今回の歩き旅で、自分の体のことで不思議なことが2つある。1つは、毎日21時前後には寝るのだが、2時前後には目が覚めてそれ以降は眠れないことだ。1度でいいから、目が覚めたら朝だった…という爆睡をしてみたいものだ。
もう1つは、3日目以降、脚の筋肉の痛みや張りがほとんどないことだ。いつもはアスファルトの道を長く歩き続けると、すねの筋肉が痛くなるのだが、それもなく、ふくらはぎも柔らかいままだ。お陰で、腰を下ろしての休憩は昼食時だけである。
さて、昨日の碓氷峠までは、「武州路・上州路」(東京、埼玉、群馬県)で、そのあとは「信濃路
」(長野)の歩きとなっている。
当初の計画よりは快調に足を延ばしている。この旅を勧めて下さった箱館人さんに言わせると、もっと歩けるはずなのに計画が甘かったかららしい。
今日は距離的には和田宿まで歩きたかった。しかし、そこには宿がないようなので、1つ手前の長久保宿までの楽々ペースになった。
朝から11時くらいまで霧雨の中の歩きだった。朝食バイキングを食べてホテルを出て、7:00には中山道へ戻った。
15分ほどで岩村田宿の龍雲寺へ。この寺は、屋根に武田菱が見られ、武田信玄が中興開山し、北信濃や西上州進出の拠点とした寺である。昭和6年に信玄の遺骨が境内で発見されたそうだ。
「岩村田宿」は、城下町ゆえに本陣や脇本陣はなく、旅籠も少なかったが、この地方の経済の中心地として栄えた。それ故に、宿場としての面影はほとんど感じられない。
岩村田宿から塩名田宿へ向かう途中の根々井塚原集落は、立派な門構えの家が多く、旧街道の面影を残している。
「塩名田宿」は、千曲川河畔の情緒のある宿場だった。江戸時代を彷彿とさせる店の大きな屋号看板が目に付く。
珍しく本陣が2軒あった。それは、千曲川の川止めに備えてのこと。画像は、問屋の丸山家の方で、宿場関係の史料が多数保存されているらしい。
千曲川の流れ。昔はよく橋が流されたが、明治時代には舟を繋いで板を架けた舟橋で渡ったそうだ。その絵も描かれていた。
中津橋を渡ると、八幡宿に入っていく。塩名田宿からわずか3kmしか離れていないのは、江戸時代初期に千曲川の川止めの退避地、米の集散地として作られたかららしい。
「八幡宿」の由来となっている八幡神社。859年創建と伝えられる。国の重要文化財に指定されている江戸時代造営の門、本殿、拝殿は見事な造りだった。
和宮から下賜された品物等が伝わる本陣跡。
どの宿場でも、「和宮」降嫁の際のことが詳しく残っているが、それは、3万人もの従者などを連れての行列か数10kmにもなり、それぞれの宿場が何日にもわたり利用されたからのようだ。中山道の歴史で最大のできことだったようだ。
八幡宿と望月宿の間の百沢集落は、わずかな戸数たが、旧街道の面影が強く残る。
今や中山道歩きの人しか歩かない急な瓜生坂。
望月宿の前後はアップダウンが激しく、カッパを着ていると暑くてしようがなかったが、幸い雨が上がってくれた。
3階建ての非常に目を引く大正ロマン漂う井出野屋旅館。
「望月宿」は、御牧ケ原台地の官牧、望月牧に由来する駒の里である。
街道沿いには白壁土蔵や出桁造り、格子の家並みが残っていた。
望月宿と芦田宿の間に位置し、「間の宿」と呼ばれた茂多井は、白壁の土蔵や土塀の大きく立派な構えの家並みが1.7kmにわたって続く。これまでのコースでもっとも江戸情緒を残す美しい町並みだった。この道があまりにも狭くて主要道が迂回したために、宿場内の佇まいがそのまま残ったらしい。
茂多井の武重酒造。このほかに大澤酒造と2 軒も営業を続けているらしい。
ここを抜けたのが、12時だった。11時頃から食事ができるところは1軒も見当たらなかった。ようやくレストランを見つけ、腰を下ろして休み、ソースカツ丼を食べた。
