三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【豪放磊落 丸太木組みの美感】

2019年09月20日 07時06分36秒 | Weblog


どうもこういう力感に弱くなってきています(笑)。
縦横に丸太が表皮もそのままにあらわされて
くっきりと目に見えるかたちで構造美をたたえている。
まことにシンプルに「こうできているよ(笑)」と語りかけている。
一見「無意匠」というように見えるけれど、
こういう素材そのものをデザインとして完結させるのは
まことに清々しい「意匠」の根源かもと思う。

この建物は北海道のおへそに近い上富良野町郊外にある。
「土の館」という名前に引き寄せられるように
カミさんが運転するクルマでたどりついた休日ドライブの訪問先。
わたしはその間、まったく気絶して眠っていたので
どうして彼女が引き寄せられたのかはまったく知りません(笑)。
気がついたらカミさんがドアを開けてきたのです。
寝ぼけながら「土の館」を見学した後、
隣接するトラクターの展示館を見ていたら、この光景。
この建物の左右幅、上の写真の横方向ですが、
それは窓の長さを基準にしてみてみると約4間超程度。
たぶん10m超はあるのではと推定された。
その長さで梁に利用された丸太は接ぎ木のない1本のようで
しかも見た感じ、太さが「上下」で変わらないようです。
建てられてから20年近いということを聞きましたが、
「これは外材ですけど、今じゃ外材でもこういう材料は入手できない」
というような説明を「土の館」の方から聞きました。
第一、この材料を道路輸送で運んできたこともすごい。
まぁ上富良野ですから、十勝の方から幹線道路輸送だけでしょうが、
端部を含めれば10数メートルの丸太がけっこうな量で
運ばれてきたことになるワケで、胸躍る光景であります(笑)。
木組み自体は金物で緊結されているので、
精妙さというようではないのですが、
まことに久々に見る豪放磊落感で、スッキリ目覚めさせられました。
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【過去地形から歴史を見つめ直す】

2019年09月19日 07時19分42秒 | Weblog


きのう「過去地形」について触れたら、
さまざまな反響、ご意見をいただきました。
たいへん貴重な声をいただき、感謝の念に堪えません。

わたしの家系は祖父は広島県福山市近郊生まれで北海道に移住し、父も彼の地で
生まれましたが、わたしは北海道生まれのネイティブ北海道人。
まぁ3代で江戸っ子という言葉を聞くことがありますが、
「蝦夷っこ」という言葉はあんまり聞いたことがない(笑)。
でもそろそろこの地に深い愛情を持って来し方行く末をと考える世代。
しかし、なかなか過去歴史の少なさに心許なさも感じている(泣)。
それでも考古的な発見とか探究が進められていて大いに勇気づけられます。
そういった学究にも知人がおります。
上の図はそうした学究の一人である右代啓視氏が関わった北海道博物館の展示。
<ブログ過去記事【北海道の「過去地形」を見る】を参照ください>
約21万年前の北海道島の地形図であります。
きれいに石狩低地帯が海沈していて、太平洋と日本海がつながっている。
その後、この海が陸地化してきたことが視覚化されている。
こういった探究もさまざまな知見を総合する作業なのだと思います。
だいたい現生人類も出現したかどうか、という時代のことがら。
現代の知見、文字記録などはもちろんまったくないけれど
それでも考古的には探究の方法はあるのですね。ファイトは湧く。

