三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

ふと疑問。ふとんと毛布の上下関係論

2016年01月21日 06時01分52秒 | Weblog
ときどき、書斎的な仕事が集中してくる時期があります。
根を詰めて、論理的あるいは説明的な構築をしなければならない時期。
そういうときには、会社からも近い元事務所でもある自宅書斎で呻吟。
いわゆる「創作」的な仕事というのは、なぜか「行き詰まる」(笑)。
で、よく「ゴロッと横になる」。そうすると、ベッドが必要になる。

ということで、本日はふとんと毛布の上下関係。
ちょっと飛躍して無理矢理感ハンパないかも知れませんが、お許しを(笑)。
わたしは生まれてから半分、30年間ほどは
いまの羽毛ではなく、綿のふとんにくるまれておりました。
そういうころには、毛布というのはカラダに直接触れていた。
その上に綿の布団が乗っかっていた。
で、30数年前頃に、ふとんが羽毛布団に変わった。
ちょうどわが家を新築した当時にも当たっていたので、
家中高断熱で、羽毛布団だけでずっと過ごすことが多かった。
その後出張が極端に増えてきて、旅先の布団も羽毛が多くなったけれど、
寒い時期になると、出張先ホテルでは夜の寒さに耐えられなくなってきた。
そこで「あの、毛布ください」と頼んで、掛けて寝る機会が増えてきた。
そのころから羽毛布団の下に毛布を掛けるか、
それとも羽毛布団の上に掛けるか、考えるようになった。
当初は、それ以前のように中に入れる掛け方をしていたのですが、
どうも具合が良くない、違和感が増してきたのですね。
羽毛布団の肌ざわり・寝心地に慣れたせいなのか。
で、一度、羽毛布団の上に毛布を掛けてみた。
そうすると、羽毛布団の体感と毛布の保温性がマッチして
まことにちょうどいいということに気付いて、
以来、ずっと上に掛けるようにしている次第。
ただ、なんとなく体感的にそうしているだけだったので、
世間常識的にはどうなのか、あんまり知識がなかった。
自分はちょっと常識的ではない特殊な寝具利用習慣なのではないかと、
内心ちょっと不安なまま、ここ30年間以上過ごしてきていた(笑)。

こういう「ちょっと自分は違うのかなぁ」感の疑問解消には
インターネット情報というのは、まことにちょうどいい。
で、わたしのような疑問を持っている人も多いことを知りました。
いろいろな情報を総合すると、やはりわたしの体感は常識的なのだそうです。
羽毛布団では、毛布は上にかけた方が合理的とのこと。
長年の喉の奥の支障が解消したような、晴れ晴れ気分であります(笑)。
日本人の寝具が羽毛布団の登場で大きく変わったことが
こうした生活習慣の変化を生んだのでしょうが、しかし、
こういった変化は、情報としてあんまり拡散はしていないと思われますね。
閑話休題のテーマでした。 さて、書斎仕事、集中するぞ!
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古代ヤマト王権 各地支配者への威信財授与

2016年01月20日 06時11分50秒 | Weblog


年末に行った中国地方の旅、
家族にガマンしてもらって、出雲大社隣の博物館を駆け足で見学。
で、この島根県立古代出雲歴史博物館での展示からであります。
この博物館、おおむねの展示については撮影が許諾されています。
きっと、大いに拡散して欲しいと言うことを願ってのことなのでしょう。
古代の出雲大社本殿の模型など、わかりやすい展示に工夫している。
そのなかで、きょうは古代ヤマト王権から出雲の支配を授権された
首長の「威信財」の様子についてであります。
キラキラしたる装飾性について、かなりこだわっていた様子がわかる。
権力を行使する人間の「神聖性」主張がわかりやすく伝わってくる。

