8月25日付 産経新聞【正論】より
「正史」とは歴代中国王朝の自己正当化の手段にすぎない 「歴史修正主義」の罵倒に臆するな! 加地伸行氏
http://www.sankei.com/column/news/160825/clm1608250009-n1.html
≪使用者で変化する用語の意味≫
歴史上、長く使われてきた言葉の場合、その概念が定まっているので、意味が動かない。
例えば摂政。その意味は「政(まつりごと)(政事)を摂(と)る(執行する・担当する)」ということで、かつて中国では「輔(ほ)政」とか「議政」とかとも言い、そうした官職が臨時的であったが存在していた。
ただし、それらは皇帝親政(皇帝親(みず)から政(まつりごと)す)や天皇親政の時代のもので、今日のような国民主権そして立憲君主制の近代国家における摂政とは異なる。
もっとも、共通するものがある。摂政は、あくまでも一定期間の代理として任命されたのであるから、時機をみてその任を解く。すなわち摂政は官職なのである。
一方、例えば皇后は「冊立(さくりつ)」と称し「立皇后」(皇后に立つ)を表す。皇族なので交代はなく、除くときは「廃」となる。
さて現代。上述のような例と異なり、用語の概念が絶対的でなく、使用者によって、その意味が変化してしまうことがある。
例えば「福祉」。これは幸福という意味で西暦前の中国で生まれた言葉であり、わが国の民法第1条「私権は、公共の福祉に…」、日本国憲法第12条「…常に公共の福祉のために…」など5カ所にその意味として使われている。
しかし、現代では「福祉」といえば、ほとんど「社会福祉」という意味に使われている。
この例のように、抽象的な意味の場合、漢字熟語を使って表すことが多いが、その作成後、漢字熟語の字面(じづら)だけが一人歩きする宿命がある。その例が「歴史修正主義」という言葉である。
≪最高実力者を正統とする中国≫
歴史修正主義-この言葉自体は、文字通り当たり前のことを示している。すなわち、歴史を研究する際、客観的証拠に基づいて事実を明らかにし、従来の観点や定説の不備を修正し、より正確な歴史を明らかにするということであるから。
ところが、この用語が戦後70年において政治性を帯びていった。事の起こりは、ナチスのユダヤ人に対する非人道的行為という〈歴史〉に対して、そのようなことはなかったと〈修正〉する説が出たからである。これに対し、そのような〈修正〉が歴史的事実に反するにも拘(かか)わらず登場したのは、政治的発言であり、歴史研究の成果ではないとの批判が出た。
以来、「歴史修正主義」という用語は、政治性の有無に対する評価を表すようになり、本来の歴史研究上の意味が不幸にも崩れてしまった。
しかも、崩れた意味での〈歴史修正主義〉を強く前面に出してきたのが、特に中国であった。
もともと中国には〈正史〉という観念がある。司馬遷の『史記』に始まり歴代王朝の大半に対して、各正史が作られてきた。官製の歴史であり、これを軸とした。その他の歴史は野史であった。
飛んで現代。中国共産党では、時の最高実力者のすることが正統であり〈正史〉的であり、それと異なる思想や行動は〈修正主義〉として否定してきた。近くの好例は文化大革命。
政治的失策で失脚していた毛沢東が権力奪回闘争をしたのが文化大革命であったが、最大対象の劉少奇国家主席を〈修正主義〉と攻撃し、その打倒に成功した。その間、修正主義者と罵倒された人々の運命は悲惨であった。どれほど多くの人々が追放され、殺害されていったことであろうか。
≪〈正史〉にしがみつくのは過誤だ≫
このように、中国では、「修正主義」、延(ひ)いては「歴史修正主義」という用語は、非常に強い政治性を帯びている。現政権担当者の自己保身のための〈正史〉を守り、それに反する考えを〈歴史修正主義〉として力で排除する。
例えば南京大虐殺は、中国の正史としては存在している、いや存在しなければならないという悲鳴なのである。
その正史を否定するなどという主張や研究は歴史修正主義であり、許さない。それは、歴史研究という学問的立場ではなく、政治的立場からの批判なのである。
評論と研究とは異なる。評論の世界とは自己の理解に基づく主張である。政治性もあるだろうし、時には反社会的性格も帯びよう。要は、その主張の独自性と説得力との問題である。それに拠(よ)っての歴史修正説が出ることもあろう。
一方、研究の世界とは、資料を根底にした客観的事実に基づき、既存の研究(正史に相当)に対して批判を加え、説得力のある妥当な真実を提起すること(それを修正と笑わば笑え)なのである。特に文系の研究の世界では〈修正〉は当然のことであり、常のことである。〈正史〉として従来の説にしがみつくのは、過誤である。
歴史修正主義-それは文系学問研究の態度として本来正しい。修正主義者という政治的罵倒に臆することなく、学問研究が絶えざる修正であることに自信をもって、特に近現代について研究してほしく、それを日本の若い研究者に期待している。(大阪大学名誉教授・加地伸行 かじ・のぶゆき)
