四季の彩り

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-空白の短歌史- 「綜合詩歌」誌鑑賞(5)

2021年11月06日 12時07分29秒 | 短歌

「戦時下、空白の短歌史を掘り起こす その5」
         「野菊の風」


 信濃路の秋は短い。山の頂を染めた錦繡は瞬く間に麓を染め、里中のなんの変哲もない森や林を一夜のうちに色鮮やかなオブジェへと変えていく。滅びと隣り合わせの華やぎは、凄愴を秘めながらもつかの間の酔いを楽しんでいるかのようにも見える。周辺のそんな華やぎをよそに、遠くない冬の、到来を告げる北風の中で野菊は薄紫の花を揺らせている。
「可憐で優しくて品格がある・・・」と、伊藤左千夫にその著書「野菊の墓」で言わせた野菊は、当時と変わらぬ可憐さで、今も北信濃の道野辺に咲いている。



 昭和十八年、春から秋にかけての戦局は日々悪化の一途をたどった。南太平洋の戦場では米軍に制空権を奪われ、ニューギニア、ソロモン群島でも激しい消耗戦に陥った。これらの戦場への将兵の補充を目的に、時の東條内閣は同年十月二十一日神宮外苑での出陣学徒壮行会を皮切りに学徒出陣を強行した。同年十二月、理工系の学生を除き大半の学徒を入隊させた。以後、学徒の出陣者は相次ぎその数、推定十三万余名におよび、特攻隊等最前線の将兵として多くの若者が戦場の土と化し、海にかばねを散らしていった。



 野菊は神宮への学徒出陣式を涙を隠し、あるいは叫びを呑み込み見送った、少なからぬ人々の心の片隅に静かに咲いていた花でもあった。
 生涯独身で通した叔母が言葉少なに語った思い出の花。 野菊はこの学徒出陣にまつわる小さな恋物語を悲しく彩る象徴の花でもあった。おそらく当時の日本で数限りなく生まれたであろうこれらの恋物語。それは、語り継がれることもなく、 それぞれ当事者の胸奥に秘められ、巡る季節の中で清められ、温め続けられて来たことであろう。
 晩秋の風に揺れながらも凛と咲く野菊は、哀しみや淋しさを胸深く秘めつつも歴史の底流でしなやかに生き抜いた女性達の、心を映すかのように静かな輝きを放っている。



 学徒出陣で理系以外の学生の大半が入隊した昭和十八年十二月に発行された「綜合詩歌」十二月号。この詩歌誌について前号に引き続き、短歌、歌論を中心に紹介、鑑賞を行っていきたい。そして、時代の情況を色濃く反映した評論、論考についても資料的な意味から触れてみたい。

 当月号に作品を寄せられた代表的な歌人は、生田蝶介、中島哀浪、岩間正男、水町京子、野村泰三の各氏を含む十八名の方々である。
 戦局の厳しさは雑誌用紙の減配等、短歌結社の運営にも少なからぬ影響を与え、結社の統廃合を促しつつあった。この重苦しい時代の影は歌人の作品にも色濃く刻まれ、歌の行間にも苦悩が滲んでいるかのように見える。
 これら歌人の作品の中から、時代の証言としてまた、苦悩を滲ませながらもなお、明日を
見つめようとする、前向きな思いを表出した歌を中心に抄出した。




 阿蘇の噴煙           生田 蝶介
  ○ ラス・ビハリ・ボースは痩せてかへりたり容易ならざる印度の国は
  ○ 汝をひきいて高原の草に日昏るればいづかたにこそ帰り行かなむ(長湯娘子に)
  ○ すがのねの長湯高原昏れゆくと見をさめなげく阿蘇のけむりを

 たたかひの刻          岩間 正男
  ○ 虫の音のしじなる夜半を起き出でて防空壕に月のさし入る
  ○ 来るべき秋(とき)をし期せば町住みのただに虔ましく朝夕あり経る
  ○ 苛烈なるときま移りに身は置きて青菜いきほふ庭の日だむろ

 耐乏              中島 哀浪
  ○ 乏しきに耐へむといひてわれいまだ畳の上に蒲団敷きており
  ○ 爆ぜ落つる小豆をなげて山畑の人を慰めてゆきすぎがたし
  ○ いつしかに花の過ぎたる萩叢は下掃けば硬し手にさやりつつ

 老母              水町 京子
  ○ 老母を都におくが心もとな退避訓練につかれたまひぬ
  ○ ふるさとを出でて久しも老母のやすくおはさむ家もあらなくに
  ○ 人国におはせといへばさびしらに黙います母に何か申さむ

 波               野村 泰三
  ○ 登り来てここはどの道山ふかく迷へるならぬすすきの穂波
  ○ 闇深く見えぬ波たかしとどろとどろ時化あとの波見えぬ大波
  ○ いまにしていふ言葉なしはふり落つ浄きなみだやわれ出陣す(出陣学徒壮行会)