日本に成立した古代の「神聖王権」では、
各地域の実質的支配者、首長に対して中央王権の側から
さまざまな「威信財」授与が大きな政治的意味を持っていたとされている。
古代の「権力機構」は、その正統性について、わかりやすいかたちを
求めていたのだろうと思います。
なぜ自らがひとびとの上に立って、支配命令することが出来るのか、
その説得の意味で、キラキラしたものというのが、
この時代、もっとも「神聖性」を訴求できたのだろうと思われる。
ヤマト王権に先行した出雲の分権的な権力機構は、
銅剣や銅鐸を贈ることで、その地域での権力の装飾性を高めたのだと思う。
吉野ヶ里遺跡でも、その地域の権力者は、
金属加工の専門集団や、陶器生産の専門集団などを
自らの権力機構の主要なパートとして利用していたとされる。
弥生式農耕、コメ生産には労働集約化と金属製農具の利用が欠かせなかったことを
このことは明瞭に表していると思える。
出雲王権からヤマト王権への「国譲り」故事には、
この金属加工技術での、銅製品から鉄製品への変化の側面があると思う。
このジオラマの説明では、
「6世紀後半、太刀や馬具がもっともきらびやかだった時期の
出雲西部の大豪族の装いを、出雲市内古墳の出土品から復元しました。
身につけた冠や太刀、馬具などは、いずれもヤマト王権への奉仕に対して
与えられたもので、かれが出雲西部で最高位の豪族であることを
ヤマト王権が認めるものでした。」と、されていた。

さまざまな考証を経て、こういったジオラマ制作はなされているのでしょう。
はるかな時間を超えて、支配や権力という営為について
まざまざとなにかを伝えてくれていると思って見ていました。






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どうやらドカ雪到来、むむむ

2016年01月19日 05時37分16秒 | Weblog


さてさて、きのう東京、関東圏で大きなニュースになっていた
「大雪」ですが、きょう明日は北日本、とくに北海道直撃ですね。
こういう太平洋岸を爆弾低気圧として通過するヤツは
札幌、道央圏は案外影響が出ないケースが多いのですが、
今朝5時前の段階でそとを確認したところ、
ついにことし初めての「ドカ雪」到来のようであります。
でもまぁ、いまのところの目視では20cm~30cm程度の積雪ではないかと。
ただし、この雪の降りようではかなり長時間、降り続きそうです。
たぶん、きょうから明日いっぱいまで除雪に追われると思われます(泣)。

そういうことなので、
ブログをゆっくりと構想して書き綴るのは、本日は自重して
雪国人としての業に従って、従順に雪とふれあってきたいと思います。
別にそんなに仲良くはしたくありませんが、
「お~~い、遊ぶべ~~」と呼ばれている以上、
覚悟を決めて、どうせならにこやかに対応したいと思います。
でも、昔、20年くらい前に
この時期に道東道北の各地を取材で行脚していた経験があります。
5~6年続いていたのですが、どうしても大雪に遭遇しました。
一度など、それこそ猛吹雪の中を雪中行軍。
中標津から弟子屈までの夜間通行で、中標津を出発したら、
すぐにその道は「通行止め」になったなかを走った。
いや、走れずに、道路脇のポールを1本1本確認しながら
「止まったら、吹きだまりで助からなくなる・・・」とノロノロ運転。
幸い、カメラマンとのふたり旅だったので、
お互いを励ましながら、恐る恐る走行した。
30数キロの道のりですが、途中、すれ違った対向車は1台のみ。
道の半ばほどにシェルター状の「防雪」トンネルがあり、
そこでのビバーク、緊急野営すら考えたのですが、
しかし吹雪の状況から考えて、こっちの装備も不安で、
しかも緊急用の食料も持っていなかったので
そのまま、再度トンネルを抜けて吹雪の中に突入したのでした。
やっとの思いで弟子屈の街の灯がおぼろげに見えたときには
生まれて初めて、命の危機からの脱出感を味わった次第。
出発が午後6時頃で、当日宿泊予定の温泉のホテル到着は午後9時半頃。
とっくに食事時間は過ぎていたのですが、
残り物を食べさせていただいて、お風呂に入って
ため息を腹の底から絞り出していましたが、
疲労感、その残留感がなかなか抜けなかった(笑)。