しかし一方、下の図は大阪の歴史地形であります。
こちらの方は、21万年というような考古の年代とはまったく違う。
左側が5000年前くらいにあったとされる「縄文海進」での地形。
そして右側が2005年段階の衛星俯瞰地形図であります。
で、さすがに人口密集地域なのでこの間の地形の変遷も
公的な研究業績の蓄積で確認できるのだそうです。うらやましい(笑)。
上町台地といわれる固い地盤層に
大阪城とか、難波宮とか、四天王寺、仁徳天皇陵など
歴史年代きわめて重要な建築群がならんでいたとされています。
縄文海進時点図の北に向かって突出するような地形地がそれにあたると。
北海道とは違って、人口集積がハンパなくしかも歴史蓄積が
文字記録もふくめてメッチャすごい。
人間の事跡痕跡蓄積の多さに、まさに目眩するほどであります。
ひるがえって、蝦夷地の手掛かりの少なさよ(泣)。
この両方の地域について、住宅に関する仕事をしているので、
地形とか地盤とか、土壌・風土とかを考える上でまことに対照的。
行きつ戻りつしながら、相互に気付きを持てればオモシロいかも。
そんな興味がどんどん深まってきております。ふーむ。
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【歴史年代で陸と海がまったく違うニッポン】

2019年09月18日 06時52分45秒 | Weblog



人間は無意識のうちに、見えていることだけにとらわれやすい。
しかし、見えていることも常に変転する。
地球規模の気候変動要因で海陸が変化するというのは、
比較的にわかりやすい出来事と言えますが、
しかしやはり実感として常に把握するのはむずかしい。

一番上の図は釧路湿原展望台近くの「高台」にある北斗遺跡の
歴史年代での海岸線の変遷の説明。
現代の写真では広大な釧路湿原が見晴らせる高台ですが、
この遺跡は重複遺跡で、旧石器から縄文・続縄文・擦文時代までの
合わせて300以上の竪穴痕跡があり長い歴史が刻まれている。
現在は釧路湿原を望む標高20mですが、
遺跡に人間が住んでいた当時はここはごく海岸に近かった。
直近の擦文時代っていうのはいまから1,000年程度の過去。
水利の交通の便が良く海産品の確保もできて
周辺陸上樹木からの採集など人間居住・ムラ形成には好適地だった。
北海道の遺跡には、いまの海岸線からは離れた
こういったやや高台にあるものを多くみることができます。
丸木舟のカヌーや少し大型の海での漁撈のための舟など
多様な乗り物を操りながら日々の暮らしを営んでいたに違いない。
300以上もの竪穴住居跡が確認されているということなので、
おたがいの生存を支え合う数百人規模のムラ社会がそこにあって、
それぞれの役割分担で分業的な社会構成があったのだろうと。
そしてこうしたムラ社会が各地に点在して、相互に
行き来する中で「交易」が営まれてもいたのでしょう。
北海道島の人々は隣接するニッポン社会や北東アジアと
活発な「交易」を営んでいたことが確認されています。
北海道の「鷲の羽根」やアザラシの皮革が日本の首都・京都社会と
交易され、最上位の「威信財」となっていた記録が残る。

こういった海岸線の光景がまったく変化するということは
わたしは北海道の遺跡探訪でよく確認していたのですが、
やはり日本各地でも同様であった知見が積層してきている。
3番目の図は大阪文化財協会が発表されている縄文期の大阪の「地形」。
いまの陸海感覚とはまったく違う光景がそこに広がっていて
さらに日本史の中心地域なので、展開した日本の歴史事実にも
こういった「地形変動」が大きなファクターであったことが明らか。
浪速という地名は内海、その後、湖になった河内地域から
潮の干満に合わせて「浪が速くなる」ことを表現した地名だという。
北海道でもそうだけれど、交通手段は舟が主体なので
こうした地形の動態的な違いをアタマに入れなければ、
能動的な歴史理解には至らないということも至極当然ですね。
わたしの生きてきた数十年でも「交通の変化」はすごいのですが、
歴史年代でも同様に水上交通・人の生き方の変化は必須前提条件。
知らずに垢のようにたまる常識のウソ・ワナをキモに銘じております。
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【ムラ社会を超える人間共同体は可能か?】

