三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【少年国家ニッポンと空海さん~2】

2016年05月11日 06時02分49秒 | Weblog
きのうの続きですが、タイトルは変えました。
写真は復元された「遣唐使船」だそうで、上海万博に展示とか。
白村江での唐・新羅連合軍への決定的敗北は、古代史でも最大の国難。
とくに唐の先進的国家力にふれて、深刻な国難を意識したに違いない。
かならず唐の軍事的侵攻があると焦燥し、ときの大王継承者・天智は
数年間、即位することができなかったとされています。
その後、天智から天武へと王統の交代事変、672年壬申の乱も起こり、
天武の即位にいたって、ようやく権力の体制が固まり、
天皇位を新設し即位した天武は、古代的中央集権国家機構を樹立した。
そして同時に世界宗教としての仏教を招来させ、
律令と仏教興隆との両輪で、新しい国家・日本を成立させていった。
国司の派遣・地方支配と国分寺建設は不即不離の国家建設構想。
その国家意志が、より積極的な「遣唐使」派遣という形になっていった。
それまでのいかにも「東夷の国」という響きを持つ「倭国」から
「日本」という国号変更も、外交交渉で唐王朝に認めさせている。

そういった対唐朝貢外交が百数十年後の、
この804年の空海の遣唐使でも継続している。
中華の文明の徳を慕って来たる東夷の若い国が日本だった。
この遣唐使に於いて空海は日本人として未曾有の成功を収める。
当時の長安で密教の第一人者であった第7代の「恵果」から
第8代の法統を嗣ぐものとして、密教のすべてを伝受した。
この時代に限らず、世界に通用する日本人として「国際人」であった。
唐の皇帝にも謁を受け、その筆を愛でられたとされる。
空海は宗教者であると同時に、書に代表されるように
芸術者・文化人としても一級の国際人だった。
遣唐使船が難破して上陸した地で、一行は海賊とみなされ扱われたが、
空海が大使に替わって上表文をしたためたところ、
即座にその上表文は皇帝にまで意が通じ、一行への扱いが一変した。
東夷の島国から来た空海は、その当時の唐でも文化サロンの
中心にすぐに席を占めることが出来たとされるほどの才に恵まれていた。
日本が生んだ天才の嚆矢とでも言えるのかも知れない。
その国際人の目線で日本に臨んだはじめての日本人ではないかと、
司馬遼太郎さんは、書き綴っている。
まだ草深く、未熟な「国家社会」である極東の小国家・日本は、
こうした段階を経過してきたのだという事実を知らされる思い。
国家社会の急速な発展を目指して、わたしたちの先達は
若々しい熱情を持って、こうした「文化受容」に邁進してきた。
その律令と仏教思想による鎮護国家政策をひたすら信じて驀進していった。
空海個人のことを考えれば、そのまま長安で生きる方が幸せだったかもと
司馬さんは、そんなふうにも表現している。
しかしなぜ日本は、朝鮮のように冊封という形にならずに済んだのか。
中国皇帝に対し、なんども「小中華」を志す底意を見せ続けた。

中国に対してその国家機構の導入・文化摂取という姿勢を持ちながら、
一方で距離を保ち続けようとした少年国家としての
日本のありようは、ある意味、いじらしいまでに感じさせられる。
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【空海さんに見るアジア・日本の文化社会発展史 1】

2016年05月10日 08時45分25秒 | Weblog
住宅という本論とは違うテーマです。お許しいただきたいと思います。
連休中、司馬遼太郎さんの「空海の風景」を読了できた。
この著作は、1975年ころの単行本発売当時書店で立ち読みしたけれど、
どうにも時代背景も話題の展開の仕方も、
たいへん難解そうで、とても読み進める知的な基礎体力が
20代半ばの当時の自分にはなく、読書挑戦を諦めていた本でした。
最近、昔よく読んだ司馬遼太郎作品の電子書籍になっているものを
ダウンロードして読む機会が増えてきています。
雑誌以外は紙の本の読書から電子形態に、読書習慣が変化してきて
ちょっとした時間のすき間でも、iPhone⇒Kindleというように
紙の本よりもはるかに連続して集中して読むことが出来るので
知的好奇心の幅と深さが増してきていると思っています。
現代人は過去の人たちとは違って、圧倒的に「移動」する存在。
時間の感覚は、非常に細切れ化しているので、
いちいち、書棚から取りだして移動に持参するという
一冊の紙の形態ではむずかしい。うっかりと忘れるという機会も増えていく。
寸暇が出来たときにも読み進められる電子環境というのは
人類知の段階がもう一歩進んだのではないかと思量します。
移動時に全部(現状ではそうなっていないが)興味分野を持って歩ける
というような環境というのは、人類未到の段階になったと言って過言でない。
ただし先述のように、雑誌は基本的にビジュアル的訴求媒体なので、
集中力の性質的に電子形態メディアには移植しにくいと考えています。