まぁ、北海道にいれば、年に1回か2回は、
こういうドカ雪はかならずやってくる。しょがありませんね。むむむ。


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2016冬本番、雪本格化

2016年01月18日 06時27分05秒 | Weblog
小雪傾向をブログで書いておりましたが、
ついに本格的な冬、降雪が札幌にもやって参りました。
折しも札幌雪まつりのシーズン到来でもあります。
やっぱり雪の量は、シーズンを通せばそう大きく変化はないのでしょう。
ここまでの小雪に感謝し、これからの雪に対処していきたいと思います。
本日は、関東・東京でも大雪の知らせですが、
みなさん、気を付けてください。

ということですが、
写真は隣家がことしから導入された除雪機。
新築の25年ほど前当時にはわが家もロードヒーティングでの
融雪をしていたのですが、
やはり石油価格の高騰もあって、やがて断念。
どう考えてもサスティナブルな選択とは言えませんでしたね。
いまは雪の日にはおおむね1時間半程度をかけて、自宅と事務所の除雪を
手作業で行っております。
健康維持の面ではたいへん好都合とはいえ、
やはり除雪が続くと身体中のあちこちから悲鳴も上がってくる。
ここ数日の除雪作業でも、もうすでにカラダが痛い(笑)。
みなさん同じ悩みを抱えられていることは明らか。
そういうなかで、こうした除雪機購入というのもひとつの手段。
ただ、除雪機は自宅程度の面積ではもったいない。
わが家は事務所スペース50坪ほどの除雪も必要なので
検討しているのですが、その場合、近いとはいえ、300mほどの
距離があるので、機械の運搬をしっかり考えなければならない。
あのノロノロの動きで往復600mというのも非現実的。
さりとていちいち自動車への積み下ろしも
考えるだけでも面倒くさい、う~~む、というところ。
で、その上、除雪機ってメンテナンスが大変。
最大の難敵は雪の中にある石などの機械破損原因物。
カミさんからその経験者の話を伝え聞いて、躊躇しているのです。

しかし、高齢化の進展を考えると、
このまま、体力勝負というのも辛そうであります。
きのうは豪雪地帯の三笠の親戚を訪ねましたが、
雪との戦いには除雪機は必要不可欠という状況。
・・・というような雪国らしい悩みは、変わりなく押し寄せてきます。
お隣さんもわが家前の一部にもこの除雪機出動してくれています。
「どうせだから・・・」というお申し出なのですが、
それもそれで恐縮してしまいます。
悩み多く、雪との戦いが続く札幌の冬であります。

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シメのさっぽろラーメン横丁

2016年01月17日 07時31分45秒 | Weblog
先週金曜日には、札幌の住宅関係団体・ソトダン21のセミナー。
東大准教授の前真之先生、札幌の建築家・照井康穂さんの講演でした。
それぞれに興味深いテーマの講演で、また追って触れたいと思いますが、
年明けで「あけまして」というあいさつの集中特異日。
会う人会う人、みんななので、すっかり楽しい会合になってしまい、
わたしはほとんどの会合では1次会で失礼するのですが
なんと、ふと気がついたら2次会にまで参加しておりました(笑)。
まぁ別に気絶していたわけではないのですが、
ついつい、という昔の「ノリ」が出てしまった次第。

で、そうなると、2次会終了後も勢いがついてしまって、
昔のススキノ逍遙クセが出てしまいまして(笑)
「あの店はどうしているんだろうか?、お、ここはあったはずだよなぁ」
などと「酒場放浪記」を勝手に自己演出しておりました。
三つ子の魂百まで、といいますが、
どうにもこういうのには困った次第であります。
で、数軒のお店を「ハシゴ」、といっても空振りが多かったのですが、
その後、歩き疲れてお腹が減って
ついつい寝る前にも関わらず、「シメのラーメン」を食べたくなった。
こういう店選びの逍遙もなにか懐かしい。
年齢とともに、アブラギッシュ系の味付けはカラダがつらくなってきて
「とにかくあっさり」系を探し求めるのですが、
なかなかそういうのは絶滅危惧種になっている。
どうしても目立たないあっさり系はPR効果が薄くて、
ギトギトアブラギッシュ系の跳梁跋扈であります。
そんななかで、「弟子屈」というお店がなんとか目にとまった。
ここは、たしか、わが家の近く西区にもお店があった。
で、いちばん「とにかくあっさり」系とおぼしき塩ラーメンを。
「あの、麺は柔らかめで・・・」
これに店特製のコショーをたっぷりとふりかけて、すすらせていただいた。
考えてみたら、食事会では最初の乾杯をさせられて以降、
ほとんどお話しばっかりで、食べ物はごくわずかしか食べていなかった。
そこにたくさんのお酒が胃の中に流し込まれて
お腹はずいぶんとつらい日だったようなのです。
そういうなかには、この塩ラーメンはなかなかやさしい。
こうやって深夜に食べてしまうと翌日不調のことが多いのですが、
きのう1日、そんなことはありませんでした。
久しぶりの夜中のシメのラーメン、ごちそうさまでした。



