忘れもしない大学1年の正月である。昭和38年元日早々衝撃的なニュースが飛び込む・・・「北海道学芸大学函館分校山岳部のパーティー11名旭岳で遭難!」・・・そのサブリーダーの小林さんは、私の研究室の先輩(3年生)であった。研究室の仲間は大学に近いSさんの家に集まって、泊まりがけでTVに齧り付き、次々と入ってくる惨状のニュースに見入った。しかし、全員生還の願いも空しく、生還したのは、助けを求めに下りたリーダー野呂幸司さんただ一人という辛く悲しい結末であった。
私は、小林さんの物静かで穏やかな人柄が好きで、誘われるまま、野呂さんが寝泊まりしていた研究室に何度か出入りしたことがある。その当時の強烈な印象は野呂さんのリーダーとしてのカリスマ性である。その野呂さんから「興味があるなら山岳部に入らないか?」と誘われ、ちょっとその気になっていたこともあり、大好きだった小林さんの死と一人だけ生還してその偉大さと非難が相まって報じられる野呂さんの心中に、ずっと胸の痛む想いを抱き続けていた。
その後の遭難報告書も読んだが、死に至るまでの心情や状況が偲ばれる悲惨な個々の遺体の様子や、野呂さんの書かれた「後ろを振り向くと、人魂が一つ二つと増えて行く・・・ああ、○○も死んだか・・」というくだりと生き残ったが故の苦悩が今でも印象に残っている。
その彼と再会したのは数年後のことである。それは、両足の踵を切断したにもかかわらず義足で?スキーをしていた地元のスキー場のロッジである。その時はリフトも止まるほどの猛吹雪であった。すでに指導員の資格を取っていた私は講習続きで思うように練習の時間が取れないこともあり、昼休みにその吹雪の中で練習をして、ロッジに戻ったときであった。
いきなり後ろから「こら、坂口、こんな吹雪の中で滑っていたのか?死んだらどうする!」と怒鳴られ、びっくりして、「誰だろう?このくらいの吹雪で・・・大袈裟な?」と思ったのだが、顔を見て、あの悲惨な経験に裏打ちされた野呂さんの言葉だっただけに、ズーンと胸に響き、思わず素直に「スミマセン!」と謝った。
そんなことから、「山は恐いもの」という想いは山に登るようになった今でもなくならないし、最近山スキー登山をするようになったが、それがトラウマとなって、「天気のいいときの日帰り限定」と決めている。
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このようなことを思い出したのは、1週間ほど前の北海道新聞に「ただ一人生還のリーダー野呂幸司、45年間の沈黙を破り、遭難事故の全貌とその後の人生の軌跡を明らかにする―」・・・それが第三者の手によって『凍れるいのち』として発刊されるという記事が載っていたからである。
昨日、その本が、先行予約注文を受けていることをネット上で見つけて、早速予約注文した。
http://www.hakurosya.com/index.php?pageId=110
どのようなスタンスで書かれているかは分からないが、その内容次第では、大きな反響を呼ぶかも知れない。この遭難事故に関わったいろいろな立場の人々の気持ちを考えると、あまり英雄視した書き方でないことを願いたい。
私は、小林さんの物静かで穏やかな人柄が好きで、誘われるまま、野呂さんが寝泊まりしていた研究室に何度か出入りしたことがある。その当時の強烈な印象は野呂さんのリーダーとしてのカリスマ性である。その野呂さんから「興味があるなら山岳部に入らないか?」と誘われ、ちょっとその気になっていたこともあり、大好きだった小林さんの死と一人だけ生還してその偉大さと非難が相まって報じられる野呂さんの心中に、ずっと胸の痛む想いを抱き続けていた。
その後の遭難報告書も読んだが、死に至るまでの心情や状況が偲ばれる悲惨な個々の遺体の様子や、野呂さんの書かれた「後ろを振り向くと、人魂が一つ二つと増えて行く・・・ああ、○○も死んだか・・」というくだりと生き残ったが故の苦悩が今でも印象に残っている。
その彼と再会したのは数年後のことである。それは、両足の踵を切断したにもかかわらず義足で?スキーをしていた地元のスキー場のロッジである。その時はリフトも止まるほどの猛吹雪であった。すでに指導員の資格を取っていた私は講習続きで思うように練習の時間が取れないこともあり、昼休みにその吹雪の中で練習をして、ロッジに戻ったときであった。
