1月19日の金沢市鍼灸マッサージ師会 新春役員研修会で下沢広伸 金沢市議会議員からお話があった人物である「佐久間 勉 海軍大尉」の話に感動してしまったので、少し調べてみることにしました
佐久間 勉 海軍大尉(国産初の第六号潜水艦艇長)
明治12年(1879)に生まれ、福井県三方町の出身です。幼いころから勤勉で、家計を助けるため教科書はすべて書きうつしていました。
海軍兵学校に入った後、明治42年、30歳にして初の国産潜水艦である、第六号潜水艦艇長に就任しました。艇の開発に尽力されました。山口県沖での演習中に海水が流入し、潜水艦は海底に沈み、二度と自力で浮き上がることができないこととなった。佐久間艇長以下、乗組員14名は、最後まで自分の職を全うし、艇が引き上げられた時には、全員持ち場を離れず亡くなっていました。艇長以下乗組員14名の死に様は、日本もさることながら、世界中に感動を呼びました。
佐久間大尉はこの事故で明治43年(1910)、31歳の若さでこの世を旅立たれました。
その感動の実話をお話させて頂きます
明治43年4月15日 午前9時50分、第六号潜水艇は山口県新湊沖において半潜航実験の後、全潜航に入り海底沈座などの潜航訓練を開始した。しかし間もなく海水が浸入し必死の排水作業にも係わらず、佐久間 勉 艇長以下14名を載せた六号艇が再び自力で浮上することはなかった。
翌16日に沈没した艇体が発見され、17日になって浅瀬に回航された。当時の潜水艇の性能から生存者の望みは無かった。
問題は乗組員が帝國海軍軍人として相応しい死に方をしているか、という一点にあった。
直近で英仏海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたからだ。
「よろしいっ」
まさに絶叫であった。引き揚げられた六号艇の状況を検分した吉川中佐の絶叫は号泣に変わり、男泣きに泣き崩れた。
艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に、14名の乗組員は全員それぞれの部署を離れず、艇の修復に全力を尽くし、従容として見事な最期を遂げていた。
その後、収容された佐久間艇長の遺体のポケットから39ページに及ぶ遺書が発見された。沈没後電燈が消えて、酸素は刻々と消費されていく。ガソリンによる瓦斯は艇内に充満し、おそらく部下は一人また一人と絶命していったことだろう。佐久間艇長はそのような環境の下、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせる罪を謝し、乗組員全員が職分を守った事を述べ、沈没の原因・沈据後の状況を説明した後、公言遺書を記している。
『 佐久間 艇長 の遺言 』
小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。
沈没の原因
瓦素林潜航の際、過度深入せしため「スルイス・バルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
沈拒後の状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。
十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
一、沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し
終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず
「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
(后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
溢入の水に浸され乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず。
余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず。細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
一、司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず。
この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
一、潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す。かかるときに困る故。
幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。 我れは常に家を出づれば死を期す。
されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり
(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
公遺言
謹んで 陛下に白す。我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを。我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊 小生の兄なり)
船越大佐 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常にくるしい
瓦素林をブローアウトせしし積もりなれども,ガソリンにようた。
中野大佐
十二時四十分なり
遺書は「十二時四十分ナリ」と記して終わっています。この次の瞬間絶命したのだと思います。
当時、事故に対する遺族への補償金などの支払規定はありませんでした。佐久間艇長の遺言は上奏され、勅命によって直ちに裁可されました。
佐久間大尉以下乗組員14名の行動は、昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。
ところが、ただ唯一有色人種が白人に戦争で勝利し、人種差別撤廃を世界の場で公言した、日本が再起できないように、日本人の精神面から破壊を行うために、精神的支柱となるものはすべて、戦後、進駐軍(GHQ)により、日本人の前からは排除されました。修身における佐久間大尉の項目は削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体されました。
その修身の教科書 「沈勇」(戦前の小学校六年生用修身教科書より)には…
