この人なんですけど・・・って、まぁ冗談みたいな標本ですね(笑)。
このアテルイって、坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされた東北人の族長です。
東北を歩き回るうちに、知ることが出来てきた人物。
先日、胆沢城というヤマト政権による東北侵略の拠点になった
城塞の発掘跡の博物館に立ち寄ったときに見た標本ってわけです。
しかし、乏しい書物の記録や、考古的に得られた資料を活用して、
一般のみなさんにもわかりやすくアテルイのことを伝えようとする努力には敬服します。
それにしても、かなりの想像力が動員された結果が偲ばれます(笑)。
基本的には文字としては、日本国家側の記録しか残っていないのですが、
坂上田村麻呂以前には、このアテルイによって、
ヤマト政権側は、実に手ひどい敗戦を経験しているようです。
北上川を挟んでの戦闘の様子が、資料に即して映像によって再構成され、
ヤマト政権軍を挑発し、十分におびき寄せてから、
半分以下の人数で、大軍を包囲して潰走させ、
多くの兵を北上川で溺死させたという、戦争の様子を活写していました。
この戦争のあと、坂上田村麻呂が最初は副将として、
それから以降は主将としてアテルイと対峙し、
ヤマト政権側の記録としては、勝ち続けたことになっていますが、
最終的にアテルイが降伏するまでに、10年ほどの時間がかかっています。
たぶん、膠着した状態があったのだと思いますが、
遠征軍側からすれば、自分たちに都合の悪い報告は
それほどは本営に送らなかったのではないかと推測できます。
ちょうど時代は桓武天皇による京都遷都と軌を一にした時期であり、
新体制国家の武威の象徴のように、このヤマト政権の勝利は利用されたようです。
降伏して、都に護送されたアテルイは、
征夷大将軍になった坂上田村麻呂の上奏にかかわらず、
刑死させられることになります。
東北人に対する占領政策において、強硬路線を突っ走ったのですね。
たぶん、こうした戦後処理が東北人に
より強いヤマト政権への敵意を残した部分が大きかったのではないでしょうか?
歴史のなかに、敗者の記述としてこの刑死は、淡々と記されているのみですが、
いったん、敗者の側からこの事実を再構成してみれば、
ヤマト政権とは、なんという強権的な権力であることか、と思い至ることと思います。
その後も前八年、後三年戦争まで、ひき起こっていく
東北の治安の不安定さは、このアテルイの虐殺が大きいのではないかと思えます。
しかし、こういうことがらも考古的な検証など、
時間とともにいろいろとわかってきているのですね。
わたしたちが学んだ歴史では、ほんの数行しか触れられていなかった経緯が
各地の博物館などの整備によって、予算が付いて、
解明されてきているのだなと、楽しい気分になってきます。
この写真のアテルイさんの標本も、たとえば衣装などは
いろいろな調査結果を反映してもいるようですし、
髪型や目鼻立ちという部分も、東北人の特徴などに取材もしているようです。
もちろん想像力の産物ですが、そこには知の蓄積も映し出されているわけですね。
というようなことで、歴史研究、連日のテーマでした。(笑)