2019年09月17日 07時29分46秒 | Weblog
先日、このブログで【核家族から大家族へ 社会復元は可能か?】
っていう記事を書きました。
それがけっこうロングセラーな反響(笑)をいただいています。
要旨としては現代の趨勢である「核家族」が生み出した
人間の生き方をよりバラバラにしての資本主義的発展の結果である
人間疎外的な現実に対して「大家族」という、より生きやすい環境を
再度、復権させる方向を考えられないか、ということでした。
その意見に対して、けっこう多くの方から
大家族の再構築というのはムリではないか、
それよりも町内会的な地域的結びつきとか、あらたな趣向興味的な
人間の「共同体」が現実的ではないかというご意見。
わたしの年代は大家族的な生き方の残滓を濃厚に保持していると
勝手に思い込んでいたので、同年代とおぼしき方から
そうではないのでは、というご意見を聞いて意外だった。

もちろん家族関係というのも歴史的な選択のことなので、
今後の人類趨勢がどうなっていくのか、誰にも将来はみえにくい。
しかし資本主義と「核家族化」はやはり相関関係にはあり、
株式会社システムは、自立した個人主義が無意識の大前提だと思う。
個人はそれまでの社会の大きな共同体的な「まゆ」から自立して
より小さい「夫婦・親子」だけの、それも子育てが終われば
こどもは自立して家を出ていく社会システムがいちばん都合がいい。
資本主義では面倒な社会システム維持みたいな責任から自由でいられる。
だから、資本は多国籍化して自由に国境も越えるような
そういった束縛からの自由を希求するのが本質でしょう。
いちばんわかりやすい実例は、戦後の日本での大都市への人口集中。
日本資本主義が発展する過程で、それまでのムラ社会からの
集団離脱が発生して、都市圏での「マイホーム」が憧憬された。
わたしどもの「住宅」マーケットが巨大化したのは、
こういう地方のムラ社会からの「自立」が個人主義と結びついた結果。
そしてとなりに誰が住んでいるのかまったく無頓着な擬似共同体、
町内会組織のようなものが対置されてきた現実がある。

しかしいま、世界的に資本主義的グローバリズムへの反転が起こっている。
マルクスが考えたような労働者階級の目覚めではなく、
むしろ保守主義的な流れから、国や自然的共同体から発露している
流れというのが大きく起こってきているのだと思う。
むしろ、グローバリズムに最適なのは共産党独裁の政体だということに
多くの現代人の反発が巻き起こっているように思える。
イギリスで起こり、アメリカでトランプ政権が出来、
アメリカによる中国否定の動きが大きな流れになり、
香港で中国共産党独裁が拒否されている現実には、どうも根底的な
同時代性があるように思える次第です。
そういう時代性のなかから、どうも大家族的な志向性が
強まっていくのではないかと、そういった思いが芽生えてきたのですね。
住宅を考える仕事をしてきて、人間の生き方のシアワセを
見つめていくことを繰り返してきて、そんな思いを持っています。
写真は北海道の釧路湿原にある北斗遺跡。
かわいらしい住宅が寄り添うように隣居する様子が好きです。
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【北海道「後方羊蹄」をなぜ「シリベシ」と読むか?】

2019年09月16日 06時01分47秒 | Weblog
きのう、奈良時代の陸奧産金と万葉集編纂のことを書きました。
最近、この万葉集のことが令和の命名のことがあって
話題になっていろいろ勉強してきていたこともあります。