いきなり後ろから「こら、坂口、こんな吹雪の中で滑っていたのか?死んだらどうする!」と怒鳴られ、びっくりして、「誰だろう?このくらいの吹雪で・・・大袈裟な?」と思ったのだが、顔を見て、あの悲惨な経験に裏打ちされた野呂さんの言葉だっただけに、ズーンと胸に響き、思わず素直に「スミマセン!」と謝った。
そんなことから、「山は恐いもの」という想いは山に登るようになった今でもなくならないし、最近山スキー登山をするようになったが、それがトラウマとなって、「天気のいいときの日帰り限定」と決めている。
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このようなことを思い出したのは、1週間ほど前の北海道新聞に「ただ一人生還のリーダー野呂幸司、45年間の沈黙を破り、遭難事故の全貌とその後の人生の軌跡を明らかにする―」・・・それが第三者の手によって『凍れるいのち』として発刊されるという記事が載っていたからである。
昨日、その本が、先行予約注文を受けていることをネット上で見つけて、早速予約注文した。
http://www.hakurosya.com/index.php?pageId=110
どのようなスタンスで書かれているかは分からないが、その内容次第では、大きな反響を呼ぶかも知れない。この遭難事故に関わったいろいろな立場の人々の気持ちを考えると、あまり英雄視した書き方でないことを願いたい。
僕もさっそく予約させていただきました。
私がこの遭難のことを知ったのは
いまから20年も前!の高校の時でした。
滝本さんの「北の山の栄光と悲劇」に書かれた遭難の顛末は私の心を揺さぶりました・・・
そして、その項の締めくくりに
凍傷で両足をリスフラン関節からを切断しながらも
生還したと書かれていたのを読んで
すごいなと思ったのを思い出しました。
後日、「旭岳」という遭難報告書を手に入れることが出来、これも読みました。
坂口さんがお知り合いだったなんて。
しかも、45年の沈黙を破って
何が書かれているんでしょうか?
読むのが怖い本ですね・・・
さきほども、私の元祖山の師匠(やはり当時の山岳部員で捜索や後始末をされた方)とも電話で話しましたが、同じような心境を話されていました。
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ラスカル亭です。
この遭難は、あたしの山人生の中でも最も大きな影響を残しているんです。
教訓を汲み取るというのはもちろんですが、それにとどまらず、どこまで死力を尽くせるかという、できれば経験したくない課題を常に鼻先にぶら下げられてい
るような意識で歩いてきましたねー・・・この遭難と、その事後談を知ってから。
ちょっとでも考えれば、愚痴パパが当事者の身近かにいらしたことは気がつきそうなものでした。しかし、今になって遭難の顛末云々は無いでしょうから、やは
り野呂さんの姿に焦点が当たった記事なのでしょうね・・・たぶんあたしは読みません、・・・・・怖いので (^_^;)。
・・・でも、リフトの止まる吹雪の中での練習ですかぁー・・懐かしいねー・・・高校の頃はよくやりました、あたくしも。ゲレンデに誰も居ないんで、上を気にせずに滑れて、調子良いんですよねー・・・・誰か居たって見えなかったけどサ。
とくに、昭和59年の第3回身体障害者冬季オリンピック大会(オーストリア・インスブルック)では、回転と滑降で入賞しています。とにかく凄い人です!
この度、東高OB情報として、
野呂幸司氏と「凍れるいのち」と題してホームページに紹介しました。
その関連記事として貴プログを紹介させていただきましたので、お知らせします。
関連記事として、当時を知る一人としての記事がとても印象的でした。
よろしくお願いします。
リンクの件、拝見しました。
私の敬愛した小林功さんも東の山岳部出身のはず?
当時の山岳部関係者や遺族は、この本の出版には複雑な思いがあるようです・・・・。
野呂さんの壮絶で最初で最後であろう過酷な雪山行。
当時私は17歳で雪山に興味も無く身近にも居なかったので知る由も無かった。
今朝のインタビューを聞いて野呂さんのハッキリ記憶している当時の様子を知ることが出来た。
野呂さんの悔しさもいかばかりか。
ましてや遺族の無念を考えると居たたまれない。
お陰で、私自身も、自分のこの記事を読み返して、彼や遺族のお気持ちを振り返りました。
野呂さんも、あの本を出して以来、呪縛から解き放たれたように、あちこちでお話をするようになったようです。
野呂さんの思いを感じながら
旭岳に登ってみたいと思います。
岡山 55歳男性