できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

中学生相手にドッチボールをする私

2025-03-18 19:40:23 | 受験・学校

〇下記の内容は先ほどフェイスブックに書いた内容を転載したもの。実は隔週火曜日の午前中、大阪市西成区のある中学校に通って、生徒指導の会議(主に遅刻・不登校傾向のある生徒への対応についてケース検討などをする場)に顔出しているのですが…。今日は2024年度最後のこの中学校入りなので、飛び入りで「球技大会」にも参加させていただきました。そのことをさっき、書いたものです。

今日の午前中は、2024年度最後の西成の中学校入り。2時間目の生徒指導の会議に出たあと、3~4時間目の1~2年生球技大会(学年縦割り4チームに分かれてのドッチボール)につきあって、昼ご飯食べて14時半くらいに帰宅。帰宅後はしばらくゴロゴロ、うとうとしてました。
さてさて、その球技大会のことですが…。
最初は「見てるだけ」にしようと思っていたのですが、途中で「1年生VS2年生」と「教職員VS生徒たち」という対戦があるところから、私もドッチボールに参加しました。球技大会は体育館でやったので「あ~。これやったら体育館シューズもってきたらよかったな~」と思ったんですけど…。ちなみに「1年生VS2年生」のときは、1年生の人数が足りないので、1年生の助っ人としての参加です。
まあ、そんなわけで、1ゲーム6分で、3分たったらボールが2個になるという対戦2回やりました。ひさびさに中学生・教職員といっしょにおぶ~ちゃんも動きましたが、「野球は無理やけど、ドッチボールならまだまだ中学生と遊べるな~」というところでしょうか。
それにしても…。中学生たちでドッチボールが苦手な1年生たちが
「おじいちゃん助けて~」といって、おぶ~ちゃんの後ろに隠れようとしたんですよね~。「誰やねん、おじいちゃんって?」「おじいちゃんとちがう。おぶ~ちゃんや」というしかないんですけど(笑)
でも、いいですね、球技大会。ドッチボールを通じて、子どもたちと教職員がいっしょになってからだつかってかかわりあって、お互いに笑い合っている様子を見て…。
その様子を見て、「ああ、これやなあ~。いま、この学校の子どもたちが求めていることって」と、あらためて思いました。
また、この中学校の生徒に関係なく、「からだをつかって、真正面から誰かとかかわりあう」という経験って、いまどきの中学生にとって全然足りてない経験かもしれませんね。
もしかしたら教科の学び以前に、こういう経験を積み重ねていくことが、子どもにとっても教職員にとってもますます大事になってきてるんじゃないですかねえ。それは人間としての子どもが、自分らしくめいっぱい「いのち」を輝かせるために必要な経験なのかもしれません。
「なんで部活に中学生たちが夢中になるのか?」というのは、もしかしたら、「それがいちばん、このお年頃の子どもたちがからだで求めていることだから」ということなのかも。
なので、部活を外部委託して「教科の学び」を中心にした学校は、「生徒が夢中になってきた部活に代替できるだけの質量をもった何か」を「教科の学びや体験活動」のなかで提供できなかったら、きっと子どもたちは「からだで」拒否反応を示すんじゃないかな~って思いました。それが「教室に入りたくない」とか、「朝、学校に行きたくない」とか、そういう反応なのではないかと。
なにしろ今日、日頃は学校を休みがちな生徒や遅刻しがちな生徒も、ほぼみんな、球技大会に来ていたんですよね。で、ドッチボールの休憩時間中に話をしたら、「普段の授業より絶対こっちがいい!」と、よく授業休んでいる生徒が言うてましたし…。
2時間目の生徒指導の会議に出席していた教員たちにも見てもらいましたが、毎学期の期末テストの頃にとっている「アセス」の結果を見ても、「友だちが好き・先生が好き・勉強は大嫌い」という傾向が、この学校の生徒たちの多くの正直な生活実感。なので、その「友だちが好き・先生が好き」という気持ちを土台にして「つながり」をより深めるような「学び・体験活動」が日々、教室の内外で創り出せなければ、この子たち「授業に入るのは嫌だ~」ってことになるでしょう。
というような次第で、今まで「いかにして遅刻傾向・不登校傾向の生徒とわたりあえる教職員集団になるか? そんな校風をつくるか?」を、この10年、ここの中学校での私の取り組みの軸にしてきましたが…。次は「友だちが好き・先生が好き」という生徒たちの気持ちを土台にして、どういうかたちで「学び・体験活動」の質的向上を図るのか、ということ。それが数年にわたる課題になるのかな、と思いました。
最後に…。今年度は球技大会に参加させてもらったり、学校ボランティアで本学の学生を送り込んだりしましたが…。来年度は私、どこかの授業でゲスト講師として話をさせてもらおうかな? それと来年度、どこかでドッチボールの試合をするとかいうて、本学の学生を何人か集めて送り込もうかな? 
まー「スポーツ実習」教職クラス(必修)の授業を朝から受講するのが「嫌だ~。めんどくさい~」とかいうてる本学教職課程の学生たちには、「ええか~。学校現場に出たら、どの教科に関係なく、こうやって子どもたちとからだごとつきあう活動する場面があるねん」ってことを理解してもらうには、中学生とドッチボールの試合するのがいちばんやな~って、あらためて今日は思いましたので。
<追記>
なにかと昨今の教育改革絡みで「大阪市(あるいは大阪府)の学校は~」とネガティブなイメージをお持ちの方もいるかと思います。
ですが、それでもなお、こんな感じで、生活の厳しい子どもの現実に根差して、保護者や地域の人々、あるいは私のような学校外の支援者の手助けを得ながら、まだまだ若い世代が中心になった教職員集団で、あの手この手で「学び・体験活動」とその土台になる「子どもどうし・子どもと教職員のつながり」をつくろうとしている学校が、この大阪にはあります。
「いろんな教育改革のしがらみのなかでも、こんな学校もあるんよね~」ということ。そこにも目を向けてほしいな、と思います。