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中国経済危機、チャイナリスク炸裂

2016年01月16日 07時08分36秒 | Weblog
年初来の中国経済危機が、いよいよ危険水域になって来たのかも知れない。
折しも、きょう16日にはAIIBの発足式典というのがあるそうだけれど、
そこに習近平が姿を見せる。
どういったメッセージを出すつもりなのか、
ほぼ破綻の様相を見せている「共産党による株式市場管理」について、
世界は大きくその余波を受けている。
その責任者として、収拾への道筋のプランが提示できるのか。
この間、株式市場運営で不透明な操作を繰り返す共産党支配には
中国人自身がまったく信用していないことがあきらかになった。
なりふりかまわぬ株価維持への資金供出に対して
中国の株式市場はひたすら売り圧力をかけている。
まさに自業自得のような局面に立ち至っている。
さらに窮していけばそもそも「売る」行為に対して厳罰でも科すのではないか。
共産党独裁であれば、そういった選択肢さえ繰り出す可能性がある。
そんな危機を生み出し、世界経済にも危機を波及させている中で
どうしても顔を出さなければならないこの場で、
中国独裁政権の「指導者」は、なにを語るというのだろうか。
リーマンショックはまだしも、民主主義で信認された指導者が
市場に立ち向かうことを明確にして、危機離脱のために対応した。
そうした「資本主義の構造から来る危機」には、
これまでも何度も歴史は遭遇し、経験値を積層させてきている。
しかし歴史は皮肉にも、共産党独裁のまま経済発展した国に
こうした危機という「本格的試練」を課しているようにみえてならない。
こういった危機に習近平政権は対応力があるのだろうか。
市場原理がそこに働けば、困難であっても、市場自身が
自律的再生の道を探るようになる。
しかし共産党独裁権力では、悲観的にならざるを得ない。

どうやら人類史がなんども経験してきたような
「中国国家の破綻」が、ふたたび生起しようとしている可能性もある。
あってほしいとは考えないけれど、
東日本大震災を経験して、どんな歴史的大事件、大災害も
起こるべくして起こるのだと身をもって知ったことも考えれば、
いま、そういった歴史が歯車を回す局面なのかとも思う。
こういうことは過去にも起こったのだし、
そういった教訓に踏まえれば、その必然性はあるのだ。
どんな大津波が襲ってくるか、
未曾有のことが起こりうるけれど、そこまで考えてムダではないような
そんな事態が進行している可能性がある。
日本史で、中国の「革命」によって、日本がどのように影響を受けたか、
そういった経験値を再考してみる必要がある。
古代には、大量の「難民」が、日本列島にやってきたことがわかっている。
秦という地名は、京都太秦に残っているし、
朝鮮からだけれど、百済からは王族も含めて集団移住で
関東に入部したとされている。
中国の動向から世界は波乱の様相を強めてきていると思います。

<写真は無関係。直島のパビリオン建築とおぼしき建物>
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無事、健康診断クリア!