さて、横道逸れが長くなりましたが、司馬さんの空海「論」であります。
この本の中で司馬さんは繰り返し、千年も昔の人間の息づかいにふれる
難しさを語り、小説というかれの本業表現に至らなかったとしている。
気分として「風景」というタイトルを使った意味合いが伝わってくる。
しかし司馬さんに触発され、「遣唐使」という日本社会が取った営為について、
わたしには、その意味合いからして立ち上ってくるものがありました。
空海は、最澄と同時期に遣唐使として唐最盛期の長安に804年に行った。
日本社会が、政治的に「国家」形成し社会的に「文化文明」を導入しようとした、
その最先端の光源としての地に、決死の覚悟で向かう熱情を思わされる。
日本の航海技術からして、この当時はまったく世界に後れを取っていた。
遣唐使のほぼ半分は難破してしまうという時代に、
文明の精華である「仏教思想」を命を賭して受容に向かった。
それに選ばれることも難関であり、帰り着くことも至難であった時代。
それだけ、日本という国家社会は揺籃のときにあったということ。
個人のいのちの重さというものの価値感は、時代によってもまったく違うし、
この当時の人々には、命を惜しむということよりも、
なお強い使命感が勝るということを思わされる。
ちなみに本を離れ、その当時の彼我の人口を考証すると
日本は平安初期で約550万人(上智大学教授・鬼頭宏さん資料より)
一方最盛期の唐は玄宗皇帝天宝14年戸籍登録人口、52,919,309人。
(中国の人口の歴史~広島大学助教授 加藤徹さん)
というような推測数字を発見できる。
国家社会の生産力が養いうる人口規模がこの程度だった時代。
発展の基盤としての文化文明の導入は、まさに焦眉だったでしょう。
663年の白村江の戦いでの唐・新羅連合軍への敗退からの
国家的危難を経て、先進文明受容に向かった激烈さが立ち上ってくる。
国家機構を徹底的な文書主義に染め上げ、漢字言語すら導入した日本。
世界宗教としての仏教は、その文化文明の核心に当たっていた。
必死に文明化しようともがいていた国・社会だったと痛切に思います。
~長くなりそうなので、あした以降に続けます。

<写真はWikipediaから。空海さんの「風信帖」の真筆だそうです。>
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【名勝、函館香雪園・園亭再訪】

2016年05月09日 07時03分51秒 | Weblog


サクラは札幌ではあっという間に咲いて、
そしてあっという間に葉桜に一変してしまっています。
この間の気温、天候などが成せる技なのでしょうが、
日本民族的なお祭り感が、札幌では一陣の春風のように
ほかのたくさんの春の胎動のなかに紛れてしまって、
じっくりとした余韻を感じることなく、通り過ぎて行ってしまう。
そういうのが北海道らしいともいえるのでしょう。
さてゴールデンウイーク中に、表題のように
函館に行ってきたとき、再度この茶亭を見学して来ました。
この香雪園を含む「見晴らし公園」では、ほどよい距離感で花見+BBQの
家族連れが刳りだしていて、ほほえましい情景。
本当に1本のサクラごとに1家族でBBQのコンロを囲んでいる。
春の陽光をたっぷりと浴びて、まことにのどかでありました。

この香雪園園亭、1カ月ほど前にはじめて訪れたのですが、
江戸末期から明治にかけて和服を商って財を成した「岩船家」が
その利益を注ぎ込んで造営した庭園です。
サクラの時期も紅葉の時期もすばらしいということで、
再訪させていただいた次第です。
今回は、やや枯れてきた池の方角から
外観を撮影してみた次第です。
この池には庭園内の地下水が組み上げられて使われているのですが、
年月を経て、その水が周辺の開発によって影響を受けているようです。
やや水量が乏しくなっています。
本来であれば、設計意図としてはもっと水かさの多い池の
水面からの反射光も期待されるのだろうが、と思われます。



