中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

祖父の長兄

2010-02-24 09:11:47 | 身辺雑記
 長男が電話してきて、「ひいじいさんの名前は何と言うのか」と尋ねた。急に何を聞くのかと思いながら、「五郎だ」と答えた。すると「いや、そうじゃなくて五郎のお父さんだ」と言う。私の曽祖父の名前を聞いたのだった。「見たこともないから知らないな」と答えたが、何しろ幕末の大分の人間ではなかったか程度のうろ覚えだから名前などは聞いたことがあったかも知れないが忘れてしまっていた(後で調べたら島原藩士で「宗雄」だった)。

 「じゃあ、國臣(くにおみ)というのは誰?」と尋ねたから「それは五郎の一番上の兄だ。國臣の下に二郎も三郎も四郎もいたようだが、四郎しか知らない」と答えた。どうやら國臣が五郎の父親と思って興味を持ったらしいので、知っている限り大まかなことを話した。いったん電話を切ったがすぐにまたかかってきて、インタネットで調べたと言って國臣の経歴を読んでくれた。かなり知らないことが多かった。

 読みながら息子が時々笑ったのは、どうもその経歴を見ると國臣という人物はいささか強引な性格だったらしいからだ。後でGoogleで検索してみると、現在の大分県宇佐市で生まれ、中津の中学を卒業してから上京して慶応義塾に入り、卒業後司法官になり、それからは順調に「出世」して司法次官を経て検事総長にまでなった。しかし、明治29年に初の政党内閣である大隈重信内閣の下で懲戒免官となった。どうも司法次官の時に、前内閣司法部刷新のために古参者や無能な司法官を強引に勇退に追い込み、その一方で自分は検事総長の要職に横滑りしたことが退職者の恨みを買ったらしい。 その後、半年で懲戒免官は免ぜられて東京控訴院検事長に返り咲いた。その後は検事総長さらには大審院院長(現在の最高裁判所長官)に上り詰めた。

 ところが、その大審院院長のポストをいつまでたっても手放さない。それで退任を示唆して男爵を授けられたが、その後も一向に勇退しない。そのため、業を煮やした政府は、本来は終身官とされていた司法官に定年制が設けたので、やっと15年にわたって居座り続けた職を退いた。いやはや、法律改正の要因にもなるなどなかなか強引、強気な人物で、息子が笑ったのも無理はない。戦前はいろいろなことができたものだと少し呆れる思いがした。

 國臣は大正12(1923)年に73歳で没した。私が生まれる10年も前のことだから、私にとっては祖父の話の中で時折聞いたくらいで、写真も見たことがあったかなという程度の人物だ。家系はすでに絶えたようだ。祖父の五郎も司法官で、最後は朝鮮総督府の高等法院長を勤め退職した。この家系が私の息子や孫たちにも続いているが、没落したわけではないが、ごく平凡な家系だ。戦前まではそれなりの意識もあったようだが、所詮は司法官、公務員の子孫だ。たいしたものではない。敗戦のためにすべてが変わったので、何かせいせいした感じがする。