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいって来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺書を書きつけました。
遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くような事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくわしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長飫以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
格言 人事ヲ尽クシテ天命ヲ待ツ。
と書かれ、日本人の実践すべき精神的手本として書に、そして日本人の意識に残っていました。
佐久間 勉 大尉の行動については、百人百様いろんな捉え方があると思います。
私は、この31歳という年齢でありながら、生きる限界まであきらめず、チャレンジして、その場を脱しようとした精神力。また、もう駄目だと分かった時には、それは苦しかった辛かったと思うが、「どう死すか」を沈着に選択できた人間力、これは私にも、そして現代に生きるものにとっての一つの手本となると思いました。
また、その佐久間大尉に心も態度も最後までついていった乗組員の覚悟と信頼は素晴らしいものだと思いました。
また、死と直面し、不安と恐怖に覆い尽くされた環境の中で、まず国家の長たる天皇陛下にお詫びをし、さらに当時、神なる存在であった天皇陛下にあてて、
この事故を礎に、さらに潜水艦技術の向上を願うということ、
乗組員が最後まで全力を尽くして職責を全うしたこと、
乗組員が死した後の残された家族のことを心配し、その補償をお願いしたこと
この緊急時に、これだけ自分の国を思い、乗組員ばかりか、その家族のことまで思いを巡らすことが自分にはできるかな?と思いました。
この遺書を読んだ時、佐久間大尉の話を聞いた時、自分が、もうすぐに死すという時に、このような状況判断ができるのかと驚嘆と感動をしてしまいました。これこそ、家庭で、学校で、職場で、自分の責任とは何なのか、他人や社会に対して正直で誠実な心の在り方、判断方法、行動とは何なのかということを、幼いころから身に沁みて教育されてきた現れだと感じました。
この話は、私たちに目に見えない大切なものを教えて頂いているのだと思います。そして、佐久間大尉以下14名の乗組員に限らず、多くの素晴らしい先人が、たいへんな時代を乗り越え築き上げてきたからこそ、今の「日本」という国があることを心から感謝させて頂きました。
今、日本は様々な問題に直面していますが、世界の多くの国と比較し豊かです。戦争もありません。日々の生活を自分がやりたいと心に思えば実現する可能性のある国です。いろんな不平不満はあるかもしれませんが、豊かです。
この状況は当たり前ではないのです。
では、自分の人生において社会に対する使命は何なのか、何をやることで世の中の役に立ち、自分を成長させられるのか、それぞれの立場で考えるきっかけになる話でもあると思うのです。
佐久間大尉の話は、日本だけでなく世界でも称賛されました。少し長くなりましたので、そのお話は~二の巻~で、ちょっとだけ書きたいと思います。
では
二葉鍼灸療院 田中良和
佐久間 勉 海軍大尉(国産初の第六号潜水艦艇長)
明治12年(1879)に生まれ、福井県三方町の出身です。幼いころから勤勉で、家計を助けるため教科書はすべて書きうつしていました。
海軍兵学校に入った後、明治42年、30歳にして初の国産潜水艦である、第六号潜水艦艇長に就任しました。艇の開発に尽力されました。山口県沖での演習中に海水が流入し、潜水艦は海底に沈み、二度と自力で浮き上がることができないこととなった。佐久間艇長以下、乗組員14名は、最後まで自分の職を全うし、艇が引き上げられた時には、全員持ち場を離れず亡くなっていました。艇長以下乗組員14名の死に様は、日本もさることながら、世界中に感動を呼びました。
佐久間大尉はこの事故で明治43年(1910)、31歳の若さでこの世を旅立たれました。
その感動の実話をお話させて頂きます
明治43年4月15日 午前9時50分、第六号潜水艇は山口県新湊沖において半潜航実験の後、全潜航に入り海底沈座などの潜航訓練を開始した。しかし間もなく海水が浸入し必死の排水作業にも係わらず、佐久間 勉 艇長以下14名を載せた六号艇が再び自力で浮上することはなかった。
翌16日に沈没した艇体が発見され、17日になって浅瀬に回航された。当時の潜水艇の性能から生存者の望みは無かった。
問題は乗組員が帝國海軍軍人として相応しい死に方をしているか、という一点にあった。
直近で英仏海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたからだ。
「よろしいっ」
まさに絶叫であった。引き揚げられた六号艇の状況を検分した吉川中佐の絶叫は号泣に変わり、男泣きに泣き崩れた。
艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に、14名の乗組員は全員それぞれの部署を離れず、艇の修復に全力を尽くし、従容として見事な最期を遂げていた。
その後、収容された佐久間艇長の遺体のポケットから39ページに及ぶ遺書が発見された。沈没後電燈が消えて、酸素は刻々と消費されていく。ガソリンによる瓦斯は艇内に充満し、おそらく部下は一人また一人と絶命していったことだろう。佐久間艇長はそのような環境の下、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせる罪を謝し、乗組員全員が職分を守った事を述べ、沈没の原因・沈据後の状況を説明した後、公言遺書を記している。
『 佐久間 艇長 の遺言 』
小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。
沈没の原因
瓦素林潜航の際、過度深入せしため「スルイス・バルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
沈拒後の状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。
十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
一、沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し
