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新政府を夢見た幕臣と志士たちは同じ夢を見ていた『一外交官の見た明治維新』

2021-08-03 07:52:56 | 歴史から学ぶ
明治維新、岩倉具視の執拗なる警戒心は徳川派(反新政府派)へ強行に殺戮行動が行われたこと、また徳川派の逃亡者からの嘆願書においても厳しい沙汰をしている。英国、仏国含めた諸外国の公使たちの「中立」の立場は新皇帝派と徳川派(反新政府派)に対して米国ジャクソン号戦艦の引き渡しも新政府の最終終戦宣告が出るまで試行する事なく、最後は岩倉に対して「中立宣言」を中止明言したことは疑問が残る。いずれにせよこの書はアーネスト・サトウが西南諸藩贔屓であったこと、一人の通訳官として感じ取った日記の書である事だ。
結局、幕末に起きた諸々の事件の当事者たちは「同じ夢」(新たな日本)を見ていた者同士だった、と言える。だが、新政府側の無知な武士たちが幕府側の多くの優秀な人材を殺戮し、結局「攘夷」と言った薩摩長州人が諸外国との交易を優先させたことは残念だと言うしかない。さらに新政府幹部の贅沢は域を超えていたということも。
『一外交官の見た明治維新』アーネスト・メイスン・サトウ
「概要」薩英戦争と下関戦争、開港をめぐる激しい外交戦、熱い政治談義、刺激的な国内旅行、そして戊辰戦争―英国青年外交官が「幕末日本」を全身で体感する! 攘夷の嵐が吹き荒れ、政局が緊迫する文久二(1862)年、アーネストは西郷隆盛ら雄藩・幕府の要人、果ては天皇、あるいは市井の人々との出会いを重ね、日本文化の奥深さに魅了され、そしてときには命の危険を乗り越えながら、彼は日本史上の最大転換点を目撃する。
「史実」(アーネスト・サトウ)
・交換レート:正規にはメキシコ銀百ドル=一分銀214枚 実際の条約では310枚だった
日本の封建制不満:
    神聖な土壌に外国人が足を踏み入れることへの諸侯の反対
    外国との貿易で生じる利益を君主が独占していたことに不満
    世襲制の弊害から貴族階級・名目上の権限への不満
・江戸・徳川幕府の長期政権:    
    優れた軍事道路の拡張(全国的な支配を有効に把握できた)
    世襲制の基盤(4大将軍まで)
・通訳・翻訳
    江戸時代は日本語~オランダ語~英語へ通訳
        ユースデンからシーボルト、ウイリス・アーネストらが翻訳
    ブラウン牧師宣教師とヘボン医学博士の辞書(1886年)
日本地図・印刷物
    外国人に対しては販売禁止とされていたが通訳を通じて入手できた
・賠償金と要求(リチャードソン殺害)
    遺族に金貨1万ポンド、謝罪、犯人逮捕し処刑する
    犯人逮捕しない幕府に対しさらに10万ポンドを請求、30日間の余裕を与えた
    戦艦10隻ほど港で待機(大砲35門など)
・薩摩・鹿児島砲撃
    幕府は支払いを承諾、金貨を差し出す、が薩摩が犯人を出さないことで出撃
    7名が死亡、将校一人が負傷
    薩摩交渉は五代と松木(後の寺島外務大臣)
    薩摩の140トン石炭搭載船が沈没(30万ドルの価値が消失)
・下関戦闘
    連合艦隊の勝利となり1900人が上陸、1854年代もの32ポンド砲など破壊
    長州は約200名の戦闘員しかいなかった(噂では6百人)
    条約条件 1、大砲の排除、2、戦争放棄 3、捕虜返還 賠償金は幕府が肩代わり
    長州交渉は伊藤と井上
・イギリス・ラザフォード総指揮官
    下関等で領土にある大砲を破壊する以上のことはなく、のちに功績として北京公使
    攘夷派、幕府派等どちらにも加担しなかったことがのちの王政復古を導いた
    戦争に対して勇敢、冷静、公務に大使は厳格、人々に慈悲深い性格だった
    下関賠償請求の50万ドルを幕府に請求 幕府が肩代わりした理由は友好関係
    
        条件として関税の引き下げ、兵庫・神戸開港、分割支払いを了承する
        日本人が外国へ自由に渡航できること
「英国策論」アーネスト・サトウ著 1868年
    日本政治体制を再編し大名による連邦制度の確立を提唱、本として販売、噂された
・14代将軍家茂の死亡は天然痘だとした説から毒殺という説も浮上(長州人からの情報)
・公用旅行者の料金に対し一般客の4分の1程度とされていた(決まりがあった)
・高貴な人の沐浴には宿泊先では背中を洗うという女性の世話役がいた
宮廷の高官「例幣使」勅使には往々にして詐欺まがいの旅人から金を巻き上げる者がいた
・大政奉還等の上層文は後藤象二郎等の原文
イギリス特命全権公使サー・ハリー(長州・薩摩)とフランスロッシュ全権公使(幕府)ではロッシュの方が格上で他国も賛同していた。(日本での活動はフランスの方が歴史が深い)
    慶喜は内戦を回避するために京都、大阪から江戸に退避(京都会議入りを薩摩が妨害)
    他の大名たちは将軍の利権を譲与してもらうことで戦いを望んではいなかった
    帝も戦い(宮殿での戦い)を恐れ将軍慶喜に退去する命令を出したとも言う
    伏見の戦いは徳川の兵士の発砲が発端だと薩摩が主張
    桂(木戸)は京都潜伏中は薩摩出身と偽っていた
    板倉家老は慶喜が京都入りするのを阻止しようと薩摩兵が伏見に火をつけたと主張
    藤堂が身を翻した、理由は帝の旗で戦意を失した事で薩摩長州軍は勝利する
    会津・桑名と慶喜との戦争状態として伊達、三条、東久世が帝の補佐官とした
    大久保は討伐に中山道に5千人、箱根方面に7千人の薩摩長州兵を送った
    五代は江戸を破壊するためにイギリス軍艦を購入要請、米国は拒否
    諸外国公使からの条件
        公使館を江戸から京都に置くことの了承
        港の半径24.5マイルに外出自由許可
        外国貨幣の流通許可
・1868年2月3日 
    帝の書簡で全ての外交契約書は将軍名を帝に差し替えるだけと現状維持を宣言
・水戸の残党「天狗連」武田耕雲斎らは敦賀で数百人が斬首、5百名は越後に逃亡した
・会津若松藩は最後まで戦い、領主父子の投降後城で生き延びていたのは600名いた
・日本国憲法 米国政治理念が色濃く反映されてフルベッキ博士、大隈、副島が執筆
    基本は太政官(政府)が力と権限は立法、行政、司法に3分することを基本
    全ての公人は4年ごとに交代、任命は多数決で半数以上
    半分以上公人は2年人しを継続させる (当時は大統領と顧問官としていた)
    最終的に伊藤博文によって1889年に再執筆
新政府の資金
    江戸幕府の金庫はほぼ空で徳川の所領の分配しかなかった
・明治初期は日本の正月は2月11日だった
・サトウの1921年出版されたこの小説内容は概ね西南諸藩を同情的に扱った書籍となる
1864~1868年英仏関係は対立関係となるが英国パークス(新皇帝派・新政府側)、フランスロッシュ(幕府側・徳川派)は共に内戦には直接加担をしていないが、物資、武器等の調達貿易には積極的だった。



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