で、万葉集のころの日本語表現「万葉かな」のことに触れたのですが、
わたしのブログを応援してくれているShigeru Narabeさんから
この「万葉かな」についてコメントがありまして
〜万葉仮名のまとまった使用は古事記や万葉集あたりからですが、
鉄剣の金象嵌などでは5世紀からすでにあったようです。
今では羊蹄山と呼ばれるシリベシ山も
「後方(シリヘ)羊蹄(シ)という万葉仮名です」〜というご指摘。
おおお、であります。
実はわたし、この「後方羊蹄」という地名漢字がなぜこう付けられたか、
長年疑問には感じていながら探究していなかったのです。
こういうご指摘を受けて、とっさに「阿倍比羅夫」の
古代での海軍的「蝦夷征伐」北征のことが浮かんだ。
かれは、658年から660年の3年間にわたってこの「遠征」をしている。
高校の後輩の考古学者・瀬川拓郎さんはこの遠征に着目して
オホーツク文化人(粛慎と日本書紀には表記されている)との交戦事跡を
発表されたりもしています。で、Wikipediaでも
〜『日本書紀』によれば、斉明天皇4年(658年)に水軍180隻を率いて
蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎を平らげた。
翌年には再び蝦夷を討って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、
政所を置き郡領を任命して帰った〜と記述されています。
この時代とおぼしき札幌近郊「江別古墳群」というものも発見され、
この日本書紀記述には蓋然性が高い。
・・・といったようなことは知識を持っていたのですが、
この「後方羊蹄」の読みが「万葉かな」由来であるということは
うかつにも気付かなかった次第なのであります。う〜む。

北海道の地名というのはほとんどがアイヌ地名に由来するというのが
一般的な常識であって、そこに道南地域など一部に
和人文化の堆積に比例して和名も加わってきた、という
常識的前提理解に立ってきていた。
そこを疑うというか、疑問を持たずにいたことを思い知らされた。
「後方羊蹄」=後方(シリヘ)羊蹄(シ)という万葉かなであるなら、
北海道の日本式地名としては最初期に相当する。
<現在は後志と書いてシリベシと発音しています。>
古代史で阿倍比羅夫の遠征というのは、あまり関心が寄せられませんが
そういえば、白村江の戦い(663年10月)にも阿倍比羅夫は参陣し、
太宰府の大宰帥(だざいのそつ)大宰府の長官にもなっている。
九州における外交・防衛の責任者となったとされているのですね。
今日的には外務から防衛大臣の河野太郎さんの役割とも類推できるか。
もっと言えば任命者は「安倍」さんだ(笑)。歴史は繰り返す?
この時代、朝鮮半島関係に注力するのは戦略物資「鉄」が絡むので
経済的軍事的に当然だとも思うのですが、同じ武人が
それに先だって北海道にも遠征していたというのは、
この時代の「国家意志」のありようの一端をあらわしている。
北海道とニッポンの関わりということでのミッシンクリンクですね。
う〜む、興味深い領域テーマが立ち上ってきた(笑)。
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【アジアの希少な「海洋国家」日本の生存戦略】

2019年09月14日 12時26分36秒 | Weblog
ここのところの韓国との関係の騒々しさはすごかったですね。
<本日は久しぶりの時事ネタであります、ご容赦を>
もうそろそろ、感情的なレベルでのことからは離れて
かの国の政治の混乱に巻き込まれないように
日本自身の冷静な国家戦略を国民レベルで論議できる方向に
舵を切っていくべきではないかと思っています。
どうしても生々しい隣国関係なので、近視眼的な見方が強まってしまう。
朝鮮半島国家の盛衰史は、歴史的にも「半島国家」であり、
大き過ぎる「大陸国家」中国やさらに軍事国家ロシアといった
他国への関与動機の強い国家群からのさまざまな影響が国内情勢に
敏感に反映する地政学的な位置にあることが大きい。
一方で日本は「海洋国家」であり、今日の世界秩序の中では主流である
米英型の志向性と共通価値感を共有できる国なのだと思います。
世界貿易志向の強い資本主義国は、おおむね海洋型国家。