2016年01月15日 06時44分55秒 | Weblog
きのうは、やや緊張気味に健康診断へ。
運動不足とおいしい食事、年末年始の会食続きの結果が
どのような診断結果になるか、不安いっぱいで出掛けた次第。
星旦二先生のお話しを聞いてから、
「世界中では、やや小太りで良く動けて、体温高め」というのが、
健康長寿の表れである、ということを信じることにして
あんまり気にせず、食事にもこだわらない生活を続けていました。
そういうことなので、一般的な「医療」体制の側からは
重箱の隅をつつくような指摘が出ることを覚悟はしていた・・・・。

結果としては、まったく予想通りの結果でありました。
体重は対前年比1kgほどの増加。
その結果が血液検査での数値のいくつかに影響して
「健康」の範囲から若干の幅、2~3%程度の割りでオーバー。
その範囲でも、お医者さんからは「可能性がある」というようなお話し。
神妙には聞いていた次第ですが、
わたしとしては星旦二先生のピンピンコロリ健康を目指して
こういう重箱の隅みたいなことは気にしないで、元気に体を動かし
健康に食欲を増進させ、バランスの取れた生活をしたいと思います。
ご忠告ありがとうございました。
・・・なんですが、年々あの「バリウム」検査がきつくなってきました。
わたしは20代末に「胃潰瘍」で入院した経験があります。
胃カメラも辛いのですが、バリウムもきわめて辛いのであります(泣)。
はじめてバリウムを飲まされた当時は「下剤」もいただけなかったことがあり、
体内であの液体が硬化してしまって、排出に往生したことがある・・・。
それ以来、直後にしっかり下剤を飲んでいるのですが、
きのうはどうやら効き過ぎのようで、1日、トイレの近くで過ごしていました。
結果、体力をだいぶ消耗したようで、早々に爆睡・沈没していました。

この「胃潰瘍」については、
その当時お世話になった病院で退院の時に、主治医の先生から
まっすぐに目を見つめられながら、暗い声で
「潰瘍は、かならず再発しますから・・・!」っていうような
地獄の底から絞り出すような「強・暗示」にも似たお言葉をいただいた。
そのお話しを聞いたとき、
「おいおい、ようやく退院って言うときに縁起でもない」と
強い違和感を医療側の姿勢というものに感じたことがあります。
で、強く「絶対に胃潰瘍は再発させたくない」と決意致しまして、
おかげさまで、その後35年間ほど、この胃潰瘍とは無縁の状況です。
自分で制御できないようなストレスは一切溜めないように意志を固めた、
っていうことが大きいと思っていますが、
機縁をもらったその時の先生には、今はむしろ感謝しています(笑)。

っていうような次第で、ことしも定期健診クリア。
で、帰って来たら、写真のようなおいしいイチゴが待っていました。
住宅関係の情報通、宮城の酒井さんからのプレゼントであります。
農家も営んでいる酒井さんのうれしいお土産。
まことに楽しくいただきました。ありがとうございました!

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Replan 暮らしデザイン塾 韓国視察旅行

2016年01月14日 05時25分49秒 | Weblog
この3月に工務店ビルダー様向けの韓国古建築見学のツアーを計画しています。
木造住宅の東アジア・韓国での歴史的遺産にふれて、
日本の在来工法のデザインの「温故知新」の契機にしようというもの。
以下、ご案内の概要を記します。
ご興味のある方は、下記あてメールをお寄せください。

2014.3.07-10 
Replan 暮らしデザイン塾 韓国視察旅行のご案内

わたしたちは北海道で日本住宅の伝統工法である在来工法を
高断熱高気密に改良する住宅革新を継続して発展させてきました。
その過程では、北欧や北米が主要な技術摂取の対象とされてきました。
今日その成果は全国に波及し、その発展は目覚ましいものがあります。
しかし翻って考えてみれば、この木造技術は東アジア世界と
切っても切れない関係において発展してきたものであることは疑いありません。
わたしたちの今日的な木造文化、技術のさらなる発展のため、
今回、近くて縁遠かった隣国・韓国に、その文化の精華である古建築を
旅する企画を立案しました。かの国のプライドに触れ、
その精神性にまでいたる生活文化を深く理解することは、
必ず、わたしたちのさらなる技術・デザイン進化に役立つものと確信します。
ぜひ工務店ビルダー様のご参加をお待ちします。

