-空白の短歌史-「戦時下、空白の短歌史を掘り起こす」
「綜合詩歌」誌鑑賞(1)
この稿は、ある短歌誌に寄稿し一年半にわたり、連載された15章の文章が下敷きとなっています。
それは、戦時下に発刊され、東京大空襲の昭和二十年(1945年)三月まで、12年間余にわたって発行され続けた「綜合詩歌」誌の、終焉に向う一年半に限定して鑑賞を行ったものです。内容は歌学、歌論、代表歌人の短歌作品、エッセー、作品への批評等々多岐にわたりました。
今回の稿は短歌作品及び、その批評に関連する部分のみを抽出し、一つの歌評集として再編集したものです。
治安維持法改定の1929年3月から、敗戦の1945年8月にいたる間に発表された、詩歌及び小説等を含む文学作品に、私は一種の痛ましさを感じてきました。それは、わずかに許容された表現空間の中に、自らに課したぎりぎりの抑制のもとに情念の昴まりを吐き出す。その表現者の心情と、うめきが、さらに慟哭が作品の行間に否応なく滲んでいるからでもありました。
また、これら十数年にわたる歳月は、文学全般はもとより短歌と、その歌人にとっても、不幸な時代であつたと言わざるを得ません。戦中の作品、出版物は、過酷な「発禁」や出版統制を考慮しても、この時代の作品数は極めて少なく、時局を忖度せざるを得ず、涙を呑みながらも、作者自身によっても意識的にネグレクトされてきたとも推測されます。
しかし、戦時下に発刊され、12年余にわたって発行され続けた、この「綜合詩歌」誌に触れ、その作品群の底流をなす、おおらかさ、純粋さ、さらに投稿歌の抄出、作品掲載に示された詩歌誌編集者の懐の広さに、改めて深い感慨に浸りました。
本書において、これらの事実に光を当て「空白となっている短歌史」の空白部分を、多少なりとも掘り起こすことができればとの想いから、戦後76年目の終戦記念日の本日を期して記すことに致しました。
なお、この治安維持法は、1929年改訂の事後承認に反対した衆議院議員の暗殺という痛ましい歴史を背負っていることを付記したいと思います。
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「雪渓の石楠花」
奥信濃の深山の頂に、白馬の大雪渓を背に人知れず咲く石楠花の花。 その花のうす紅色と、雪渓の白さとのコントラストに息を呑んだ遥か青春の日の記憶が甦る。人の世の毀誉褒貶をよそに、己の生命の摂理に従い、厳しい風雪に耐え蕾みを育て、 花をつけ密やかに散っていく。その花の生涯の見事さは幻の名花のゆえんであり、 正に「愛惜の外に花は散る」の感が深い。
歴史を遥かに遡るが、日本の国際連盟脱退の年。昭和八年に創刊され、 真珠湾奇襲の昭和十六年を経て、アッツ島玉砕の昭和十八年に改巻。さらに昭和十九年七月「とねりこ」「博物」を統合し「春秋」と改題し、東京大空襲の昭和二十年三月まで、十二年余にわたって発刊され続けた歌誌「綜合詩歌」の歩み。
激動の時代の狭間に生まれ、風雪を超える厳しい時代の荒波の中で蕾を育て、 懸命に咲き静かに散って行ったこの詩歌誌。そこに、雪渓を背に咲く石楠花の鮮烈なイメージが重なって見える。
本稿では、歴史に埋もれ、ある意味で戦後歌壇から意識的に抹殺されてきた 詩歌誌「綜合詩歌」、その昭和十八年八月号より誌の紹介を中心に鑑賞を行っていきたい。
この歌誌は、発行兼編集人に当たる野村泰三(敬称略。以下同様)が 「周辺随想(1)」で、述べているように「総合雑誌と結社誌を揚棄した雑誌の出現」を標榜し創刊、改巻された。 「・・・歌壇の現状は、真に清純なる新人を待望しあるいは歌壇の覚醒を 願うならば、従来の如き短歌結社にあらざる、もちろん総合雑誌的なものでもない。 全く新しいものが生まれでて来なければならないのである。最近の歌壇の混沌の中から、 立ち至るところ、総合雑誌と結社誌を揚棄した雑誌の出現が、ここにおいて必然性を帯びているのを知るのである」。
本誌は、その書名が示すとおり、短歌(投稿歌も含む)、歌論、詩論、評論、テーマ論文及び、随筆とから構成されている。折からの戦時統制化にあって、発刊に当たっては関係官庁の特段の配慮があったと聞き及んでいるが、その準備、運営、維持にあたった方々の苦労は、想像を絶するものがあったと拝察する。
「未来の未来は現在にある」と、かつてある哲学者は語ったが、私達の目指す「短歌一条の道」の現在と、明日をしっかりと見据えるため、その一つの視点をこの 「綜合詩歌」の歴史から学び、掘り下げていきたい。その過酷とも言える時代背景を 勘案しつつ。