外観のプロポーションは、まことに「結構」。
屋根頂部から石場建て基礎までのタテの長さと、建築全体の
左右ヨコ巾間隔、そして方形に近い屋根の傾斜角度、
さらに下屋の部分に回されている回廊の配置位置など、
全体のプロポーションは、ずいぶんと検討を重ねたに違いないと思われます。
長い年月、長期にわたっての鑑賞眼に耐えさせるのは、
建築者がもっとも繊細に検討を重ねる部分でしょう。
この建物はおおむね100年以上の歳月を経てきているのですが、
国の「名勝」指定を、和風建築として北海道では
最古であり唯一のものとして受けている存在であります。
北海道だけれど、こんな古格を感じさせてくれる建物として
まことに貴重だと思っております。

今回はサクラの時期にと行ったのですが、
この建築周辺は、やはり紅葉の季節がもっとも似合いの時期のよう。
その時期にもう一度来てみたいと、余韻にひたっておりました。




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【宇宙創成の大元霊? 国常立尊~道内神社探訪】

2016年05月08日 06時04分06秒 | Weblog


本日はGW最終日なので、ちょっと住宅ネタはお休みをいただいて
趣味世界にどっぷりとハマってみたいです(笑)。
仕事柄、建築に関連することには興味は尽きないけれど、
同時に建築っていうのは、人間の営みの表現でもあるので、
当然、その積層である歴史にも興味は向かいます。
その両方が同時に充足できるというか、
そういった二面性にふさわしいと思われるのが、神社仏閣の類。
仏閣はアジア世界での共通文化受容という側面が強いけれど、
より在地性、古格を感じさせてくれるのが神社ですね。
ところが、北海道にはそのような歴史はなく、
本来この島の人跡をたどるとすれば、アイヌのチャシということになる。
まぁ、そっちの方もときどき見学させてもらいますが、
やはり考古的感受力の弱さからか、
一気に縄文までこちらの意識を古層に戻さなければ共通性を見出しにくい
アイヌの人たちの感受性世界は、なかなか言語化できない体験。
ということで、北海道内での神社建築見学というのには
どうも余り積極的には向かっておりませんでした。
産土神~うぶすなしん~という、その土地に根付いていた神性が
北海道内ではなかなか感じ取ることができないのですね。
でもまぁ最近、道内あちこちと出掛けるときに
なるべくその地の神さまにご挨拶をしようと考えはじめています。
北海道版の「古社巡礼」というのも、誰かがはじめる必要がある。
まだ百五十年、あるいはどんなに古くても八百年程度ですが、
それなりには、土地の出自が見えてくるケースもある。
そういった発掘を試みてみたいという次第。
今回は2社。室蘭八幡宮と、札幌西区小別沢にある札幌御嶽神社。
こちらは「おんたけ」と読むのです。
室蘭八幡宮は、昨年紹介した「函館八幡宮」から
分祀されたことに由来する神社と言うこと。
1874年(明治7年)に漂着したクジラを売った代価を
神社の造営費用に充てたことから「鯨八幡」と呼ばれたという
北海道には珍しく人間事跡が創建に刻印された社であります。
祭神・誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、応神天皇に比定される武神。
全国の「八幡」社で崇敬されている神さま。
ほかに、保食神(うけもちのかみ)琴平神(ことひらのかみ)という
どちらも鯨さんに由来するとおぼしき楽しい2神であります。
建築のプロポーションは端正でシンプルなお姿であります。

2907

一方は、一見して凛々しいお姿の札幌御嶽神社。
この神社はわが家のひと山越えたあたりに鎮座されていますが、
どうもここ十年前ほどにこちらに移ってこられた神さまだそうです。
御嶽というのは、全国的に崇敬を集める「木曽の御嶽さん」であります。
こちらはその北海道支部とでも言える存在だそう。
ちょっとビックリしたのが、主祭神の「国常立尊」~くにとこたちのみこと~。
はじめて聞いた名前でしたが、天地開闢とともに示現され、
「全宇宙を治め、天地を造化した大元霊」であって、
「人類をはじめ一切の生命・生命活力の根源」だという神さま。
えっと驚かされるほどのスケール感で、雲をつかむがごとし。
どうも不思議に思って、神人の方に質問させていただいたところ、
御嶽山には、仏教伝来以前、あるいは縄文・弥生のころから、
「山岳信仰」があり、仏教者・空海が大成させた密教思想も習合して、
こういった個性的な神さまが祭られてきているようなのです。
社伝を読むと、出雲の大国主命がヤマト王朝に「国譲り」した当時、
御嶽山をいただく信州にその第3王子を国司として任ぜられた折、かれが
霊峰と感受され、以来、この神さまを祭ったのが創始とされるのだそう。
う~む、すごい(笑)。