終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず
「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
(后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
溢入の水に浸され乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず。
余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず。細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
一、司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず。
この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
一、潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す。かかるときに困る故。
幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。 我れは常に家を出づれば死を期す。
されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり
(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
公遺言
謹んで 陛下に白す。我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを。我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊 小生の兄なり)
船越大佐 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
十二時三十分呼吸非常にくるしい
瓦素林をブローアウトせしし積もりなれども,ガソリンにようた。
中野大佐
十二時四十分なり
遺書は「十二時四十分ナリ」と記して終わっています。この次の瞬間絶命したのだと思います。
当時、事故に対する遺族への補償金などの支払規定はありませんでした。佐久間艇長の遺言は上奏され、勅命によって直ちに裁可されました。
佐久間大尉以下乗組員14名の行動は、昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。
ところが、ただ唯一有色人種が白人に戦争で勝利し、人種差別撤廃を世界の場で公言した、日本が再起できないように、日本人の精神面から破壊を行うために、精神的支柱となるものはすべて、戦後、進駐軍(GHQ)により、日本人の前からは排除されました。修身における佐久間大尉の項目は削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体されました。
その修身の教科書 「沈勇」(戦前の小学校六年生用修身教科書より)には…
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいって来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺書を書きつけました。
遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くような事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくわしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長飫以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
格言 人事ヲ尽クシテ天命ヲ待ツ。
と書かれ、日本人の実践すべき精神的手本として書に、そして日本人の意識に残っていました。
佐久間 勉 大尉の行動については、百人百様いろんな捉え方があると思います。
私は、この31歳という年齢でありながら、生きる限界まであきらめず、チャレンジして、その場を脱しようとした精神力。また、もう駄目だと分かった時には、それは苦しかった辛かったと思うが、「どう死すか」を沈着に選択できた人間力、これは私にも、そして現代に生きるものにとっての一つの手本となると思いました。
また、その佐久間大尉に心も態度も最後までついていった乗組員の覚悟と信頼は素晴らしいものだと思いました。
また、死と直面し、不安と恐怖に覆い尽くされた環境の中で、まず国家の長たる天皇陛下にお詫びをし、さらに当時、神なる存在であった天皇陛下にあてて、
この事故を礎に、さらに潜水艦技術の向上を願うということ、
乗組員が最後まで全力を尽くして職責を全うしたこと、
乗組員が死した後の残された家族のことを心配し、その補償をお願いしたこと
この緊急時に、これだけ自分の国を思い、乗組員ばかりか、その家族のことまで思いを巡らすことが自分にはできるかな?と思いました。
この遺書を読んだ時、佐久間大尉の話を聞いた時、自分が、もうすぐに死すという時に、このような状況判断ができるのかと驚嘆と感動をしてしまいました。これこそ、家庭で、学校で、職場で、自分の責任とは何なのか、他人や社会に対して正直で誠実な心の在り方、判断方法、行動とは何なのかということを、幼いころから身に沁みて教育されてきた現れだと感じました。
この話は、私たちに目に見えない大切なものを教えて頂いているのだと思います。そして、佐久間大尉以下14名の乗組員に限らず、多くの素晴らしい先人が、たいへんな時代を乗り越え築き上げてきたからこそ、今の「日本」という国があることを心から感謝させて頂きました。
今、日本は様々な問題に直面していますが、世界の多くの国と比較し豊かです。戦争もありません。日々の生活を自分がやりたいと心に思えば実現する可能性のある国です。いろんな不平不満はあるかもしれませんが、豊かです。
この状況は当たり前ではないのです。
では、自分の人生において社会に対する使命は何なのか、何をやることで世の中の役に立ち、自分を成長させられるのか、それぞれの立場で考えるきっかけになる話でもあると思うのです。
佐久間大尉の話は、日本だけでなく世界でも称賛されました。少し長くなりましたので、そのお話は~二の巻~で、ちょっとだけ書きたいと思います。
では
二葉鍼灸療院 田中良和
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