写真案内★見学訪問地のひとつ~世界遺産・良洞民俗村(ヤンドンマウル)
54戸の瓦屋敷と110戸の藁ぶき家屋が現存しており、その保存状態や規模、
文化財の数と伝統性、自然の美しさから、村全体が重要民俗資料第189号に
指定され、2010年にはユネスコ世界遺産に登録されました。~

※【お申し込み方法】
◎2016年1月19日(火)までに、メールにてお申し込みください。
メール送信先: 株式会社 札促社 E-mail:nihei@replan.co.jp
追って、お申し込み受付確認のメールをお送り致します。
メール内容: /会社名/参加者氏名/年齢/連絡先メールアドレス/
電話番号/その他シングル希望の有無などをお知らせ下さい。
◎FAX申込み  011-644-5831

旅行期間/2016年3月7日(月)~2016年3月10日(木)
<全食事・現地ガイド付き>
旅行日程/ 「旅行日程表」 をご参照下さい。
旅行代金/お一人様 135,000 円 ツイン2名1室:スーペリアクラス

●韓国視察旅行 「旅行日程表」
3月7日(月)
新千歳14:05
ソウル17:05 航空機KE766便で新千歳発、ソウル仁川空港へ
    入国手続き後、専用車で市内へ
夕食後(骨付カルビ1,5人前)、ホテルチェックイン
ソウルロワジール明洞または同等クラス
3月8日(火)
9:00 専用車専用バスにて京畿道龍仁へ(約90分)
10:30 龍仁民俗村視察 ※現地文化解説員付き
12:00 韓国民俗村にて昼食(現地食;クッパプ又はプルコギ丼)
13:00 慶北安東へ(200㎞;約2時間30分)
15:30 安東河回村視察(90分) ※現地文化解説員付き、屏山書院
18:00 夕食(地元料理;安東市場にて安東チムダック)
19:30 ホテルへ 安東RICHEL
3月9日(水)
9:00 専用車良洞民俗村へ(124㎞;約2時間) ※現地文化解説員付き
11:00 良洞民俗村視察
12:30 昼食(現地食)、慶州へ(約40~50分)
14:30 慶州着、世界遺産の仏国寺、石窟庵観光
17:30 釜山へ移動
19:30 夕食(サンギョプサル1,5人前)、夕食後、ホテルへ
釜山コモドホテルまたは同等クラス
3月10日(木)
専用車朝食後、免税店に立ち寄り、金海空港へ
出国手続き後、帰国の途へ
釜山14:00 航空機KE771便で空路、新千歳へ
新千歳16:15 着後、解散

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一年の計は健康診断にあり(汗)・・・

2016年01月13日 06時33分50秒 | Weblog
わたしどもの会社では、年の初めに社員の健康診断を実施しています。
旧年中の仕事疲れを少しでも癒せる年末年始期間を置いて
すっきりとした気分で新年からの仕事に邁進しよう,という趣旨ですが、
まぁ年明けがいちばん時間的ゆとりがある、ということでもあります。

なんですが、年末年始にはどうしても飲酒や食事をたっぷり食べる機会が多い。
そこが大問題であります(笑)。
11月の末に大雪がドサッときた関係で、
朝の散歩も1カ月ほど前からすっかりご無沙汰になっている。
それ以外には、カラダを動かす積極的な機会はない。
という結果、体重増加は自然な趨勢(笑)・・・。
ここが問題点の最たるものであるワケであります。
そのちょうど運動不足の頂点の時期にこの健康診断は巡ってくる。
またことしの冬は、はじめにどっと降雪があったけれど、
その後はまったくまとまった雪が来ないので、雪かき運動もできていない。
一方で、写真のようなすばらしい美食にはあちこちでめぐり会う(泣)。



うーむ、困った次第。
こういうときにはやむを得ず、非常手段で絶食とかに考えが・・・。
しかしそれも徹底できぬまま、ついにあした、健康診断となってしまいました。
多少は減食気味にはできたのですが、
それでもここ1週間程度のことなので、さてどうなるか、
不安いっぱいではありますが、まぁしょがない。