どうも北海道内にも、こうしたロマン性あふれる神さまが
まだ歴史は浅いながらも、日本各地から漂着されてきているようで、
これはこれで、民俗を楽しく感じさせてくれますね(笑)。
これからも、地道に神話の発掘を続けていきたいと思います。

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【住宅への情報接触「メディア」は?】

2016年05月07日 07時04分51秒 | Weblog
さてきのうからのつづきであります。
きのうはアメリカでの住宅取得プロセスを対比的に見たのですが、
世界標準的にはたぶん、アメリカのようなスタイルが一般的だろうと思います。
そもそも住宅を選択するという行為は、専門的判断力が不可欠なモノ。
だからこそ、住宅取得者がわざわざ物件価格の2~4%という
高額な費用を掛けて「不動産エージェント」を雇うという
重要なワンステップが社会的システムとして組み込まれている。
現にそこに建っていて、容易に実物を確認できる
建て売りや中古住宅がメインの住宅市場においてすら、
そのような市場構造が出来上がっているのですね。
顧みて、それとは比較にならないほど高度に「住宅知見」が要求される
新築注文戸建てという住宅取得方法がメインである日本市場で、
住宅取得者は、なにをもって「情報のよすが」としているのか?

上のグラフは、きのうの円グラフから、
人的情報取得以外の、住情報接触の「メディア」を抜き出したモノ。
・住宅展示場  48.4%
・インターネット  16.9%
・住宅雑誌  13.0%
・新聞チラシ  12.3%
というようになっています。
これが、日本での「住宅選択」の主要な情報源になっている。
ただし、「新聞チラシ」はまったくの一方通行であり、
少なくとも比較検討しうる情報源とは言いがたいものがある。
そうすると、住宅展示場・インターネット・住宅雑誌というのが
基本的な、日本における「住情報」の核心を形成しているといえる。
この調査データで国交省が規定した「住宅展示場」とは具体的には
なにを指しているのか、必ずしも明瞭ではない。
たぶん大手ハウスメーカーが主体になっている集合型が主体でしょうが
土日に行われる散在型の、実際に注文して建てられた
「完成現場見学会」というものもそこには含まれているでしょう。
もしそうでないとすれば、国交省担当者の見識が疑われる。
このように広く判断すれば、大手ハウスメーカーと地域工務店・建築家との
競合不利はそう大きくはないとも言えるけれど、
やはり大きな「住宅展示場」への参加には、多大なコストがかかり、
資本規模による競争条件の不利は、現存している。
そういうなかでインターネット広報戦略は、いよいよその重要性を増している。
そして「住宅雑誌」という存在も、非常に大きな存在といえると思います。

どちらにせよ、
住宅取得希望者、日本では「新築注文戸建て」希望者に対して
可能な限り、ホンモノを選択しうるような「不動産エージェント」機能を
住宅に関わる人間は心がけていかなければならないと思います。


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【住宅会社選びの情報源とは?】

2016年05月06日 05時56分49秒 | Weblog
さて国交省平成25年度住宅購入者調査データ分析のつづきです。
先日来、このページで探求してきたように
日本では「注文戸建て」が住宅市場のメインを構成しているので、
諸外国と比較して「住宅会社選択」のウェートが非常に高い。
ちなみにアメリカでの「住宅購入の流れ」をみると、
日本とは市場構造自体が違うことがよくわかる。
アメリカでのマイホーム購入までのプロセスは以下のようになっている。
アメリカでのマイホーム購入までのプロセス
より要旨を抜粋してみました。

