2月20日付 産経新聞【正論】より
プーチン氏は北方領土返還の決意まで熟していない 日本が「木を揺さぶり」続けても徒労に終わる
北海道大学名誉教授・木村汎氏
http://www.sankei.com/column/news/170220/clm1702200005-n1.html
今年は、ロシア革命勃発から数えて100周年に当たる。ロシア革命は、一体なぜ起こったのか。この機会にこの問いを考えることは、他の歴史的事件の原因を考えるうえにも参考になろう。
≪タイミングを見定めた揺さぶり≫
ロシア革命の発生事由に関しては、「リンゴの木」理論がある。リンゴが木から落ちたのを見て、或(あ)る者は説く。「ニュートンの法則」が作用したにすぎない。万物が上から下へと落下するのは、自然の摂理である。ソビエト期にマルクス主義に立つ学者たちは、主張した。帝政ロシアの専制、経済的困難、帝国主義外交-これらの結果として、ロシア革命は起こるべくして起こった。客観的必然性に基づく事件だった、と。
ところが別の或る者は説く。リンゴの木の下で人間が幹を揺るがしたからこそ果実が落下したのだ、と。人間の主観的営為を重視する見解である。例えば、当時のロシアにレーニンなる人物がいなかったと仮定しよう。その場合、ロシア革命はきっと異なった経過を辿(たど)ったり、違った結果を招来させたりしたのではなかろうか。レーニンを含む革命指導者たちの意志や主張が果たした役割の大きさを強調する見方に他ならない。
右の2説とも極論であり、両説を統合させた第3説こそが適切。これが、私の意見である。リンゴは熟すと、たしかに落下する運命にあったのかもしれない。だが、その落下は下から揺さぶるという人間の行為がきっかけになって促進されたり、若干違った形を導いたりするに違いない。つまり、客観的状況が熟しかけた頃合いを見計らって、人為的な圧力を加えると、本来の行為がよりスムーズ、かつ当方が望むような形で進捗(しんちょく)する。したがってタイミングを見定めて適切な行動をとること-これこそが単に革命のみならず、全ての政治行動の「要諦」になる。
「リンゴの木」の例えは、ロシア革命以外の政治現象の説明にも適用可能だろう。戦後日本外交の最大の懸案事項は、北方領土問題を解決しての平和条約締結。では、この課題に取り組む日本側のアプローチや行動様式は、果たして適切なものだろうか。「リンゴ理論」を参考にして、この問いを検討してみよう。
≪経済は追い詰められているのか≫
現政権はロシアが経済的苦境に陥っていると判断して、同国に経済協力を提供し、それと引き換えに北方領土返還を勝ち取ろうともくろむ。
現ロシアが目下、経済上の“三重苦”の最中にあることは確かだ。原油価格の下落、ルーブル安、先進7カ国(G7)による制裁である。ところが、右のような政経リンケージ(連関)作戦は、少なくとも次の2点で現ロシア事情を正確に捉えていない。
1つは、ロシア経済がいまだ領土を譲る決意を下さねばならないまでに、落ち込んでいるわけでないこと。ゴルバチョフ、エリツィン政権下ではほとんどそう決心させるまでに経済が困窮した時期があった。ところが、プーチン政権は約10年近くのあいだ空前の石油ブームに恵まれ、一時は世界3位の外貨準備高すら蓄積した。その恩恵は社会の下部にもしたたり落ち、ロシア国民はいまだ若干のたんす貯金を隠し持っている。
日本からの支援によってロシア経済が潤うことになっても、それは劇的な万能薬とはなりえない。ロシア極東地方や北方四島の住民が多少の利益を被るだけにとどまり、ロシア国民全体にとっては恐らく、すずめの涙程度の効果しかもたらさないだろう。
≪領土返還の機はいまだ熟せず≫
もう1つは、プーチン大統領の目眩(めくら)まし作戦が、目下、功を奏していること。
同大統領は経済的困難から国民の目をそらすために巧妙な戦術を実行している。具体的な外敵を設定し、それに対する「勝利を導く小さな戦争」の遂行である。国有化されたロシアの3大テレビは、ウクライナやシリアでロシア軍が輝かしい戦果を収めつつあるとの報道を、連日連夜、垂れ流す。結果として、プーチン大統領は80%台の高支持率を享受している。
このような状況に身をおいている大統領が、一体なぜ現時点で日本に対して領土返還に応じなければならないのか。ウクライナからクリミアを奪う一方で、日本へは北方領土を引き渡す。理論上は正当化可能かもしれないが、これは大概のロシア人の心情にはしっくりとこない取引だろう。
しかもプーチン氏は、2018年3月に次期大統領選を控えている。同選挙さえクリアできれば、氏には24年までさらに6年間の任期が保障される。このように重要な時期に当たり、同氏があえて火中のクリを拾ってまで経済協力の代償として領土返還を決意する-。到底このようには思えない。
以上要するに、いまだ客観情勢、即(すなわ)ちタイミングはプーチン大統領をして北方領土の対日返還を決意させるまでに熟していない。にもかかわらず今年も日本政府が「木を揺さぶり」続けることだけに熱中するならば、努力は徒労に終わりかねないだろう。(北海道大学名誉教授・木村汎 きむらひろし)