日本は東アジアで稀有な国家としての長い歴史を持っている。
確実な歴史年代の継続としても1500年を超える単一国家。
それに対して大陸国家である中国は、易姓革命を繰り返してきて
つねに軍事的強者が独裁支配する政体での争闘の歴史。
日本の皇室に「姓」がないのはかなり究極的な生存戦略である由縁。
いまの中国共産党独裁体制というのも、その一変形とみなせる。
海洋国家は天然の城壁として海洋があって、地政的に侵略される畏れが少ない。
陸上交通に比べて圧倒的にコストの安い海上交通を利用できることから
現代世界の基盤である「貿易」についてそのルールの主導権まで握っている。
東アジア世界が帝国主義列強の弱肉強食的覇権争奪に
もろくも侵略されたのに対して日本だけが独立を守り得たのは、
もともと日本が海洋国家であったことが大きいのだと思います。
明治以降の国際関係の中で日露戦争の勝利とは、日英同盟の結果。
不幸な戦争以降、ふたたび米英の海洋国家との同盟に復帰した日本。
日本の国家戦略は今後ともこの海洋国家同盟が基軸になるのが自然。
間違っても大陸国家への帰依という選択は歴史的にもありえない。

一方、朝鮮半島国家というのは、なかなか自立存続が難しい。
歴史年代的には中国独裁王権に対して従属する形が永かった。
日本はアジアの希少な海洋国家として自立、鎖国を保てたけれど、
半島国家というのは、つねに大陸国家への帰依が肉体化している。
そもそも国家のありようが常に他者依存的な思考になるので
日本のような海洋国家的な開かれた戦略性を持ちにくい風土なのでしょう。
今回の局面ではかの国自ら日本との距離を離れようとしているのですから
それ自体は仕方のないこととして、流れに任せていった方がいい。
日本としては海洋国家同盟戦略をもっと深めて、
今後混乱が予測される大陸国家・中国とは一定の距離を保ち
つかず離れずという方向性が正しい戦略なのではないでしょうか。
日本の歴史を深く知れば、こういった東アジア世界との「付き合い方」の
大きな教訓をたっぷりと学びうると思えます。
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【北海道では咲かない花がある・・・】

2019年09月13日 06時30分33秒 | Weblog
いろいろな時期に北海道からそれ以外の、とくに関東以南に移動すると
花の違いに癒されたり、驚かされたり知りたい欲求が盛り上がったりする。
今回もセントレア空港を往復したけれど、
この写真の花がそれこそ行く先々で目を楽しませてくれていた。
ちょっと前のハナミズキにも色合いが似ているけれど
花の様子、枝振りがまったく違う印象。
で、そういうときの「この花の名は?」系のアプリで
写真をアップすると親切な人たちから教えていただける。
以前にも札幌市内でまったく見たことのない花を見つけて教えていただいた。


こちらは「アスチルベ」という花だそうで、
名前もまったく聞いたことがなかったヤツでした。
今回出会った花も、なんとなく似た花の色合いではあるけれど
枝振りとか、大きさとかまったく違う。
ただ、わたし的にはこういった色合いの花には強く惹かれるのか?
で、最初の写真の花の名は「サルスベリ」だそうであります。
本州地域のみなさんにはありふれた花の名でしょうが、
北海道人にはほとんど目にすることがない花であります。
札幌中心部の大通公園の花壇は地元の園芸業者さんたちが
腕をふるってくれているようで、そこでは姿を見せているという情報。
なんですが、一般的な家庭のお庭ではほとんど見ることがない。

調べてみたら、自然状態ではほとんど津軽海峡のラインを
越えることのない花のようですね。
よほどの「育成力」がなければ花を咲かせられないのでしょう。
寒ツバキなど、北海道では咲かない花たちとの
こうしたふとした遭遇は、移動交通の発達したこの時代だから、
共有しうる経験知だとありがたく受け止めております。
しかし名前もいいですね、サルスベリ。
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【城と町、交通の相関 in岐阜】

2019年09月12日 06時51分18秒 | Weblog


きのうは国の住宅施策についての会議に参加して参りました。
年間3回計画されていて、最初は東京、続いて今回、岐阜で開催して
最後12月に札幌で開催の予定ということ。
会議については、継続中のことなのでまたあらためての機会に。