芦田宿の土屋本陣。客室は今でも改築された1800年当時のままのこっている。「芦田宿」は、1843年には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒があり、今でも約700mでその佇まいを残している。
芦田宿を抜けると、笠取峠の松並木が続く。保存のために公園化されている。
そこを抜けると、笠取峠までの国道142号線の長い登りが続く。
笠取峠からは、原道(源道)という中山道歩きの人しか歩かない道もあった。出たところで向きを間違えて同じところへ1回りするポカも。
14:30、今日のゴールの「長久保宿」へ。
この宿場は、最大で43軒も旅籠があり、中山道信濃26宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇っていたそうだ。その要因は、宿の前後に笠取峠と和田峠を控えていたことのほかにもいろいろあったようだ。
旧本陣石合家と復元された高札場
「宿場の中の昔からの宿に泊まりたい」という念願が叶った今日の宿・浜田屋旅館。
創業は江戸時代だが、この木造3階の建物も明治3年創建とのこと。
部屋に通されて、またまた嬉しさ倍増。
さらに、夕食もまた豪華で美味しかった。これで、朝食抜きで大瓶ビールも飲んで8300円は大満足。
一緒に泊まった人も中山道歩きの方だった。高校まで札幌で過ごしたとのことで楽しくお喋りに興じた。この方は東海道も歩かれていて、話を聞いたら、来年はぜひ東海道を歩きたくなった。
【歩数計】41567歩
【諸経費】コピー30円、昼食800円、ビール+宿泊費8300円 〈計9130円〉
もう1つは、3日目以降、脚の筋肉の痛みや張りがほとんどないことだ。いつもはアスファルトの道を長く歩き続けると、すねの筋肉が痛くなるのだが、それもなく、ふくらはぎも柔らかいままだ。お陰で、腰を下ろしての休憩は昼食時だけである。
さて、昨日の碓氷峠までは、「武州路・上州路」(東京、埼玉、群馬県)で、そのあとは「信濃路
」(長野)の歩きとなっている。
当初の計画よりは快調に足を延ばしている。この旅を勧めて下さった箱館人さんに言わせると、もっと歩けるはずなのに計画が甘かったかららしい。
今日は距離的には和田宿まで歩きたかった。しかし、そこには宿がないようなので、1つ手前の長久保宿までの楽々ペースになった。
朝から11時くらいまで霧雨の中の歩きだった。朝食バイキングを食べてホテルを出て、7:00には中山道へ戻った。
15分ほどで岩村田宿の龍雲寺へ。この寺は、屋根に武田菱が見られ、武田信玄が中興開山し、北信濃や西上州進出の拠点とした寺である。昭和6年に信玄の遺骨が境内で発見されたそうだ。
「岩村田宿」は、城下町ゆえに本陣や脇本陣はなく、旅籠も少なかったが、この地方の経済の中心地として栄えた。それ故に、宿場としての面影はほとんど感じられない。
岩村田宿から塩名田宿へ向かう途中の根々井塚原集落は、立派な門構えの家が多く、旧街道の面影を残している。
「塩名田宿」は、千曲川河畔の情緒のある宿場だった。江戸時代を彷彿とさせる店の大きな屋号看板が目に付く。
珍しく本陣が2軒あった。それは、千曲川の川止めに備えてのこと。画像は、問屋の丸山家の方で、宿場関係の史料が多数保存されているらしい。
千曲川の流れ。昔はよく橋が流されたが、明治時代には舟を繋いで板を架けた舟橋で渡ったそうだ。その絵も描かれていた。
中津橋を渡ると、八幡宿に入っていく。塩名田宿からわずか3kmしか離れていないのは、江戸時代初期に千曲川の川止めの退避地、米の集散地として作られたかららしい。
「八幡宿」の由来となっている八幡神社。859年創建と伝えられる。国の重要文化財に指定されている江戸時代造営の門、本殿、拝殿は見事な造りだった。
和宮から下賜された品物等が伝わる本陣跡。
どの宿場でも、「和宮」降嫁の際のことが詳しく残っているが、それは、3万人もの従者などを連れての行列か数10kmにもなり、それぞれの宿場が何日にもわたり利用されたからのようだ。中山道の歴史で最大のできことだったようだ。