短歌作品は代表的歌人による題詠、投稿歌、八月詠の三部構成から成っている。 代表的歌人としては、前田夕暮れ、宮柊二、尾山篤二郎、木俣修、野村泰三の五氏の 他に十二名の方が作品を寄せている。さらに、投稿歌には鷲尾熊彦氏をはじめ146名の 錚々たる方々が作品を寄せている。
これらの作品の中から世情を反映し心に響いてくる歌、さらに歴史的事実として心に刻んでいきたい作品を中心に、僭越ながら抄出させて頂いた。 先ずは代表歌人のものから抄出させて頂く。
国土世界 前田 夕暮
○国土世界にみちてあまねきみ光を総身に感じ虔しみをるも
○あたたかき極大慈悲母のおはします空をあふぎていのち足らへり
○萱草の花あえかなる日の照りに母思ひいづをさな心は
玉とくだく 尾山 篤二郎
○花咲かば氷とけなば翼あらばといかにや待ちし行軍二千
○いでたたば還らぬことは無論ながら益荒男つひにかへらず
挽歌 宮 柊二
○大君のおほきみ征のさながらを力盡してうたひましにけり
○響(とよ)みつつ東におこるものの音ききもはてなく君逝きませり
沈丁花 野村 泰三
○沈丁花まどに匂ふを愛しめば幽かなるかもいのち生きつつ
○おろそかにいのち過ぎきししかすがに悔ゆるはあらずわれのつつしむ
岳麓吟 木俣 修
○木苺の花しろじろと咲くみれば甲斐の谷田の夏かたまけぬ
○郭公のよび啼く方や霧はれて木高き朴の花も光り見ゆ
世相とは裏腹に、あるいはそれ故にか野村、木俣両氏の歌には青春の日の隠しようも無いロマンシズムと、まどろみを排して自己の裡に未来への指標を求める真摯さが溢れている。ただ、「いでたたば還らぬことは無論ながら益荒男つひにかへらず」と詠った尾山氏の心中は「名誉の・・・」とは遠い、察して余りある哀悼の誠が表出されている。
次に投稿歌の中から同様の抄出を行って行きたい。
いのち 清水 勝
○桜花散りしくなかに全かるいのちをおきていくさに思ふ
○きびしかる流轉なりしが生き死には越えて静かに歌詠まむとす
ひさかたの 大野 水脈子
○寝ねがたき枕は悲し夜もすがら海なき町の潮騒を聞く
○激しさはエルモのさがに似たる火のむなしくもゆる思ひなれども
さらに当月号の「八月詠」の中から抄出を続けたい。
○弾丸(たま)受けしわがつはものが母さんと臨終の際に叫びしといふ
臼井 民子
○ゆたかなる愛情として解くべきか言葉すくなく君征(た)たします
逸見 貞子
○くだけ散る波の岩間に咲く花の耐えつつ尚も生きむとすらむ
桐井 緑
○冷えしきる山のひそけさ傷兵が窓ごとに飼へる鳥は鳴かずも
水城 秋歩
○朝夕に待たぬ日はなし召されたる兵吾子の便りいかにと
宮武 とく代
○愛し子を北の守りに捧げたる母なる人の涙して座す
鈴木 恒子
○北海のほとりに咲ける杏などなべてかすむと父母へ書く
小山 徹
戦争が、そして戦時下の銃後の状況が個人に何をもたらしたか。これらの歌は、 その問いに対する個々人のぎりぎりに抑えた回答の言の葉であり、思いを深く秘めた 歌でもある。また、戦争を決して巨視的にのみ見てはならないことを、「愛し子を北の守りに捧げたる母なる人の涙して座す」の歌をはじめ、これらの歌は 深く静かに訴えかけてくる。どんな状況下でも淡々とした日常があり、人が人に寄せる情愛の深さがあったと言うことを・・・。
歌論及び、詩論においては、それぞれ浅野晃、大野勇二の両氏が時局を踏まえた 含蓄のある論を展開している。その一部のみを抜粋し掲載したい。
歌のまさみち 浅野 晃
「・・・作者の心からの祈りが一首の調べの上に隠れもなく滲み出ているところが 尊い
のである。・・・達者な歌、いかなる標語をも器用に詠みこなす、あるいは詠み込む
という事は出来るかも知れぬが、相聞のまことの嘆きへと、昴まってゆかぬのでは
ないか。・・・」
詩とは何ぞや 大野 勇二
「・・・詩は・・・鋭い感覚が物を言う。単に思想を述べたもの、単に感慨を綴った
のみでは此の感覚の批判の一撃には耐え得ない。詩は詩の面目にかけてのみ詩である、
という厳粛な至上命令は今日も決して滅びてはいないまである」。
詩歌誌「綜合詩歌」、その昭和十八年八月号の短歌を中心に鑑賞を行いましたが、今後も資料としての紹介を主題に掲載して参りたいと思います。ご意見、ご批評を頂ければ幸いです。
「初稿掲載 平成18年8月15日」