イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

コミュニケーション能力とは

2016年09月07日 23時32分18秒 | 日々思い感じること

例えば、好きで好きでたまらないアーティストのファンクラブに入会した場合、
そのアーティストが発信することを見逃さないよう、聞き逃さないよう
一生懸命受け取ろうとしそれがその他大勢の一人と解っていても
純粋にその存在を応援し続けるように思います。
その存在が好きでリスペクトしているからこそ応援するだけで十分。
その存在のお陰で元気が出たり 幸せな気分に浸れるから。
私にもその存在を思うだけで自然に笑顔が出るという
有難い存在がいます。

特定の人が発信したものを受け取るだけのある意味一方通行な
関係というのはアーティストと
ファンだからこそ自然に成り立つ様に思います。
けれど日常の、健全な対人関係においては
(どちらかが余程カリスマ性がある場合は別?として)

こうした一方通行の関係はやはり成り立たない、
受け止める側は実はストレスフルな気がします。


聴き上手と言われる人でも 人間という生き物は本来、
自分のことを話したい、自分の話しを聴いて貰いたいという
健全な欲求があるそうです。

余程魅力的な人だったり 情報ツウでも無い限り
 自慢話ばかりする人が敬遠されるのは
こうしたことからも至極当然なことかもしれません。


単純な私は自分にはない豊かな才能がある方にお目にかかると
心動き、素直にただただ「凄いなぁ~」とリスペクトするタイプなので、
涼しい顔をしながら 心では出逢う人出逢う人に
「フン!アンタなんか認めるもんか!」的になライバル心は起こらない、
ジメジメ勝気タイプではなく、認めることは素直に認めるという
サッパリさんなので、誰かのお宅の犬でも猫でも人の才能でも、
「あら、可愛い」「あら素敵」と思うと躊躇なく言葉にし伝えます。
言葉は生ものと同じではないかしら?と感じる私。
数か月経って、こちらはすっかり忘れていたようなことを
何の脈絡もなく突然、ご機嫌伺いをするかのように
「あの時は実は○○って思ってたのよ」とほめられた所で、
「え?何で今更そんなこと言うのかな」と不思議に思います。
それは飛び交うSNSの記事においてもそうです。

自分の発信した記事であり、作品であり、
ペットさんについては色んな人から

「あら、可愛い、あら素敵」と言葉を貰い応援して貰い、
ご自身が評価されることは大好きなのに、
そうした言葉を貰いっぱなしで、
ご縁あって繋がっている人のことには無関心
という方が多いことには驚かされます。
1人のアイドルを追いかけるファンという関係でなければ
「あなたは○○ですか?」と、相手に関心を示す質問は
思いやりの証だと思うのです。
常に自分だけ認められ、褒められ、持ち上げられる事が
嬉しくて心地良いという人は
時々、そうした自分を
客観視しないと教祖まっしぐらな気がします。


私は初対面の方に対してもそうですが、
相手の中に入り込まないよう、
失礼にならないよう
意識しながらも目の前の相手に質問をしたり、
素敵な部分を見つけると
相手がその言葉を重く受け止めてしまわないよう
十分気を配りながらも素直
に「素敵ですね」とか、
「○○が似合いますね」とか、
博学な方には「物知りですね」等、
その時々に その方から溢れている素敵な部分を
さりげなくお伝えしています。
目の前の相手に対するそうした言葉がけや
質問というのは、
「私はあなたのことに興味(関心)があります、
あなたの話がもっと聴きたいです、あなたを知りたいです。」の
表れと思っているからです。


住まう地域のあるお宅に飼い猫ちゃんがいます。その仔は
家族以外の人には懐かない媚を売らない仔らしいのですが
(猫特有のプライドと自由さをカッコイイと思う私(笑))

私や先住猫のミーシャには最初から心を開き、
大好きアピールをしてくれていて毎朝、戸を開ける前から、
我が家の前で私が出てくるのを健気に待ってくれています。

飼い主さんは私が猫ちゃんとお話し撫で、ご飯をあげたり、
うちの庭でゴロリンと寛いでいる事をご存じの様で道で偶然会うと、
「いつも可愛がって頂いて有難うございます。」と仰るので、
「○○ちゃんは本当に健気で可愛い仔ですよね~」と
思っていることを話すのですが、
そうすると「前足の柄が揃っていて可愛い」他、

ご自分の家の猫ちゃんの話はせきをきったように 
あれも、これもお話しされます。これまでは、ひたすら
 「そうですよね~」etc と、聞き役に徹していたのですが
ここ数年は繰り返しの一方的なお話しはちょっと疲れるので
適当な所で家の中に入るようにしています(笑)