八幡宿と望月宿の間の百沢集落は、わずかな戸数たが、旧街道の面影が強く残る。
今や中山道歩きの人しか歩かない急な瓜生坂。
望月宿の前後はアップダウンが激しく、カッパを着ていると暑くてしようがなかったが、幸い雨が上がってくれた。
3階建ての非常に目を引く大正ロマン漂う井出野屋旅館。
「望月宿」は、御牧ケ原台地の官牧、望月牧に由来する駒の里である。
街道沿いには白壁土蔵や出桁造り、格子の家並みが残っていた。
望月宿と芦田宿の間に位置し、「間の宿」と呼ばれた茂多井は、白壁の土蔵や土塀の大きく立派な構えの家並みが1.7kmにわたって続く。これまでのコースでもっとも江戸情緒を残す美しい町並みだった。この道があまりにも狭くて主要道が迂回したために、宿場内の佇まいがそのまま残ったらしい。
茂多井の武重酒造。このほかに大澤酒造と2 軒も営業を続けているらしい。
ここを抜けたのが、12時だった。11時頃から食事ができるところは1軒も見当たらなかった。ようやくレストランを見つけ、腰を下ろして休み、ソースカツ丼を食べた。
芦田宿の土屋本陣。客室は今でも改築された1800年当時のままのこっている。「芦田宿」は、1843年には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒があり、今でも約700mでその佇まいを残している。
芦田宿を抜けると、笠取峠の松並木が続く。保存のために公園化されている。
そこを抜けると、笠取峠までの国道142号線の長い登りが続く。
笠取峠からは、原道(源道)という中山道歩きの人しか歩かない道もあった。出たところで向きを間違えて同じところへ1回りするポカも。
14:30、今日のゴールの「長久保宿」へ。
この宿場は、最大で43軒も旅籠があり、中山道信濃26宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇っていたそうだ。その要因は、宿の前後に笠取峠と和田峠を控えていたことのほかにもいろいろあったようだ。
旧本陣石合家と復元された高札場
「宿場の中の昔からの宿に泊まりたい」という念願が叶った今日の宿・浜田屋旅館。
創業は江戸時代だが、この木造3階の建物も明治3年創建とのこと。
部屋に通されて、またまた嬉しさ倍増。
さらに、夕食もまた豪華で美味しかった。これで、朝食抜きで大瓶ビールも飲んで8300円は大満足。
一緒に泊まった人も中山道歩きの方だった。高校まで札幌で過ごしたとのことで楽しくお喋りに興じた。この方は東海道も歩かれていて、話を聞いたら、来年はぜひ東海道を歩きたくなった。
【歩数計】41567歩
【諸経費】コピー30円、昼食800円、ビール+宿泊費8300円 〈計9130円〉
8日目へ
和田宿の宿舎は廃業したのですね、知りませんでした。
その宿は峠の入り口に合ったので大変便利で、勿論宿泊客は中山道歩きの人だけでした。
明日はいよいよ今回のハイライトの一つの和田峠です。
ますます快調ですね、本日の雨は晴れたようで明日は特に晴天を願っております。足元が悪いところも多くありますのでお気をつけてください。
チョットHPを見ないでいて、今日見てビックリです。
こちらに来ていたのですね。
軽井沢を通過したのでしたら是非再会したかったです。
まだ、道中長いので身体に気を付けて良い旅を楽しんでください。
しかし、あの大きな屋敷に住んでいるのは、お年寄りがほとんどで、一人か二人の家が多いとか。また、寒くてしようがないので、暖かくするための補修費用も大変らしいです。
メールか電話をしようかと迷いました。
昼通過するだけなので、勤務先がコース上だったらお会いしたいとも思いましたが、失礼いたしました。
私も進められましたが、ゆっくりブログに取り組みたかったので止めました。