さて、どこから書き始めようか・・・
今、なぜ「師匠」の意味を辿るのか、それは自分が新たなるステージ、新しい世界の入り口に差しかかっているからかもしれません。
そして、師匠という存在に学び、この道を志した、そんな経験から少し振り返りを行い、来たるべき時に備え、「師匠」というものの意味を自分の肚に落とし込んでおくことが必要なのだと直感を得たため、この物語を記しておこうと閃きました。
まずは報告と言いますか、お知らせでもあります。
私が18歳より10年間、住込みで修業させていただき、開業後もご指導、ご教授いただいておりました 師匠 東洋医学研究所®所長 黒野 保三先生が、令和3年9月27日に、92歳でご逝去され旅立たれました。
先生は、91歳まで現役で鍼治療をされておりました。脱帽、感服でございます。
本当にさみしいのですが、生前の言葉ではいい尽くせない弟子へのご指導やご配慮、鍼灸界への多大なるご貢献に深く深く感謝いたしますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ここが振り返りをブログに記しておこうと思った大きなきっかけでもありました。
黒野先生の功績などは、私の持っている資料から追々、物語の中で書かせていただきます。
さて、患者さんによく、「なぜ、鍼灸の道に進もうと思ったんですか」と聞かれます。
高校生当時、松井秀喜さん、奥川恭伸選手など優秀なプロ野球選手も輩出している星稜高校野球部で甲子園を目指して野球三昧、野球に明け暮れていました(勉強もそこそこやってました😁)。野球ではチームに所属したのが小学校4年からですから9年間行いました。
私は補欠でしたがよくケガをしていました。そんなんじゃレギュラーにはなれませんよね
そんなとき、現在も金沢市でかわもと接骨・鍼灸院で鍼灸マッサージ施術をされている、私のメンターのお一人 川本 力雄先生に施術をしていただいてました。
川本先生に鍼灸やマッサージ、スポーツ障害の処置を受けながら、野球に関わることができ、人のためになる、こんな仕事いいな~とおぼろげながら思っていました。
進路を考える中で、自分の家の経済事情もあり大学へ行くのは難しいかな~ということと、会社で働くのではなく、何か手に職をつけたり、野球に関わる仕事ができればと考えていたこともあり、自然と鍼灸マッサージの道へと進む思いが膨らんできました。
もう一つ進みたかった道は、プロ野球の審判でしたが
私がこの道に進路を決め、専門学校の資料を取り寄せ、東京にしようか、大阪にしようか、名古屋にしようか迷い(当時は学校数も少なかった)、川本先生のところに相談に行きました。それが師匠の黒野保三先生との接点でした。
当時、川本先生は全日本鍼灸学会という鍼灸の学術団体の石川地方会 会長の任に就かれていました。
黒野先生は、本部の総務部長をされていました。
川本先生が会長時に石川県金沢市で全日本鍼灸学会学術大会が準備されており、その関係で川本先生は黒野先生とよく連絡を交わされていました。
その中でどんな会話がなされたかは分かりませんが、こんな男が鍼灸マッサージ師になりたくて学校を探していますので、先生のところで勉強させてもらえませんか・・・そんな会話がされたのかもしれません。
川本先生から、名古屋に黒野先生という方がいらして、私もたいへんお世話になっている。一度、話をうかがってきてはどうかと連絡を受け、川本先生の紹介なればということで、二つ返事で両親とともに黒野先生が所長をつとめる名古屋市千種区の東洋医学研究所®に向かうことになるのでした。
この出逢いが、また不思議な感覚だったのです。
今でもよく覚えています。
この続きから、次回、第1話として話を始めていきます。
本当に感謝することは、治療技術や学識、経営、それも大事ですが、人間的な部分を師匠から多く学べたこと、それが今でも大きな財産です
それにご紹介いただいた川本先生もですが、人間的魅力に溢れており、その情熱に人が集まる点は共通な何かを感じ、人を惹き付け、引っ張っていく魅力を肌で学ぶことができました。
それを私が実現しているかは・・・まだまだの所が多くあります。
しかし、今の立場があるのは、この大いなる力か何かによるご縁と、修業時代の学びのお陰だと思っております。
これから少しずつ、私の次なるステージ、新たな世界への旅立ちのための「師匠とは何なのだ」という物語を、黒野保三先生という師匠の出逢いから回想していきます。
その中で私なりの師匠像というものを描き出し、導き出し、自分の人生を振り返り、今後の成長の糧としていきます。
第何話までになるか分かりませんが、回想録を書いていくと誓った令和3年11月でした。
人生には絶妙なスパイスが散りばめられていると、つくづく思います
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
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