いわき・うぶすな広場だより

セカンドライフの生き方を書いています。

山村暮鳥が暮らした界隈を散策!!

2010-12-17 08:30:05 | いわきの歴史

山村暮鳥の「雲」の碑です。
いわき市文化センター前にあります。
昭和59年(1984年)の5月3日に除幕式。
揮毫は平生まれの長女、土田玲子さんでした。


暮鳥が住んでいました、二階建ての一軒屋跡地です。
「日本聖公會平講義所」へ
大正元年(1912年)常陸太田講義所から着任。
その後この家に引っ越しされました。
1階は八畳・三畳で2階八畳で書斎部屋だったといわれます。


清光堂分店の跡地です。
大正三年文芸誌「風景」を出版するも売れなかった。
この店で、三野混沌などと知り合った。

 
中野用品店さん。
詩人・草野心平が磐城中学時代、
ここで「中野サロン」を作り雑誌を作り
詩を書いたといわれるところです。

 先日、12月9日

「てらやまへメール」さんが
http://terayamahe.seesaa.net/

自分のブログで、
山村暮鳥を書いて投稿されていました。

ありがとうございました。
紹介させてください。

2010年12月09日

雲がいい

DSC05552.JPG



雲がいい

暮鳥は未だ

いわき在
 
を書いていただきました。
 
そんなわけで、
山村暮鳥が歩き回ったところを
ラトブでの学習時の昼食後、散策してみました。

山村暮鳥はこの平・在中に一番脂の乗り切ったときで

大正2年・・・5月に「三人の処女」の詩集を出版
         6月に結婚
大正3年・・・文芸誌「風景」を清光堂より出版。
        6月に長女玲子さんが生まれる。
大正4年・・・詩誌「卓上噴水」を人魚誌社から創刊。
        6月に設立した「群衆社」(責任者は花岡謙二)で指導的役割を。
        12月には、「聖三稜玻璃」を出版。
                      ・・・日本の近代詩の新たな境地を確立した詩集です。
大正5年・・・雑誌「ル・プリズム」を創刊。
大正6年・・・9月随筆集「小さな穀倉より」出版。
大正7年(1918年)・・・1月、水戸ステパノ教会に転任。
        9月28日肺結核により大量吐血。
        12月には静養の為、現在の館山市に移り、
        その後住まいを転々とします。
大正9年・・・1月16日三野混沌の招きで好間の菊竹山に移住しますが、
        水源が結核菌で汚染されるとの麓の住民の騒ぎで、
        1週間ほどで、下山を余儀なくされ茨城の大洗に戻られました。
大正13年(1924年)12月、大洗でなくなりました。
このように
山村暮鳥(本名:土田 八九十))…1884年~1924年
大正元年(1912年)9月から大正7年(1918年)1月までの
5年3カ月平に暮らしました。
この間、
詩集を2冊、随筆集を1冊、文芸誌を3冊創刊するなど、約40年の生涯の中でも
最も充実した日々ではなかったかと思われます。

また、キリスト教の布教や創作だけでなく
磐城の文学青年たちにも大きな影響を与え、
三野混沌・猪狩満直なども輩出することになりました。
コメント
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