会議がなんと朝10時からということで前泊して参加。
岐阜で宿泊するというのははじめて。
これまではだいたい、名古屋からどこかに行くときの「経由都市」。
岐阜と言えば稲葉山に築かれた岐阜城であります。
この城のある稲葉山は周囲が長良川に囲まれて、城下町からは急峻な山。
信長は何回か、この城下町までは侵攻できたけれど、
山上から攻められて敗戦を繰り返していたとされる。
しかし、岐阜はまさに交通の要衝で、美濃平野から伊勢湾に下る
まさに「要衝地」にあることが目にも明らかであります。
この長良川は東海最大の穀倉地帯・美濃の交通のカナメ。
鉄砲の伝来によって、戦国の気運、戦争の仕方が大規模化して
明確に「天下統一」という目標が見えてきた段階で、
この地を抑えれば、あとは「上洛」するには「指呼」の間。
この地を抑えることが出来てそれまでの稲葉山城から「岐阜城」という
天下への志向をあきらかな軍事方針として明示したことが有名。

で、城と「城下町」という関係でもまことに明瞭。
戦国期には、こういう要衝地で軍事的に安定した地方政権は
さらに軍事費を最大限確保するために、商業の活発化をはかった。
信長は若い時期に堺の街に遊学したことがエピソードで残っているけれど、
世界との交易での利得をカラダで体感して
経済重視の国家経営・軍事費確保を相当強く思い定めたと思う。
この岐阜は東海地方のものの往来にとって要衝なので、
そこに商業活動の拠点を置くことの経済的利点は大きかったと思います。
そういった商業流通が活発化することで軍事費を拡大できたのでしょう。
城の建築もこの岐阜を得た後、すぐに既存のものを破却して
新規に造営したとされています。
今残っている山上の城も、かなり明瞭なランドマーク。
500年の時間を超えても伝わってくるものがありました。
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【都市集中と未来の「住み方」変化】

2019年09月11日 06時47分15秒 | Weblog


あるデータを見ていて興味深いことを発見。
わたしは昭和27年生まれですが、どうもこの時期に
日本社会は「郡部」から「都市」に人口比率が重心移動している。
で、平成22年国勢調査では、都市人口は1億1615万7千人と総人口の90.7%を占め,
一方,郡部人口は1190万1千人(9.3%) というデータがある。
約60年前の「逆転」から以降、ずっと人口重心移動が継続している。

で、わたしの兄たちはむしろ「郡部」が人口多数派だった時代を
経験し、その「常識」感を共通言語として持っている世代。
わが家は昭和30年に北海道岩見沢市近郊地帯の農家を離農して
札幌に移住して、食品製造業に生きる道を求めたのですが、
それ以前の郡部でのくらしのありようを話して盛り上がっている。
3歳までの実感しか持たないわたしとしては、会話について行けない(笑)。
「そうそう、あそこの家の隣に蹄鉄屋があったよな」
「そうだ、いっつも馬の蹄の焼ける匂いがしていたよな(笑)」
っていうような話題であります。
郡部では小規模な特定技能職者が独立自営できている状況があった。
主要産業である農業のための必需業種でのそういう存在があった。
かなり多様な「生業のあり方・生き方」が存在していたのだと思う。

家族のありようを考えるとき、こうした「生業のあり方」が大きい。
結局は「どう稼げるか」に人間の生き方は決定的に規定される。
この「職」の問題をどう解決するかが最大の問題だと思います。
現代では農林漁業や地方公務員以外では「定住性」を選択しにくい。
しかし、待ったなしで「人口減少」局面が訪れてきて
企業でも人材確保が最優先される時代になって来た。
また、女性の就業も格段に増えてきている。
女性の場合、いくら男女格差是正とか言っても家庭の優先・維持は
大きな人生選択要素であることは基底的な事実だと思います。
どうしても出産・授乳は女性にしかできない人類存続の基本要件。
事実、高学歴女性が結婚し出産することになれば、
おのずと定住的志向が強まっていくことは必然的な流れ。
女性の社会参加には、子育ての安定的環境構築が欠かせない。
いまの「核家族」下では必然的に「保育」を外部委託するしかない。
しかし、日本の社会生活伝統には大家族での「子育て」文化がある。
人生百年時代の健康な高齢者である祖父母の存在を生かすには、
必然的に「大家族」志向になっていくのが自然な流れだと思える。
そういった社会圧力から、企業の側でもこうした「働きやすさ」志向は
大いに考えなければならなくなってきている。
さらに世界で見れば、英米社会では「地域主義・一国主義」が強まり
いっとき世界を席巻したグローバリズムへの嫌悪が広がってもいる。

