中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

節分

2010-02-04 10:05:14 | 身辺雑記
 昨日2月3日は節分。節分はまた、「せちぶん」と読むようで、本来は各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことで、「季節を分ける」ことを意味しているようだが、今では普通は立春の前日を指すようになっている。

 元来この行事は平安時代から行われていた7世紀末に中国から伝わった悪鬼払いの「追儺」(ついな)から生まれたもので、大晦日の夜に悪鬼に扮した下級役人を殿上人が追い回して桃の弓、葦の矢で射った。やがて追儺は日本では節分の行事となって寺社や民間でも行われるようになり、桃の弓の代わりに炒った豆を撒くようになった。豆は魔滅に通じるとされた。

 節分の豆まきはかつてはどこの家でもやっていた。幼い頃の私の家でも当日の夜は父が各部屋を回って、外に向かって「福は内。鬼は外」と唱えながら豆を撒き、私達子どもはその後をついて回った。父が豆を撒くと母が部屋の雨戸を閉めた。のどかな光景だった。今でも父の声が耳の奥に残っている。一通り撒き終わると1つの部屋に集まり、豆やキャラメルなどを混ぜて床の上に撒き、父が電灯を消すのを合図に歓声を上げながら這いずり回って集めた。ひとしきりすると明かりをつけ、誰が一番たくさん取ったかを見せ合った。私が7歳くらいの時の記憶では、当時お手伝いさんとして鹿児島から来ていた10代の娘さんがが、前掛けを広げてその中に掻きこむという機転の効いたやり方で断然トップになり、同居していた大学生の叔父がその様子を大げさに真似てからかっていたのを思い出す。子どもも大人も楽しんだ一夜だった。



 豆まきの豆は関東・東海・西日本・北九州では炒った大豆 (炒り豆) で、北海道・東北・北陸・南九州では 落花生ということだ。拾った豆は自分の年齢より一つ多く食べた。こうすると風邪をひかずに過ごせるという言い伝えがあった。

 節分の夜に何か特別なものを食べたということは、あるいは鰯くらいは食べたかも知れないが記憶はない。今ならさしづめ「恵方巻き」と言うところだろうが、当時の我が家にはそのような風習はなかったし、その後もずっとなかった。節分の夜にその年の恵方、すなわちその年の福徳を司る吉神である方位神の一つである歳徳神(としとくじん)人のいる方角(今年は西微南とか)に向かって太巻きの寿司を丸かぶりする風習である。そのとき目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら食べるのだそうだ。元来は栃木県と近畿地方を中心とした風習であったらしいがはっきりしたことは分からないまま、関係業界の販売促進によって現在のようなブームになった。3年前からはあるコンビニ関連会社が「丸かぶりロールケーキ」を出しているそうで商魂たくましいことだ。このところしばらく巻き寿司を食べていないから、昨夜の夕食に巻き寿司を買った。もちろん今さら巻き寿司を丸かぶりするつもりはなかった。この年でそんなことをしてのどに詰まらせたらみっともないことになる。

 デパートやスーパーでは例年のように太巻き寿司を山積みにしていたが、どんどん売れていくようだった。





 恵方巻き丸かぶりなどの新しい風習は盛んだが、家庭での豆まきなどの古い風習は都会ではもうほとんどないのではないだろうか。我が家では息子達が幼い頃は豆を撒いたが、昔と違って隣家と接近しているので声を出すのが何となく気が引けて、本来は家長の私の役目なのだが妻に任せると、妻も恥ずかしそうにか細い声で「福は内」を唱えていて、それではとうてい鬼は出ていかなかっただろう。

 節分には柊の小枝に鰯の頭を突き刺して魔除けとして門口に飾る風習があり、中高生の頃に近所の農家で見たことがある。今でも地方ではこの風習を残しているところはあるのだろうが、都会ではもう見られないだろう。節分に限らず四季折々の素朴な風習はどんどん消えていくようだ。

 インタネットより


 今日は立春。暦の上では今日からは春だが、「春は名のみの風の寒さや」で、まだまだ寒い。今日通りすがりの道端にある沈丁花を見たが、まだ蕾は固かった。