「戦時下、空白の短歌史を掘り起こす その3」
「忘れな草への序章」
かのナポレオンの最終決戦、ワーテルローの戦で倒れた兵士の胸に咲いた花。 忘れな草は偽りのない誠と、率直な友愛のシンボルとも言われる野の花でもある。 そして「ソ連の水爆の父」と仰がれながら、ソ連軍の1979年12月アフガニスタン侵攻に反対し「流刑の沈黙に」耐えたアンドレイ・サハロフ博士の、追悼の夕べの祭壇を飾った花でもある。
「酔芙蓉」(八重)
人が己の信念を行動に移そうとする時、そこに少なからぬ逆流が生ずる。 その信念が時の権力者や権威に逆らうものであるとき、逆流はより大きく激しさを増す。 それは本人は言うに及ばず、家族もさらには友人、隣人をも巻き込み、時にはその生命まで 奪ってしまうことは、多くの歴史的事実が教えている。かのガリレイは言うまでもなく、 わが国においても大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを告発し、乱を起こし自死を余儀なくされた大塩平八郎、治安維持法改正に反対し暗殺された山本宣治等々、数多の事例を見ることが出来る。
「忘れな草」ネットから借用しました。
それらの逆流にあえて身を晒したペレストロイカ前のサハロフ博士の言動を改めて 思い起こすとき、自国の民衆への限りない愛情と、信頼に裏打ちされた「人間への希望」、「人類共生」への深い思いを看る事ができる。そして死への恐怖をも含む葛藤を乗り越えた者のみが持つ、静かな微笑を湛えたその姿は、今もなお鮮明に私達の脳裏に焼きついている。
この「人間への希望」は、先見性と人類愛に溢れた科学者の思想の根幹を成すものであったが、 人間と人間が殺しあわなければならなかった戦争と言う極限の中で、文学を志しその陣地を守ろうとする者にとっても、その糧ともすべき思いではなかったかと考える。
「秋薔薇」
太平洋戦争の戦局が苛烈さを極めつつあった昭和十八年十月、なお、投稿者の数を 増やし発刊され続けた「綜合詩歌」十月号に前号に引き続き、「人間の希望」を尋ねてみたい。 前号と同様に短歌作品の抄出、鑑賞を中心に歌論を合わせて紹介しそれらの文の行間に 溢れる思いも汲み取って行きたいと考える。
当月号に短歌を寄せている代表的歌人は、後に芸術院会員となった前川左美雄氏を初め、穂積忠、下村海南、松田常憲、原真弓、野村泰三の各氏を含む十一名の方々である。平成二年三月一日発行の「短歌四季春」号で、おりしも前川佐美雄氏の特集を組んでおり、合わせて年譜も掲載され昭和十八年当時の氏の歩みが確認できる。この年は氏の長男佐重郎氏が誕生し、「春の日」「日本し美し」の第五、第六の歌集が出版されている。 先ずは「綜合詩歌」十月号に掲載された前川氏の作品から五首抄出したい。
金剛 前川 佐美雄
○ 金剛の青嶺大きくはだかりて麓をよろふ山ををらせず
○ 一言の神の社の銀杏樹にひよどりの鳴く秋に来たりぬ
○ 鳴りかぶら引きしぼらせてこの山の大猪たしし帝しぬばゆ
○ 戦いに勝たせたまへといただきの午前五時ごろ杉の木下に
○ 末の世のわれは如何なるいのちぞも萍(うきくさ)はしきり野川ながるる
これら五首と、昭和五年七月刊行の前川氏第一歌集「植物祭」の次の三首とを比べてみたい。
○ 戦争の真似をしてゐるきのどくな兵隊のむれを草から見てゐる
○ われわれの帝都はたのしごうたうの諸君よ万とわき出でてくれ
○ われわれの周囲になんのかかわりもない遠方に今日も人が死んでる
これら歌柄の変化は、十三年の歳月によるものか、また、時局の流れへの深い洞察によるものかは定かではない。しかし、氏の第二歌集「大和」(昭和十五年出版)に 掲載された、次の三首は氏のこの間の心の軌跡を示す象徴的な歌として私たちも心に 刻んでいきたい。
○ あかあかと硝子戸照らす夕べなり鋭きものはいのちあぶなし
○ 万緑のなかに独りのおのれゐてうらがなし鳥のゆくみちを思へ
○ 無為にして今日をあわれと思へども麦稈焚けば音立ちにける
むせかえるような万緑の中で味わう孤独感。己自身をも含む「人間への希望」を人一倍いだきながら、なお揺れるその想いは物に挑もうとする時、誰しもが襲われる葛藤かもしれない。ましてや、表現すること、詠うことに命をもかけざるを得なかった時代。これらの作品群を世に問うた歌人の志に、サハロフ博士とは時代も、状況は異なっても底流をなす心意気と勇気とに相通ずるものを感ずる。時代の濁流の中で真摯に守り深められた 詩精神と、歌へ真向かう志を学んでいきたい。
「むくげ」(八重)
なお、当月号には前述の通り歌友諸兄もご存知の穂積忠氏も作品を寄せている。僭越ながら氏を始めとした代表歌人の歌を抄出したい。