ミーシャ亡きあとご縁あってうちの仔になったルーチェは
外を眺めるのが好きで窓辺からよく通りを眺めています。
我が家に新たな仔がいることをご存じながら

わが家の猫には全く関心がないようで(笑)
その飼い主さんと面と向かっても
名前すら聞かれたことはありません。
ミーシャが生きていた頃、自宅の塀や車の上に座り
外の様子を眺めるのが日課だった彼のことを
通りすがりの方々が「逃げないんですか?大人しくて、
毛が綺麗で可愛い猫ちゃんですね~」と何度となく
お声かけ下さり、飼い主として嬉しく思いましたが
そういえばミーシャの名前は勿論ご存知でしたが、
生前ミーシャを一度も可愛いなど、
褒めて下さったことはありませんでした(笑)
(ミーシャは中々のイケメンでしたが(笑))

今の地域に住んでから10年近くになりますが、5年程前、
あ、そういえば・・・と、
この猫ちゃんの飼い主さんのことで
違和感といいましょうか、頑なさ、といいましょうか
 ふと気づいたことがありました。
それは子供も含めた人であり、ペットであり、
庭に美しく咲くであり、喜ばしいこと、お祝いごとでありetc、
「絶対に言うまい」という強い信念がおありなのか?
私との会話に限ったことではなく
その方と親しいお友達に対しても会話の中で絶対に
他人のことを認めたり、褒めたり、質問をしたりはしないという
徹底した部分でした。
でも、ご自分の話しであり、ペットさんのことは
こちらが質問をしていなくても沢山お話しになります(笑)

ご自身は認められたり、
褒め言葉を貰うのは嫌いではなさそうなのに、

近所のお子さんに対しても、ペットに対しても、人に対しても、
可愛いとか、
いい人であるとか、綺麗なお花、とか
日常の中で思わず口をついてポロッと出てしまうような
こうした言葉はこの10年近く会話の中で、
一切聞かれることがなかったのである時、
「珍しい人だな~。この方の頑なさの根源は何なのだろう?」と
思ったことがありました。


心がほどけた時、美しいものに触れた時、
可愛い存在を見た時 可愛いとか、ステキとか、
綺麗という言葉が自然に出てくるように思うのです。
また、こうした言葉を自分が先に使ったからといって
自分が損をするわけでもないのに・・・・・。
何故なんだろう?
引っ越してきた当初は道で会えば 
さしさわりのない会話をしていたのですが、

年配の、自分の家のことばかり口にするという、
やや癖のあるこうした方との会話は
いささか疲れるので
ここ数年は意識して挨拶くらいに留めています。

勿論、猫ちゃんとの関係は今も変らず良好ですが(笑)

facebookに時折 愛猫の写真や記事を載せることがあるのですが、
同じくペットを飼っていて私の記事を明らかに読んでいらっしゃるのに
足跡を残すことなく、「読んでないよ」的にスルーし
無関心を決め込む方もいたりして、そんな時、
 「なんだかなぁ~」と本当に不思議に思うことがあります。
相手のペットさんの事は感じたままに「可愛いですね」とコメントしても
こちらが猫を飼っていると知りながらも一切質問はなく無関心。
最近ふと感じたのですがこうした方というのは
本当の意味でのコミュニケーション能力に欠けている様な気がします。


会話というのは どちらかが いつも一方的に 
【貴方の表す物事、貴方自身の事
、貴方のペット、貴方の○○】
について素敵!!と言い続けるものではなく、
「で、あなたは?」と、相手に聴くことで初めて会話が成り立ち
所謂 言葉のキャッチボールが生れ、
コミュニケーションに繋がると思うのです。

何故ならある人をファンの1人として
一方的に応援し続けようと決め入会した
ファンクラブの会員としての出逢いとは異なるのですから。

あなたがされて(伝えられて)嬉しいことは、
目の前の相手もまた同じように
嬉しいことなのではないでしょうか?

発信したものを常に持ち上げ、評価してくれる取り巻きさんの
トップに立つ事が心地よく、私って凄いヒトなんだから!
で 終わらせてしまうのか、それとも
見えない心ある向こう側にいる多くのヒトの、
大事にしている世界をのぞいたのなら、時にエーを送るのか、
人の話を意識して聴き、質問をするのか、
相手の大切なものは何か、に想いを馳せることは人として
やはりとても大切なのではないかしらと思うのです。

あるフィールドで能動的に発信し続け多くの人が関心を寄せる
特定の人だけが評価されるに値し素晴らしい
のでもなければ 特別なのでもなく、
1人1人みんなが素晴らしくて、
みんなが主人公であると常々私は考えます。

お世辞や思ってもいないことは口にしませんが
すごいな、イイな、と自然に心動き感動した時は
相手のステキを
認め、言葉を贈ること、エールを送ることは
やっぱり素敵なことなんじゃないのかなと思っています。

認めることの潔さ、
これからも大切にしてゆきこうと思います。