「正史」とは歴代中国王朝の自己正当化の手段にすぎない 「歴史修正主義」の罵倒に臆するな! 加地伸行氏
http://www.sankei.com/column/news/160825/clm1608250009-n1.html
≪使用者で変化する用語の意味≫
歴史上、長く使われてきた言葉の場合、その概念が定まっているので、意味が動かない。
例えば摂政。その意味は「政(まつりごと)(政事)を摂(と)る(執行する・担当する)」ということで、かつて中国では「輔(ほ)政」とか「議政」とかとも言い、そうした官職が臨時的であったが存在していた。
ただし、それらは皇帝親政(皇帝親(みず)から政(まつりごと)す)や天皇親政の時代のもので、今日のような国民主権そして立憲君主制の近代国家における摂政とは異なる。
もっとも、共通するものがある。摂政は、あくまでも一定期間の代理として任命されたのであるから、時機をみてその任を解く。すなわち摂政は官職なのである。
一方、例えば皇后は「冊立(さくりつ)」と称し「立皇后」(皇后に立つ)を表す。皇族なので交代はなく、除くときは「廃」となる。
さて現代。上述のような例と異なり、用語の概念が絶対的でなく、使用者によって、その意味が変化してしまうことがある。
例えば「福祉」。これは幸福という意味で西暦前の中国で生まれた言葉であり、わが国の民法第1条「私権は、公共の福祉に…」、日本国憲法第12条「…常に公共の福祉のために…」など5カ所にその意味として使われている。
しかし、現代では「福祉」といえば、ほとんど「社会福祉」という意味に使われている。
この例のように、抽象的な意味の場合、漢字熟語を使って表すことが多いが、その作成後、漢字熟語の字面(じづら)だけが一人歩きする宿命がある。その例が「歴史修正主義」という言葉である。
≪最高実力者を正統とする中国≫
歴史修正主義-この言葉自体は、文字通り当たり前のことを示している。すなわち、歴史を研究する際、客観的証拠に基づいて事実を明らかにし、従来の観点や定説の不備を修正し、より正確な歴史を明らかにするということであるから。
ところが、この用語が戦後70年において政治性を帯びていった。事の起こりは、ナチスのユダヤ人に対する非人道的行為という〈歴史〉に対して、そのようなことはなかったと〈修正〉する説が出たからである。これに対し、そのような〈修正〉が歴史的事実に反するにも拘(かか)わらず登場したのは、政治的発言であり、歴史研究の成果ではないとの批判が出た。
以来、「歴史修正主義」という用語は、政治性の有無に対する評価を表すようになり、本来の歴史研究上の意味が不幸にも崩れてしまった。
しかも、崩れた意味での〈歴史修正主義〉を強く前面に出してきたのが、特に中国であった。
もともと中国には〈正史〉という観念がある。司馬遷の『史記』に始まり歴代王朝の大半に対して、各正史が作られてきた。官製の歴史であり、これを軸とした。その他の歴史は野史であった。
飛んで現代。中国共産党では、時の最高実力者のすることが正統であり〈正史〉的であり、それと異なる思想や行動は〈修正主義〉として否定してきた。近くの好例は文化大革命。
政治的失策で失脚していた毛沢東が権力奪回闘争をしたのが文化大革命であったが、最大対象の劉少奇国家主席を〈修正主義〉と攻撃し、その打倒に成功した。その間、修正主義者と罵倒された人々の運命は悲惨であった。どれほど多くの人々が追放され、殺害されていったことであろうか。
≪〈正史〉にしがみつくのは過誤だ≫
このように、中国では、「修正主義」、延(ひ)いては「歴史修正主義」という用語は、非常に強い政治性を帯びている。現政権担当者の自己保身のための〈正史〉を守り、それに反する考えを〈歴史修正主義〉として力で排除する。
例えば南京大虐殺は、中国の正史としては存在している、いや存在しなければならないという悲鳴なのである。
その正史を否定するなどという主張や研究は歴史修正主義であり、許さない。それは、歴史研究という学問的立場ではなく、政治的立場からの批判なのである。
評論と研究とは異なる。評論の世界とは自己の理解に基づく主張である。政治性もあるだろうし、時には反社会的性格も帯びよう。要は、その主張の独自性と説得力との問題である。それに拠(よ)っての歴史修正説が出ることもあろう。
一方、研究の世界とは、資料を根底にした客観的事実に基づき、既存の研究(正史に相当)に対して批判を加え、説得力のある妥当な真実を提起すること(それを修正と笑わば笑え)なのである。特に文系の研究の世界では〈修正〉は当然のことであり、常のことである。〈正史〉として従来の説にしがみつくのは、過誤である。
歴史修正主義-それは文系学問研究の態度として本来正しい。修正主義者という政治的罵倒に臆することなく、学問研究が絶えざる修正であることに自信をもって、特に近現代について研究してほしく、それを日本の若い研究者に期待している。(大阪大学名誉教授・加地伸行 かじ・のぶゆき)