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(予約投稿)教職員の「働き方改革」に関する議論に抱く私の違和感

2025-03-17 00:00:32 | 学問

〇こちらも「予約投稿」で、フェイスブックに先に書いたことの転載・加筆修正をしたものです。また、最近教職員の「働き方改革」が言われるなか、中教審が「夏休み短縮」みたいなこと言い始めてる。それって「働き方改革の空論化」やないか…みたいなツイートをツイッターで見つけたので、こんなことを書きました。

なお、教職員の「働き方改革」論議については、他にも違和感を私が抱く場面が多々あります。働き過ぎで倒れる人・離職する人がいる現状はなんとかしないといけない、私もそう思います。でも他方で「今の議論でほんまにええの?」「なにか教員の仕事や学校・教育について考えておくべき大事なことが抜け落ちてないか?」と思うことも多々あります。なので、今後もこのブログ記事のなかで、私が抱いている違和感について、さまざまなかたちで書いていこう(もしくは、フェイスブックからの転載をしていこう)と思います。

<以下、転載>
教職員の「働き方改革の空論化」は、実は文科省・中教審側だけでなく、いまの文科省・中教審側の動きを批判する側にも起きているのでは? それこそ学校や自治体教委の裁量で教職員の負担軽減の余地が多々あるのなら、本来国政レベルで解決すべきことはなんだろう? そこを整理してるんだろうか?
もう一度、本来公教育の場としての学校が担うべき仕事がなにで、国の大枠のもとで自治体教委と学校がどこまでその仕事の決定についての裁量権を持ち、他の職種や勤務・雇用形態の異なる人と教員がどういう風にその仕事を分担するのを基本とするのか。そこから議論しなおさないといけないのでは?
ついでに今「他の職種や勤務・雇用形態の異なる人」と書いたのは、学校の教職員のなかには教員以外にも養護教諭や栄養教諭、事務職員や用務員等々がいるし、非常勤講師や任期付き採用の常勤講師もいれば、〇〇支援員のような非正規雇用の人もいます。こういう人々とともに働く「同僚性」論が必要です。
「主務教員が入ったら分断されて~」みたいなこという人いますが、いまでも多様な職種・勤務・雇用形態の異なる人が学校のなかで働いています。そういう多様な人々がどうやって子どもの課題解決のために「協働」するのか。そのための「同僚性」ってなんなのか。そこから議論しないといけない状況では?
なので、文科省や中教審側の「働き方改革」の動向を批判するとともに、実は私らそれを批判する側が「自明」のように考えてきた学校で働くことに関する諸理論も、「ほんまにこれでええんかな?」と問い直す時期に来てるように思います。「正規雇用の教員」前提の議論だけでは、もうもたないかと。