日記抄 穂積 忠
○ 時鳥ききつと告げて胸あまるものにか耐えめ梅雨入りひそけし
○ 時鳥季節にあひつつ寂しさは去年より深し憶ふものかも
○ さぶしさをひとに告げねど時鳥啼く弱昼は籠居りかねつ
餘燼 山本 初枝
○ のこされし生に乞ふ幸やいくばくとまたよりゆかむ身が切なしも
○ 生命の果てやいづこと朝勤行終へての後に掌をくみてゐつ
○ 暁じろむ霧に髪ぬれ佇てらくはきざすひとつの想ひ冷ゆべき
その母 渡辺 曾乃
○ その母の悲しみをすら知りて居つ娘のいとしさや髪結ひてやる
○ 我が経来しかなしき道を踏ませじと娘に思ふなり夜を覚めつつ
○ 翅そらし舞ひすむあきつ雨あとの陽射の中に光とも見ゆ
汝が父 野村 泰三
○ わがいのち遠く承けきて無邪気ならずいさぎよきもの清くあるべし
○ その父にその母に似ずひたすらに生きよわが子ようるはしくも
○ 寂寞たり青葉の光に爪を剪り棄て思うこともなし
父の子に対する思い。そして、母の子に対する思いは、時代を越えて響き会うものがある。時代が厳しければ厳しいほど、また経て来た道のりが苦渋に満ちたものであればあるほど、わが子にはそれを味合わせたくないと思う親心は想像に難くない。未来そのものであるわが子。そのよりよき明日を願う思いは、死と隣り合わせであった戦時下の父母たちの切実な 祈りでもあった。
「酔芙蓉」(八重)
当月号には新企画として投稿作品に対して、複数の批評者が重層的な批評を行う形式をとった、言わば「誌上歌会」の欄が設けられている。これらの形式は今の結社誌でも参考にしたい画期的な試みと考える。この作品評欄から一部抜粋したい。
○ とぎれつつ目路の果てまで海凍り空の青さをふふむひとところ
加藤 「青さをふふむ」は、含むとの意ならんも、果たしてこういう言葉を用いることが適切なりや。といつても単に「うつる」というので良いと言うのではない。 初句のおきどころ、これまた問題であろう。
館山 もっと腹の底から声を出して歌い上げればよかった。何かいい歌になりそうでいながらそういかなかったのは、作者の心の深部からものを言わず、結局咽喉元でものを言っているからだと、私にはそんな気がするのである。
このような遠慮会釈の無い指摘、鋭い批評が続くが、歌をあらゆる角度から掘り下げ研究し、学んでいくには適切な試みと考える。なお、加藤は加藤将之、館山は館山一子の各氏である。
「宗旦むくげ」
当月号へ掲載された投稿者は156名を数え、戦時下においてなお、詩歌誌の裾野の広がりを見せている。
戦局の進展に伴い、空を覆う暗雲への予感が濃密になる中で、歌に託した人々の思い。 それは心からの叫びであり、魂の吐露でもあった。投稿歌の中から心に刻み、深く受け止めていきたい歌を中心に抄出したい。
○ 別れきてひびくをとめのこととひにさめやすくわがあかときををり
榛名 貢
○ 水引草しごきし指の紅を別るる今は君に示さじ 南 梓
○ 明るく生きむと君に誓いひて別れたり足裏のほてり漸く激し
北村 伸子
○ 抱きあぐればことこととなる小箱にてみなみに散りし弟やこれ
土井 博子
○ ひそやかにも想ひ心に炎ゆるとき人は我身に生き給ふなり
菅野 貞子
○ なにごとも思ひつくしてあり経つつ尽きぬ涙の流れてやまず
桐井 緑
○ ふるさとへ子等をかへして独り居の夜はある限りの燈火ともしぬ
小笠原 一二三
○ まみえざる人をし思う幼子の 寝顔は生きし面影なるか
鈴木 恒子
南海で戦死し、白木の箱と化して帰ってきた弟。抱き上げてもカラカラと鳴る のみで、重さの実感も無い弟に寄せる姉の思い。抑えてもなお湧き上がる魂の叫びを、そして、時空を越えてなお響いてくる慟哭の思いを、心に刻み引き継いでいきたい。 人知れず無念の涙を流さねばならなかった、あの時代を再び招かないためにも・・・。
サハロフ博士が自らの全存在を賭して示した「人間への希望」の探求は、文学の世界において、否、思いが直裁に表出される短歌の世界においてこそ、より強く受け継ぐべき想いであり、課題でもあると考える。
「薄紅に染まり始めた酔芙蓉」(八重)
表現することに自らの生命をも賭けざるを得なかった時代を経て、人間として表現すべき志さえ曖昧にしつつある現代において、この課題は厳然としていまだ私達の前に存在している。
忘れな草の花に託された祈りにも似た思いを「人間への希望」の序章として、受け止め追求していきたい。その中で短歌に込められ託された、千数百年にわたる人々の深い思いを継承し、人間の生きる志と触れ合える短歌一条の道を探求できたらと考える。
了
初稿 平成18年10月25日
「芙蓉」一重