プーチン氏は北方領土返還の決意まで熟していない 日本が「木を揺さぶり」続けても徒労に終わる
北海道大学名誉教授・木村汎氏
http://www.sankei.com/column/news/170220/clm1702200005-n1.html
今年は、ロシア革命勃発から数えて100周年に当たる。ロシア革命は、一体なぜ起こったのか。この機会にこの問いを考えることは、他の歴史的事件の原因を考えるうえにも参考になろう。
≪タイミングを見定めた揺さぶり≫
ロシア革命の発生事由に関しては、「リンゴの木」理論がある。リンゴが木から落ちたのを見て、或(あ)る者は説く。「ニュートンの法則」が作用したにすぎない。万物が上から下へと落下するのは、自然の摂理である。ソビエト期にマルクス主義に立つ学者たちは、主張した。帝政ロシアの専制、経済的困難、帝国主義外交-これらの結果として、ロシア革命は起こるべくして起こった。客観的必然性に基づく事件だった、と。
ところが別の或る者は説く。リンゴの木の下で人間が幹を揺るがしたからこそ果実が落下したのだ、と。人間の主観的営為を重視する見解である。例えば、当時のロシアにレーニンなる人物がいなかったと仮定しよう。その場合、ロシア革命はきっと異なった経過を辿(たど)ったり、違った結果を招来させたりしたのではなかろうか。レーニンを含む革命指導者たちの意志や主張が果たした役割の大きさを強調する見方に他ならない。
右の2説とも極論であり、両説を統合させた第3説こそが適切。これが、私の意見である。リンゴは熟すと、たしかに落下する運命にあったのかもしれない。だが、その落下は下から揺さぶるという人間の行為がきっかけになって促進されたり、若干違った形を導いたりするに違いない。つまり、客観的状況が熟しかけた頃合いを見計らって、人為的な圧力を加えると、本来の行為がよりスムーズ、かつ当方が望むような形で進捗(しんちょく)する。したがってタイミングを見定めて適切な行動をとること-これこそが単に革命のみならず、全ての政治行動の「要諦」になる。
「リンゴの木」の例えは、ロシア革命以外の政治現象の説明にも適用可能だろう。戦後日本外交の最大の懸案事項は、北方領土問題を解決しての平和条約締結。では、この課題に取り組む日本側のアプローチや行動様式は、果たして適切なものだろうか。「リンゴ理論」を参考にして、この問いを検討してみよう。
≪経済は追い詰められているのか≫
現政権はロシアが経済的苦境に陥っていると判断して、同国に経済協力を提供し、それと引き換えに北方領土返還を勝ち取ろうともくろむ。
現ロシアが目下、経済上の“三重苦”の最中にあることは確かだ。原油価格の下落、ルーブル安、先進7カ国(G7)による制裁である。ところが、右のような政経リンケージ(連関)作戦は、少なくとも次の2点で現ロシア事情を正確に捉えていない。
1つは、ロシア経済がいまだ領土を譲る決意を下さねばならないまでに、落ち込んでいるわけでないこと。ゴルバチョフ、エリツィン政権下ではほとんどそう決心させるまでに経済が困窮した時期があった。ところが、プーチン政権は約10年近くのあいだ空前の石油ブームに恵まれ、一時は世界3位の外貨準備高すら蓄積した。その恩恵は社会の下部にもしたたり落ち、ロシア国民はいまだ若干のたんす貯金を隠し持っている。
日本からの支援によってロシア経済が潤うことになっても、それは劇的な万能薬とはなりえない。ロシア極東地方や北方四島の住民が多少の利益を被るだけにとどまり、ロシア国民全体にとっては恐らく、すずめの涙程度の効果しかもたらさないだろう。
≪領土返還の機はいまだ熟せず≫
もう1つは、プーチン大統領の目眩(めくら)まし作戦が、目下、功を奏していること。
同大統領は経済的困難から国民の目をそらすために巧妙な戦術を実行している。具体的な外敵を設定し、それに対する「勝利を導く小さな戦争」の遂行である。国有化されたロシアの3大テレビは、ウクライナやシリアでロシア軍が輝かしい戦果を収めつつあるとの報道を、連日連夜、垂れ流す。結果として、プーチン大統領は80%台の高支持率を享受している。
このような状況に身をおいている大統領が、一体なぜ現時点で日本に対して領土返還に応じなければならないのか。ウクライナからクリミアを奪う一方で、日本へは北方領土を引き渡す。理論上は正当化可能かもしれないが、これは大概のロシア人の心情にはしっくりとこない取引だろう。
しかもプーチン氏は、2018年3月に次期大統領選を控えている。同選挙さえクリアできれば、氏には24年までさらに6年間の任期が保障される。このように重要な時期に当たり、同氏があえて火中のクリを拾ってまで経済協力の代償として領土返還を決意する-。到底このようには思えない。
以上要するに、いまだ客観情勢、即(すなわ)ちタイミングはプーチン大統領をして北方領土の対日返還を決意させるまでに熟していない。にもかかわらず今年も日本政府が「木を揺さぶり」続けることだけに熱中するならば、努力は徒労に終わりかねないだろう。(北海道大学名誉教授・木村汎 きむらひろし)