うのですが、
北海道民の側で、なにかこういうときに声かけの
運動みたいなのを考えられないかな、と思いました。
「ようこそ、いらっしゃいました」という心を伝えられるような声かけですね。
何か、いいアイデアはないものでしょうか?
そんなことがあると、きっと多くのみなさんがもう一回北海道に来てみたい、
って思ってくれるようになると思うんです。
簡単でいいけれど、ワンフレーズになっていて
感謝の思いが先方に伝わるようなそういう中国語や韓国語の
歓迎挨拶、多くの日本人がそういう声を掛けたら、
きっと楽しい交流が生まれてくるのではないでしょうか?
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インターネットとメディア

2007年02月10日 06時47分21秒 | Weblog

札幌や東北にいると、なかなかメディアというものとの情報接点が少ない。
日本の場合は、このメディア分野というのは、
非常に中央集中的な業界なのだ、ということが明瞭ですね。
新聞メディアは、当然のように全国紙のみではなく、
どんな県紙、といわれるローカル新聞社でも、広告の窓口をメインにした
東京支社を持っているし、持たざるを得ない。
地方紙では、東京支社勤務がエリートの条件になっている世界。
テレビの世界は完全に、ネットワーク体制の世界であり、
なおかつ、保護された免許許認可ビジネスという
極端な言い方をすれば、歴史的にもきわめて特殊な存在ではないかと感じる。
たとえれば、土地公有制の古代世界で、
貴族や大寺社といったひとにぎりの連中だけにしか許されなかった、
権益としての土地私有制・荘園制度みたいなものになっている側面が大きい。
わたしの取り組んでいる雑誌の世界でいっても、
第2次大戦後の混乱期に、鉄道輸送という流通手段が権利化して
大手取り次ぎ、というきわめて特殊な世界が出現し、
事実上、出版社というものの固定化、既得権益化が進んだ世界になっている。
そのなかで、基本的な流通自体が東京発でしかあり得ない世界なので、
地方ローカル出版では、いまどんな潮流になっているかすら、
なかなか、情報として捕まえにくくなっている。

とくにインターネットという、情報の世界での巨大な変化のパワーが
本格的に状況変化をもたらしてきている時代には、
その変化の状況を、つぶさにチェックすることが
なかなか、地方では出来にくくなっている。
東京一極大集中というのは、どうもインターネットの出現でも、
それが促進されていくというのが、実態のように感じます。
地方にいるだけでは、情報の残りかすのような断片をつかむことが多い。
いずれにせよ、いまは変化は根源的になってきている。
情報の世界が、大きく構造変化していく寸前の状況ではないか、
という実感を強くしています。
こういう時代に、先を見通しながら舵を切っていくのって、
まぁ、チャンスもあるわけなので、いい時代だとは言えるのですが、
既存の羅針盤の多くが、ほぼ使えないという厳しさはありますね。
なんか、へんなブログで、申し訳ありません。

<写真は秋田県で見かけた廃墟のビル。けっこう、こういうの、好きなんですけど・・・。
別に、既存メディアの行く末を暗示する意図はそう強くありません(笑)>
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ディズニーランドの広告作戦

2007年02月09日 07時11分06秒 | Weblog

東京で参加している印刷関係のイベントセミナーで紹介されたチラシのお話。
って、いっても巨大でして、なんと、新聞全面の2倍の大きさ。
ご存知、ディズニーランドが折り込んだチラシで、
名古屋地区に集中させた広告作戦だったそうです。
これを見た人は、きっとびっくりしたでしょうね。(笑)
表側が、ディズニーランドのイラストマップになっている。
裏面には、こちらにはディズニーランドのキャラクターが全員集合している。
これを新聞に折り込んだそうですから、
当日の新聞は、新聞よりも厚い1枚のチラシ、ということだったろうと思います。

わたし自身は、どうもディズニーランドのような人工的な
娯楽施設、というものに食わず嫌いなところがあって、
家族でもなるべく話題が出ないようにしているタチなんですが、
そういうお父さんは、これにはやられた、って閉口するでしょう。(笑)
このチラシは、たぶんほとんど捨てられることはないのではないか。
きっと、居間ではないまでも、相当多くの子ども部屋には張られただろうと思います。
たぶん、相当の家庭普及率(?)だったでしょうね。
インターネットが普及してから、いろいろな変化が起こってきていますが、
そのなかで、チラシは数少ない伸びているメディア。
こういう作戦を考えるまで、元気のいい状況だ、ともいえますか。

しかし、新聞や出版全体では、いろいろ厳しい状況が進行していることを実感します。
出版社で、最大の売上規模を誇っていた講談社では、
最高売上期から、直近では、なんと3割近いダウンなんだそうですね。
東京で、いろいろなみなさんの話を聞くと、
地方で断片的に入ってくる情報の裏側、というか、
その背景のようなものがより明瞭に理解できますね。
地方零細出版が、今後どうやって新たな展開を模索していくか、
課題がたくさんのお土産になりそうな、出張に来ております。
でも、このチラシじゃないけれど、活性化へのヒントはたくさん出てきていると思いますね。

<写真は羽田空港での無線LANからいま、変更をアップしている様子。
無線LANって、緊急の時でもホント、便利ですね。感心感心。>
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