1. 不動産エージェントを決める
物件の案内から売買交渉、登記の手続きまで、買い手側の立場でサポートしてくれる、州の不動産ライセンスを持つエージェントを決める。
2. 住宅ローンの金額設定&ローンの検討
ローン手続きをしてくれるローン・オフィサーに、毎月の支払可能額を見積もってもらう。どの程度の価格の家を購入できるかがわかる。
3. 物件を見る
現在市場に売り出されている物件をエージェントを通して見せてもらう。
物件内容と周辺の環境や学区、交通の便、価格などを比較する。
4. 売買契約&構造検査(インスペクション)
買いたい家が決まったら、希望価格など条件事項を記入した売買契約書をエージェントに作成してもらい、交渉開始。マーケットが活発な時は、構造検査(Inspection)をする条件をつけると、購入のチャンスを逃すことも多々あるが、基本的には売買契約の1プロセスとして、構造検査を行うようにしたい。

というような流れになっている(以降の手続き過程は省略)。
まずは、住宅購入というのは専門的知見を持つ必要があるのだと
最初の段階で、社会的に制度設計されていることに気付きます。
「不動産エージェント」という存在。
売買代金の2~4%程度の報酬で、買い主に専門知識を提供する
代理人(エージェント)を、購入者が雇うことから始まる。
日本人の土地付き住宅購入(建築)金額に当てはめて考えると、
総額3,000万円だとすれば、60~120万円の報酬を払うことになる。
アメリカの場合、というか、世界的には注文戸建てという購入は
きわめてレアケースであり住宅は「実物を見て選ぶ」のが基本。
建て売り新築でも中古でも基本はそうなっている。
注文戸建ての住宅会社の選択を最初にする日本と、
明らかだと思うけれど、合理性はどっちの方にあるのだろうか?
見方によっては日本での住宅購入(建築)でも、住宅会社が
アメリカの「不動産エージェント」の機能・役割をも一部、果たしている
というようにも言えるのかも知れない。
ただし、それはあくまで、オマケのような機能でしかない。
その機能性はきわめて「あいまい」だと言える。
その日本での「会社選び」の選択手法は、図のようになっている。
これをよく検討すると、端的に言って日本では「広告への価値判断」を
消費者に強いていると言えるかも知れない。
モデルハウスにしろ、インターネットにしろ新聞チラシにしろ、
これらはまさに「広告表現」そのものではないだろうか。

こういう産業構造の中では、
できるだけ「不動産エージェント」に近い情報提供を心がけること、
そういった情報提供姿勢が求められるのではないか。
少なくとも「実例住宅の情報」こそが、ユーザーにとって
もっとも不可欠なのではないかと思っています。
地域工務店・建築家の立場に沿って考えてみれば
もっとも小資本で可能な情報提供の王道は、そうなると思います。








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【鄙のにごり湯・露天のサクラ】

2016年05月05日 05時37分53秒 | Weblog


連休のど真ん中、北海道はイマイチの天候。
朝からぐずついて、雨模様の中、函館から札幌への道。
いったん日本海側・江差を訪ねてから旧・熊石に北上、八雲方面へと
「雲石峠」を通って噴火湾側に抜けるのですが、
その道すがら、山道に「見市温泉」という看板発見。
一度は行って見たいと思っていた秘湯でしたので、
さっそくお風呂道具を持って訪ねてみました。
あ、カミさんは爆睡モードに付き(笑)、単独行動であります。

2901

玄関に入っても、なんの説明書きもないので、
そぞろにしていたら、ようやく無愛想そうなひとが出てきたので、
「日帰り入浴はいいの」と聞いたら、
商売っ気なさそうに、「いい」と言う。
なにやら、お金はかからないとでも言いそうだったのですが、
問い返すと「お金を払ってくれれば・・・」ということだったので、
「いくら?」と聞いたら「500円」という名詞だけの会話の末、
クルマに残ったカミさんに財布類を預けて、
いそいそと風呂場に直行致しました。
写真のように、風呂はにごり湯で、内湯はけっこうな高温。
ただ、じっとしているとカラダが慣れてきて、
体表面の熱さには耐性がついてきます。
そうするとじわじわとした温熱感が体奥に染みわたってくる。
浴槽・風呂ともシンプルな造作で、
なんの装飾性も感じられませんが、お湯のホンモノ感はハンパない。
洗面などの装置類は、こちらも装飾性などはないけれど、
シャワーとお湯の切り替えはわかりやすく使いやすいタイプ。
鄙の湯ですが、このあたりの装置選択・使い勝手はなかなか合理的。
無装飾でまったくいいのだけれど、
使い勝手が前時代的というのは、鄙の温泉でも勘弁してもらいたい。
その点では、行き届いていると思いました。
で、内湯の隣にあるお楽しみの「露天風呂」へ。
この露天は、温泉名に冠した見市川に面しています。
その流れ越しに対面側には森の景観が展開している。
流れは雨の関係もあるのか、こちらもにごりがけっこうで早そうな流れ。
このたっぷりの流量の川の向こうに、
なんとも風情のあるサクラが一本、目を驚かせてくれる。
全くの自然とは思われず、やはり宿の心づくしの景色なんだろうと。
で、岩湯の露天も同様のにごりぶりですが、
こっちの方の湯温はやや低くしてあって、
ずっと入っていられるくらいの温度に保たれています。
このあたり、シンプルな鄙だけど、ツボはわきまえている温泉です。