これまでの都市集中は資本主義的生産様式が世界に拡大した
そういったことからの社会変化だったけれど、
これからの変化は、その生産様式がどう変化するのか、
そこを見据えながら、ある志向性を持っている必要があると思います。
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【韓国仏国寺 結界でギター奏でる「仁王さん」4体】

2019年09月09日 07時20分12秒 | Weblog


きのうブログ記事の流れで触れた「韓国慶州・仏国寺」。
もう3年前の訪問でしたが、これまで写真整理をあんまりやっていなかった。
たしか忙しい時期に知人たちに誘われての旅でした。
帰国してからもトンボ帰りで秋田でテレビ出演したりして、
整理する余裕を持てなかったようです。
まぁ、取材している写真類はとにかく膨大なので、
ある機会の写真整理を始めるとそれだけでも根がつながって
どんどんとテーマが膨らんで行かざるを得ない。

で、本日は狛犬、じゃなかった「仁王像」であります。
宗教建築では日本の場合には定番・付き物として結界の門付近に
こういった存在が鎮座している。
東大寺にもきちんと仁王さまがおりますが、
しかし記憶では法隆寺「南大門」周辺にはなかったように思います。
なにか、一定の法則性があるのかどうか、知らない。
日本は地勢的に東アジア世界との関わり合いがながい歴史の基底にあるので、
こういった「定番」についても、無意識的に
隣国とはいえ韓国でも似たようではないかと思っていた。
入り口を「守護する」という精神性が付与されているに違いないと。
で、こちらの仏国寺では確かに左右に仁王さん風の風体の像があった。
けれど、いきなりギターを弾いて
「Oh,You,Welcome」みたいな軽いノリの像が迎えてくれる。
お隣さんも剣を持ってはいるけれど、2体一対と考えると
音楽に合わせて剣舞でも踊り出すような印象を持たされる。
対手側の仁王さんも左手にソフトクリーム(笑)。
イヤ違います、なにか塔の模型のようなものを持ち上げている。
しかし、ギター男の印象が強烈でソフトクリームと勘違いするのも自然かなと。
薄い衣類の表現などは、東大寺の仁王像との相似感がありました。
ただ、歴史年代的には最近の復元でしょう。
そのマザーに対して忠実な復元かどうかはわかりません。
・・・ということですが、仁王さんが4体ある。
狛犬が4匹、というような宗教建築っていうのは日本では見たことがない。
調べた範囲では、どうも「東西南北」を守護する武神というのが
この像たちの表現している「宗教性」ということだそうです。
風水的な「四神相応」思想を表現する。四神とは玄武、朱雀、青龍、白虎。
また日本では一般的な「阿吽」という表情もこれらからは見て取れない。
要するに「四天王像」ということのようですね。
で、ギター男は持国天という存在ということのようです。
以下Wikipediaより〜持国天は東方を護る守護神とされる場合が多く、
仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。
中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表される。〜
とあるので、そういった大陸国家からの影響なのか?
下の写真は中国の寺院の持国天像で、楽器がやたらでかい(笑)。



狛犬とか金剛力士の一対表現の代わりに四天王像が置かれているのでしょう。

このあたり同じ仏教とは言っても国家がかなり関与して発展してきた日本と
むしろ国家としては儒教が長く支配的で仏教弾圧を繰り返してきた
かの国との違いでしょうか。似てるけど違う、不思議な感覚。
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