私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

福子

2011年03月18日 23時38分03秒 | Weblog
私は過食症です。

私は無職です。

私は創価学会員です。

私は今、一人暮らしをしています。

私は親の脛をかじっています。


1月の終わり頃のことです。

母から今住んでいる部屋を出て別の場所に住むように言われました。

即ち、引っ越しせよとのお知らせです。

その告知により、当時順調に過食を抑えた生活をしていたのに、それが崩壊しました。

それだけ、今の生活環境は私にとって重要であり、壊されたくないものでした。

別の場所に住むことは厭わないです。

ただ一つ、懸念があります。

創価学会のことです。

今住んでいるところでは学会活動には関与していません。

しかし、引っ越しに伴い、学会の名簿も親が勝手に新住所に登録するでしょうから、そうなるとまた学会員の家庭訪問を受ける羽目になりそうです。

それが嫌で嫌で堪りません。

そういった意味で、1月の終わり頃に届いた母からの知らせは、私にとって最悪のものだったのです。


ついさっき、母から電話がありました。

改めてその話をされました。

好きなテレビ番組を見ていて、正直話に集中できず、引っ越しに対する抗議もできず、ただ唯々としていました。

いままた改めて精神的ショックが大きい。

学会活動は大嫌いです。

でも、それを母に言えなかった。

その遺憾というか悔恨というか、苛立たしさがあります。

大好きなテレビ番組の放送中に電話してきた母の狡さが憎たらしい。


明日もう一度、今度はこちらから電話して、学会の名簿を移すなと抗議したい。

でも、億劫です。

そう簡単には受け入れられないだろうと思うから。

1月の終わりごろ、最初に引っ越しせよと言われたとき、そのショックで翌日に過食を発作させましたが、先ほど二度目の連絡を受け、たいへんショックを受け、明日は大丈夫だろうか。

あした、こちらから電話しよう。

自分の身を守るために。

断固。

間違った「被災者のために」

2011年03月18日 09時10分02秒 | Weblog
東日本大地震が起きて「被災者のために」という言葉をよく耳にします。

被災者のために寄付をする。

被災者のために物資を送る。

それらはいいことだと思います。

ただ被災者のために自粛するというのは違います。

自粛しようがしなかろうが、それは被災者の人たちにとっては関係がないことです。

例えばプロ野球。

開幕を延期するかどうかで、延期した方がいいという人たちの意見には「被災者の人たちのためにも」という考え方があると思います。

細かくいえば、被災者球団の楽天イーグルスのことやナイターを実施するうえでの消費電力のことなどいろいろあるでしょうが、「こんなときなんだから被災者の人たちのために」延期すべきだという考え方はあるずです。

楽天に関しては確かに本拠地での試合ができないのでフェアじゃないため、楽天のあるパ・リーグが延期すべきだという理由はわかります。

では、セ・リーグが延期すべき理由とは何でしょう。

消費電力の問題があるなら早朝から試合をすればいいだけです。

なんでもかんでも「被災者のために」ではいけません。

私は野球に関しては無知ですが、開幕を延期したからといって被災者にとって何か実質的な効果がでるとは思えません。

そんな間違った「被災者のために」は、「被災者のせいで」と紙一重です。

被災者のことを考えたら試合なんかできないというのは、自分の精神状態がそんな状況じゃないから、という意味のはずです。

なら開幕を延期するのは、自分のため、です。

こんな状況じゃなくてもっと落ち着いた状況で開幕してほしいと思うのは、全部「自分たちのために」のはずです。

それを何食わぬ顔して「被災者のために」とすり替えてるところに違和感を覚えます。

なんでもかんでも「被災者のために」にされては困ります。

そんな間違った「被災者のために」が横行することで、まるで被災者が日本を非行動的な状況に陥れてる張本人であるかのようです。

被災者が心にショックを受け、行動力が削がれてる今、被災者でない我々こそ行動しないことの意味よりも行動することの意味に目を向けるべきではないでしょうか。