札幌まで200km近く、その後一気にドライブして帰って来ましたが、
疲労回復効果が明瞭だと実感させられた次第です。
北海道八雲町熊石・見市温泉でした。




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 ふたたび函館、観桜のGW満喫

2016年05月04日 06時22分34秒 | Weblog


さてサクラが間に合った北海道のゴールデンウイーク。
たまたま函館でホテルが奇跡的に取れたので
出掛けて参りました。
いつものように夜中にクルマで出発して函館谷地頭温泉で疲れを癒し、
そこから、函館公園その他のサクラの名所めぐり。
ゆっくりこんなふうに巡り歩くのは初めての経験で
上の写真は、北斗市、旧名上磯の法亀寺のしだれ桜ですが、
あちこちにすばらしいサクラ名所があることを再発見。
で、ホテルに早めに入って近くの大門で、
居酒屋さんでいただいたのが、ごらんの「イカ刺し」。
最近はさばく前に「これをさばきます」みたいに見せてくれて
それから、変わり果てたお作りになって再会する(笑)、
なんだか、かわいそうになる食べ方をさせてくれるようです。
メニューもチャイニーズ書きのものしかない種類のものがある。
インバウンド効果での観光需要、函館も旺盛のようです。
なんですが、年寄りとて、冷たい生ビールでお腹がどうも不具合発生。
わたしはカミさんが送ってくれて、ホテルにて静養。
かみさん一人、五稜郭の「夜桜」見物に。
市電に乗っての行き帰りで1時間後、
「いやぁ、なんも、宴会見物だったわ」ということで帰って来ました(笑)。
一応、ライトアップしているということですが、
風情がある、というものでもなかったようです。




写真は先日観てきた松前の様子。
「血脈桜」というもので、なにやら松前の殿様のお姫様にまつわる
怪奇譚のエピソードを持つ名物桜。
いつも思いますが、松前って北海道というよりは、
ニッポンを一生懸命に北海道に移植したという土地。
「開拓した」というような心を感じさせない土地柄ですね。
北海道島の南の最果てで、ひたすらに防御意識のみを肥大化させた
江戸期のあわれな一大名の精神性を想起させる。
北海道ではあんまり見掛けない寒椿など、
ひたすらに「内地」がいいなぁと江戸期を通じて思い続けた
そんな雰囲気を感じさせます。
函館が、高田屋嘉兵衛さんを中心にした街づくりを行って
いわば、民間主導で蝦夷地の開発を行っていたのとは対照的。

そんな道南の風景を本日も楽しんできたいと思います。
でも、きょうはあいにくの天気のようです。
さてどうなりますか・・・。

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【家の終わらせ方「終家」を考える】

2016年05月03日 06時33分55秒 | Weblog
一昨日の投稿、【空き家と廃屋に見る未来~「終家」問題】への関心が
たいへん大きかったようです。
建築を考える人たちばかりでなく、多くのみなさんが気付きはじめている。
分散的な家族形態、都会では家族数が2人を切って、1人台に近づいている
そういうなかで、家の総数だけはまだ増え続けている現実に対して
いったいどういう未来形があるのかと、想像を巡らしはじめている。