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(予約投稿)斎藤兵庫県知事が3月11日に定例記者会見を変更したことについて

2025-03-16 00:00:30 | 国際・政治

〇こちらも「予約投稿」です。先にフェイスブックに書いたことに加筆修正をして、こちらにも掲載しています。

3月5日(水)に兵庫県議会の百条委員会で、例の文書問題に関する調査報告が出ました。その報告で、亡くなった県民局長の出した文書で指摘された斎藤知事やその側近らの問題について、大筋で事実認定されました。これで亡くなった県民局長の出した文書には「公益通報」としての側面があり、退職取り消しの上懲戒処分という対応には問題があることになるわけですが…。しかし、斎藤知事は自分の行ったことについて、頑なに認めようとしない態度をとっています。そこで3月5日の定例記者会見で、報道各社やフリーの記者たちから知事の態度や認識について厳しく詰められたわけですが…。これに対して、なぜか3月11日(火)、東日本大震災から14年の節目の日に定例記者会見の変更が行われました。このことについて、私が思ったことをフェイスブックに書いたのが、以下の文章です。

<以下、フェイスブックからの転載>

政治家や官僚としての実力がないくせに、「この世で何よりも自分が好き」で「常にイケてる自分でいたい」がゆえに、「やっかいな仕事は人任せ」かつ「誰かに自分のことをぼろくそに言われるのが嫌」なんでしょうね。まあ、兵庫県の斎藤知事のことですが。
だから総務省の一官僚よりは、地方自治体の幹部級職員。大阪府の財政課長よりは、兵庫県知事。そういう社会的地位の上昇みたいなことに常に意識が向いている。そういう点でいえば、この人を知事候補として担ぎ出して来た県政の会派には、「あんたら人を見る目ないな」ですね。
就任後の県政においても、観光キャンペーンでコスプレみたいなことはやりたがる。でもその準備で苦労する県職員のことは一切おかまいなし。また、自分が目立てないような場面づくりだったり、自分がイケてる感じに見えないとか、気分よく動けないような事前準備だったら、県職員を怒鳴りまくる。
阪神オリックス優勝パレードも、吉村知事・維新体表を前にして、自分がええかっこできる場面として引き受けたけど、資金繰りがうまくいかず、その補填などの対応を副知事任せ。
亡くなった県民局長の文書が出回り始めたら、すぐに「処分じゃ!」と公益通報保護法そっちのけで大騒ぎ。でも実際に処分等々に手を染めるのは、当時の副知事らの側近たち(このへんでは当時の副知事や側近たちが、知事に輪をかけてひどい対応をしている)。
そして、知事としての自分自身の気まぐれな判断で当時の副知事以下の側近もふりまわされ、県職員も疲弊。
百条委員会がはじまったら、ひたすら「自分は悪くない」と言い続けて、周囲を呆れさせる。
県議会で不信任決議が可決したあとは、今度は知事の座に長く居座るために、失職・出直し選挙への出馬を決める。ひたすら「自分は悪くない、ひとりからの出発だ」みたいなイメージを描いて示しつつ(これは誰か選挙アドバイザーみたいな人の手も借りてると思うけど)、他方で汚れ役をする人(立花氏プラス躍動の会に行った3県議、一部の県内市町市議、その他有力支援者)に誹謗中傷や怪文書の流布などをやらせる。
