このたび、北海道新聞社小樽支社長の相原秀起氏は、北海道大学出版会より『追跡 間宮林蔵探検ルート ― サハリン・アムール・択捉島へ』を出版されている。この出版を記念し、函館蔦屋書店でミニ講演が開催されたので、拝聴しに行ってきた。
相原氏は、私の北海道新聞への『ほっかいどう山楽紀行』と『どうなん・とうほく山楽紀行』の連載で、本社時代と函館報道部長時代に、非常にお世話になった方である。先月も函館中央図書館で開催された、函館文化会主催の第4回郷土の歴史講座「函館・空の事件簿~全日空ハイジャック事件から見えたもの~」を拝聴したばかりである。
会場は、私も「北海道の山」と「四国遍路」の2回の講演会を依頼された2階の映像ホールである。
間宮林蔵は、函館にも縁のある江戸時代後期の探検家である。伊能忠敬に測量技術を習い、当時の蝦夷地や樺太を測量し、また、間宮海峡を発見して、地図にその名を残している。
『追跡 間宮林蔵探検ルート ― サハリン・アムール・択捉島へ』は、間宮林蔵の探検ルートを主とした、著者による足掛け約20年間の現地取材をまとめたルポルタージュである。心身ともに苦しく、現在でも容易でないというこの旅路での間宮林蔵の功績の背景には、先住民の協力や交流もあったという。林蔵の測量技術の師である伊能忠敬から信頼を寄せられていただろうとの記述もある。
3年前にも、函館中央図書館で、氏の『間宮林蔵の道を行く』という演題の講演を拝聴している。その時の内容とダブルところが多かった。
講演の内容は、200年後に、氏が林蔵の足跡を追いかけて現地を調査し、間宮林蔵が間宮海峡を発見するに至った経緯や、その後海峡を越えてアムール川の交易地まで行き、当時の北海道や樺太と、中国(清王朝)との活気あふれる交易と人々の様子を伝えたこと、林蔵が残した記録や地図、描いたスケッチなどをもとに、大陸への上陸地点を探し出したこと、現在の海峡の様子やアムール川や謎の交易地デレンの場所の特定やそこまでの街道の発見など、歴史的な遺産や痕跡などを探った取材の様子とその裏話が中心だった。
今回初耳だったのは、間宮林蔵は、現在の上川町のアイヌ集落でアイヌの女性と結ばれて女の子が生まれている。それを突き止めたのは、松浦武四郎だという。その子孫は今でも上川在住で、間見谷姓を名乗っているという。氏は、今の6代目の方にもお会いしているという。
著書も購入してきたので、これから、今日の講演を思い出しながら、じっくりと読ませていただく。
今日も、松田伝十郎の西ルート、林蔵の東ルートの話が出ていました。しかし、伝十郎は海峡の手前までしか行かず、そこで合流したようです。伝十郎の悪者説は初耳です。