継続はなによりもいちばんの力だと思います。
毎年同じ時期に、健康診断を固定化することで、
比較対照することが出来るので、自分にいろいろ命令指針を持てる。
自覚的な健康管理という意識が一番なのだと思っています。
一年の計は健康診断にあり、そんな心境であります。




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神楽からテレビまで 劇的なるものの歴史

2016年01月12日 05時57分23秒 | Weblog
わたしは学生時代には、ちょうど70年安保の時期でして
いや、正確にはそこからの運動退潮期にあたっていました。
高校生の頃には、政治的な運動に主体的に関わっていたのですが、
学生時代は自覚的に距離を置いていまして、主に演劇クラブに所属して
早稲田小劇場とか、唐十郎の赤テント・状況劇場などに興味を持っていました。
そこから徐々に、演劇の歴史というようなものにも興味を持つようになりました。
とはいっても、専門的な興味を持ったのではなく、
その推移とか、ドラマの内容などからの、歴史過程に興味を持ったのです。

演劇って、人間社会に普遍的に起源を持つものだと思います。
狩猟採集時代に、夜、たき火を囲んで,その日生起したことなどを
おもしろおかしくファミリーに語り伝えるものとして、
ある主体者の考え方に基づいて、整理された内容が伝えられたのでしょう。
そういった初源的な出自の人間営為が、ある部分は文学になり、
ある部分は音楽になったり、そして演劇になったりした。
人間社会の推移発展に伴って、文化総体そのものも進化してきた。
そのなかでも「劇的なるもの」は、まことにわかりやすかったのでしょう。
わたし的には、古代の白村江の戦いに出陣する軍を鼓舞するのに
その美貌を謳われた額田王が演じた、あるいは檄を飛ばしたとされる故事に
まことに「劇的なるもの」を感じておりました。
演劇の演目というのは、現実に人間社会で生起し、
その概要を多くの人が情報共有していることを選択することが多い。
日本人が好きな演目として「忠臣蔵」というものがあるし、
最近わたしが大好きな「神楽」でも、演目はおおむね政治的出来事。
時代を「生きる」という意味で、その最前線で生起する政治ニュースは
まざまざとその時代を映すことであり、多くの人の興味を掻き立てた。
全国に琵琶法師という語り部を派遣して、平家滅亡の様子を
ドラマとして拡散した故事は、日本人の感受性形成にまで与ってもいる。
演劇史は同時に「メディア」の発展史でもあり、
ムラという生産単位ごとの「鎮守の杜」での「まつり」の時に
小屋がけして劇空間が出現し、庶民に共同幻想空間を提供したころから、
出雲の阿国が京都で小屋がけして大反響を得たり、
江戸の消費社会で、歌舞伎が一世を風靡したりした。
明治以降、映画という表現が出現して人々を魅了し,
やがて戦後、現代世界のテレビメディアまで、大きく変遷してきた。
面白いのは、こうした演劇スタイルは「積層」していくということ。
テレビが出来ても、やはりムラ祭りでは神楽が奉納されたりもしている。

先日も、戦後日本ドラマの主流を担った司馬遼太郎さん原作作品の
「関ヶ原」に見入ってしまいました。
文学作品としての「関ヶ原」はそれこそ暗記するほどに読んでいるので、
まるで一場一場の歌舞伎場面のように、セリフも頭に入っている。
高度成長時代そのものの時代背景から、豪華キャストが林立し、
日本人がもっとも好きな戦国末期の動乱ドラマを描き出していた。
見終わって、こうした司馬遼太郎ドラマというものも、
すでにして歌舞伎や神楽のような、そういった歴史に入ってきている、
そういう感想を強く持った次第です。
江戸時代の歌舞伎と近松門左衛門のような極めつけとして、
高度成長期テレビとの相関関係で、司馬遼太郎さんは語り継がれるのかも。
そんな感覚を持つようになること自体、
ちょっと不思議な気分になったのですが、そうやって歴史は
進んでいくのだなとも思えた次第であります。
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