そきっかけに、崩壊する家屋、廃屋の風景は
シンボリックに入ってくるものがあるのだと思います。
朝日新聞が流行らせはじめたと言われている「終活」というコトバ。
規格大量生産社会は、現代のわれわれの住宅に大量にその痕跡を残している。
家の中には、絶対に業者が値を付けないようなモノたちがひしめいている。
まずそのようなモノたちの処分問題が大きくなってくる。
少子化社会では、夫婦がそれぞれの親の住む遠隔地の家の
処分の責任がのしかかり、場合によっては自分の家も含めて
3軒の住宅の片付けに忙殺されることになる。
ただでさえ、女性も貴重な労働力として社会進出が期待されている中で、
一方で、こういう「親片~親の片付け」という新たな家族のための仕事が増える。
そのためには、たとえば北海道内で考えても
子世帯が札幌に住んでいて、夫婦それぞれの親が道東と、道北に家がある、
というようなケースでは、子世代はたいへんな労力提供を余儀なくされる。
1軒の家は、その家財道具を含めてずっと使い続けたままに
その利用者に死が訪れ、その片付けには肉親だけしか責任を負えない。
残された家財道具に対する相続すら対応しなければならないし、
モノの仕分けだけでも遠距離を何往復もしなければならない。
その交通費も、労働もすべて無償の持ち出しになる。
しかも仕事に従事しながら、こういう作業を休日だけにするとすれば、
期間は相当長期にわたらざるを得ない。
モノには、人間の尊厳もかかっているから、おいそれとはいかない。
そうやってようやく片付けた後、家屋をどう処分するかを決める必要がある。
売れたり、賃貸にまわせればそれでいいとして、
そうでない場合、大量の廃棄物の処分と、建築の処分費用まで
残された子どもの責任にならざるを得ない。
今の時代、解体するにも「分別解体」が必要とされ、木造1軒でも
100万円は下らない金額が必要とされている。

本当に近未来、こういった作業をせっせと日本人はこなすのだろうか?
やはりこういった社会構造の見通しの中で、
合理的な処分方法を、わたしたちは生み出すことになるのだろうと思う。
もっといえば、いまある資産としての住宅に、
早急に価値判断の「分別作業」を行っておくべきではないのか。
手に負えなくなってからでは、対応のしようが無いと思われる。

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【サクラ<ジンギスカン 札幌円山の春】

2016年05月02日 05時44分45秒 | Weblog


きのうまでの3日間の休みと、あすからの3連休、そして週末土日というふうに
ことしのGWは、適度に分断されておりますね。
本日は、連休の谷間のたのしい仕事日(笑)。

ことしは北海道、連休にサクラの開花が間に合って
各地で美しい様子を楽しむことが出来てありがたい限り。
そんなサクラ、札幌では市内北海道神宮に隣接する
「円山公園」が名所とされています。
なんですが、わたしは観桜では、まず行かない。
っていうか、毎朝の散歩路が円山公園を含んでいるので、
あまりにも身近すぎて、つい足が遠のく(笑)。
写真はきのうの早朝のモノですが、
この円山公園は、花見期間中、ジンギスカンOKというサクラ名所。
まぁ、花より団子というか、
建て前なしのホンネ全開というような光景が展開する。
早朝散歩していると、この時期はカラスが騒々しい。
前夜のジンギスカンパーティの残骸をカラスが発見して
奪い合う、まことに猛々しい様子が、なんとも凄惨なのであります。
どうもそういう様子に、ひ弱なわたしの感性は耐えられない(笑)。
今朝もカラスの跳梁跋扈に閉口して、散歩路変更のやむなきに。
朝の散歩なのに、ジンギスカンの肉のニオイが
サクラ並木に漂っているというのは、どうにもツラい。
この周辺の散歩は、そそくさと足早に、スルーするのが常態です。

でも一方で、こういう2枚目の写真のような
北の街らしいおおらかさがうれしくもある。
他地域のことをそう多くは知っているわけではないのですが、
ここまでおおらかに「焼き肉パーティOKだよ」というのは、
やっぱりあんまり例がないのではないかなぁと。
雪に行動の自由が制約される冬が終わって、開放的な季節のスタート、
思い切り羽を伸ばそうぜ、という勢いが感じられて楽しい。
人によっては朝から焼き肉をはじめている人もいる。
まことにアンビバレンツな心理ですが、
若いときには、ひたすら肉食だったのが、
年とともに、肉はたくさんは食べられなくなったこともあって
最近は、サクラをゆっくり愛でたい方が勝っているようであります。
みなさんいかがお過ごしでしょうか?
それぞれに楽しい春満開を祈っております。


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