そして再度の当選を決めたあとも、マスコミなどの批判・追及を前にして「自分は悪くない」を連発。
こういう経過のなかで…。「イケてる自分」を演出しつつ、他方で「鋭い指摘をする取材陣から逃げる」口実として、昨日の3.11への知事定例記者会見の実施日変更が行われたのだと思います。「東日本大震災の復興に向けて、3.11に1.17の兵庫県知事としてのメッセージを発する」というかたちで、「自分がイケてる姿を見せられる場面づくり」というインセンティブも働きますからね。
なので、私は「鋭い指摘をする取材陣から逃げる」だけでは昨日に変えたという理解は、どうも知事のメンタルの状態や思考のあり方を理解するスジとしては、いまひとつ弱い印象ですね。今までだってヘンテコな説明をして、取材陣の鋭い指摘から逃げてきたわけですから、定例記者会見の実施日をどこに移そうが、あまり大差ないかと。それよりは「東日本大震災の復興に向けて、1.17の兵庫県知事としてのメッセージを3.11に発する」ということが、「イケてる自分づくり」に役に立つ。そこに私はやはりこだわってしまいますね。
なにしろ、今もネット上などでは、一部の斎藤知事支持層などが、取材陣を相手に頑なな態度をとる知事を見て「がんばってるぅ~」などと声援を飛ばしてくれるわけでしょ? 彼にとってはマスコミの批判や無視よりも、ネット界にいる「斎藤さんかわいそう~」「知事はがんばってるぅ~」という人々の声でちやほやされるほうが大事なのではないかと。少なくとも私はそう思うわけです。
兵庫県知事の彼が一貫してやっていること。それは「自分の思う<イケてる自分>」でいるためには、どんな手段だって使うということ。取材陣を相手に、これまでの事実経過を無視して「前いうたことと今日いうてることがちがう」とか、「空疎なことばを連発して時間を稼ぐ」とか、そういうことなんて平気。誰かの追及をかわしきれず、自らの非を認めるくらいなら、まわりがどれだけ不幸になろうが、人が亡くなろうが、県政全体が大混乱になろうが、一向にかまわない。そのくらいしてまで「自分の思う<イケてる自分>」を維持したい。そういう頑なな動機、信念がいまの兵庫県知事を突き動かしていると考えると、だいたい、これまでも、これからも、彼のやりそうなこと、言いそうなことがほぼ、予想できるのではないかな…って思いますね。
と同時に、先にも書きましたが県政で彼を知事に引っ張り出して来た会派の「人を見る目のなさ」と、彼の尻拭いをやらされた面はあるとはいえ、その尻拭いがかえって傷口を広げたり、自分たちがさらに悪事を拡大する方向に動いた元副知事以下知事側近にも、やはり問われるべきものが多々ありますね。そして、これだけいろいろ問題が指摘されていても、いまだに「斎藤さんがんばってるぅ~」とか「知事がかわいそう」とかいうてはる、一部の「信者」のような斎藤支持層の人々。この人々こそ、県政の刷新の最大の妨げになっているのではないかと思いますね。


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(予約投稿)大阪の府立高校統廃合と私学を含めた高校授業料無償化をめぐる議論に思うこと

2025-03-15 00:00:11 | 受験・学校

〇これから数日間「予約投稿」で何本か、ブログ記事をアップします。いずれも何日か前にフェイスブックに先に書いたことを転載したり、加筆修正しているものです。

大阪の定員割れ公立高校統廃合と私学を含めた高校授業料無償化との関係の問題についての最近の論評を見ているときに、一向にでてこない論点。それは「中等教育の漸進的無償化」を求めた国際人権条約(社会権規約、子どもの権利条約)との関係に全然ふれていないことです。
なんらかのかたちでの中等教育の費用負担軽減は、公立校にいようが私立校にいようが、そこに学ぶ子どもの権利保障の観点からすると、国際人権条約の批准国として必要になっているはずです。なので「中等教育の漸進的無償化の範囲や手法、実施の手順」を問題にする必要はあっても、「高校の授業料無償化(特に私学部分)そのものがいらん」という議論をするのは、「かなり筋違いの話」なようにも思います。
一方、その無償化の範囲や手法、実施の手順等々については、「ほんとうにこれまでのあり方でよかったのか?」と、きちんとした検証作業をしないといけないと思います。「理念」として漸進的無償化という目指すべき方向性がまちがっていなくても、その「取り組み方」に問題があれば、やはりいろんないびつな状態が中等教育に現れるからです。
それこそ、たとえば「有名大学進学実績の高い高校」や「スーパーサイエンスハイスクール」等々の重点的投資校以外の公立高校は「なくていい」と考え、「授業料補助をつけて生徒に私学に流す」ことで、広域自治体としての都道府県の財政上の負担が軽くなればそれでいいとか。「競争すれば高校教育はよくなる!」とかいいながら、既存の学区を解体して広域化してみたり、公立高校の施設整備の改修すらまともにやらず、むしろ公立高校を弱くする施策を意図的にやってきたとか。さらには自分たちで私学に通う生徒への授業料助成を行う制度をつくっていながら、財源に困れば国に泣きつき、「私らが国に先駆けて私学の授業料無償化を実現した!」という宣伝をするような政治家に対しても、やはり、私としては強い嫌悪感を抱きます。
また、中等教育の漸進的な無償化に関する施策が、公立高校の重点投資校設置に関する施策、学区の再編など他の施策と結びついたときに、公教育の枠組み全体にどのような正負両方の影響を及ぼすのか。この間、そのことについての議論が不十分でなかったのか。そういうことも、私としては今、感じているところです。
そして一時期、どこぞの広域自治体の行った私学の授業料無償化施策を「すばらしい」などといって絶賛していた教育政策論や子どもの貧困問題の某研究者。「あんた、この現状見て何を思ってる? 大丈夫か、あんたのアタマ? 無償化と言われたらすぐに手をあげて喜んでるようでは、政治家にいいように扱われるわ」と言いたくなりますね。いまはこども家庭庁の施策あたりでちょろちょとうごめているようですけど…。


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稲賀繁美さんの退任記念最終講義が3月11日(火)にありました。

2025-03-14 10:35:57 | 学問

気づけば今日は3月14日(金)ですね。前にこのブログを更新してから、だいぶん時間がたちました。この間は、卒業判定の会議や年度末の学内の会議に出たり、研究室論集の編集作業をしたり、4年生教職組のレポート集をつくったり、猪名川町教育委員会の会議に出たり…。まあ、なにかとやることが多かったですね。

そんななか、3月11日(火)に、今年度末で退職する本学国際文化学部の稲賀繁美さんの退任記念最終講義(プラス懇親会)がありました。学生有志、特に4年生教職組の学生が中心になって準備をして、それを国際文化学部グローバルスタディーズ学科(稲賀さんの勤務する学科)の教員たちが学生のサポートをする。そんなかたちでこの最終講義の準備が進んでいたのですが、前々日の9日(日)に「住友さん、手伝って!人手がたりない!」と、学生スタッフのリーダーから電話が入りました。なので急遽、11日は朝から大学に出勤し、学生スタッフや教員たちとこの稲賀さんの退任記念最終講義を盛り上げようと、いろいろ動いておりました。とはいえ、私が実際に当日動いたことといえば…。机やいすを運んだり、記録写真を撮ったりという程度なんですけどね。

稲賀さんとはたった4年間、国際文化学部の開設以来の短いおつきあいで…。研究室の前を通るたびにごあいさつする程度のかかわりしか、今年に入るまであまりありませんでした。ところが1月末にやった「国際文化学部イブニングセミナー」で、私が最近の中学校社会科・高校地歴科の学習指導要領や教科書の内容について報告したときに、稲賀さんもセミナー(と懇親会)に来ておられました。そこで私の話を聴いて、比較文化論・文化史の研究者としての稲賀さんが「この話、おもしろい」と。そこから急に親しく接していただけるようになりまして…。特に最近の地理や世界史の学習内容の変化の部分に、なにか、稲賀さんのご専門との関連でぴ~んと来るものがあったようです。そんなわけで、私も退任記念最終講義のお手伝いができて、よかったです。

まあ、そんなわけで、稲賀さんの退任記念最終講義の画像を何枚か、ここで紹介しておきます。


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