 「戦さの前に火も水もなし」との戦時スローガンが掲げられた当月号の綜合詩歌誌。 その中にあって水町京子氏の「老母」一連の歌のような、人を中心に据え、その存在を控えめながら凛として問いかけ、さらに哀しみを深く見詰めた作品。それが厳然とこの戦時下の詩歌誌に掲載されている事実に一種の驚きと共に感銘を受けた。



 前々号で触れた「人間への希望」が、苛烈な戦時下にあってなお少なからぬ文学の護り手によって、確かに追求されていた証左として心に刻んで行きたい。当月号にも前月号に引き続き、古典抄として斉藤彦麿の「詠歌大概評」を初めとした優れた歌論、あるいは詩論が掲載され、さながら「学びの泉」を形成している。今回は詩論の分野から一部抜粋し歌友諸兄と共に学んでいきたい。批判的にも・・・。

詩の予言者的性格         大野 勇二
 詩人とは単に歌う人の謂ではない。歌うよりもより多く感ずる人である。日本民族の大と其の運命を鏡にかけて見る人である。筆の先や口頭で大東亜の理想を言挙げして使命とする頭脳の働きを指すのではなくて、かかる頭脳の奥にあってこれを突き動かしているその手を見る人である。かくの如き人物は言葉の真の意味における民族の五感であり、第六感であるだろう。かくの如き人物を通してのみ天啓は閃くであろう。詩人は誠に見ざるに見、聞かざるに聞き、言わざるに言う・・・。


 「歌うよりもより多く感ずる人・・・、言わざるに言う・・・」。詩人を歌人に置き換えても多くの示唆に富んだ指摘でもある。自らのうちから沸き起こる思いのたけを詠い上げる一面と、その歌が普遍的な意味をもって感動を誘い、人をも揺り動かして行くと言う面を持つ歌。歴史の波に晒されながらも、なお色あせる事無く瑞々しさを保ち、感銘を与え続ける歌のもつ生命は、この示唆の中に隠されているのではないだろうか。私たち自身、自問したい内容でもある。



 当月号には、これら詩論及び、歌論と共に前号に引続き、三島吉太郎氏の「明治天皇と和歌」を始め、金井章次、堀田清治、熊谷武至、神山哲三、泉四郎及び、野村泰三の各氏が論文、随筆、歌論、評論等を寄せておられる。
 また、前々月号から始められた、誌上歌会とも言うべき複数の選者による「作品評」欄は会を追うごとに充実してきている。紙面の制約から、その全編を載せられないのが悔やまれるが、一部を抜粋し共に鑑賞し学んでいきたい。

☆あかあかと夕やけ雲のかがよへば胸ふかくわが燃ゆるものあり  小菅 嘉之


 この歌は「あかあか」と歌いだして、上句を写生にして下句を主観にしたあたり斉藤茂吉氏の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」を思い出させる歌である。十月号の歌評などにおいて一つの類型と言われたものも、或いはこの歌を指したのであろうか。ここで「たまきはるわが命なりけり」と「胸ふかくわが燃ゆるものあり」を誦して、おのずからその主観のひびきに懸隔のあるのは致し方ないとして「たまきはる・・・」と生命にふれた歌であるのに対し「胸ふかく・・・」と感情を詠ったところが面白い対照だと思う。
北村
 意味は平明なれど、一、二句は明星の初期を思わせる陳腐な表現で物足りぬ。
門脇
 誰でも心の中に持っている浪漫的なものを一つの象徴の形を以って表現し、三句まで夕焼け雲の色彩感覚を、なだらかに詠じきり結句の「燃ゆるものあり」と色彩の連想語を以って詠みすえた所が面白い。ともすれば露呈しがちな燃え上がる感情の抑制が窺われる。やはり構想の類型的なと言う難はまぬがれないだろうけど。


 なお、堀は堀盁次郎、北村は北村伸子、門脇は門脇顕正の各氏である。複数の批評者による重層的な歌評は、今日の結社誌にも取り入れたい画期的な試みと考える。歌評を行なうと言う、ある意味では重く厳しい営みも「する側」と「受ける側」との真剣勝負によって実りあるものになるであろうし、歌を貫く詩精神も鍛えられ研ぎ澄まされていくものと考える。このような切り結び、魂の触れ合うような評を望みたいものである。



 戦局は日を追うごとに苛烈さを増し、厳しく切迫した事態が明らかになる中でも、本誌の会員は月毎に増加し、二十余名の新規会員が紹介されている。これら会員の方も含めて、一般会員の方の作品の中から、時代の重苦しい暗雲に打ちひしがれることなく、なお香気を放ち詩魂の存在を語りかけてくる歌を中心に抄出させて頂いた。

 ○かなしみは心に沁みて亡き人の一生を思ふまさにあらぬに     小橋 桜昌
 ○今日も亦いのちありきてふ夫の文さりげなくして近づき難し    土井 博子
 ○わが思慕を何にたとへん日の暮の茜にもゆる空のいろはや     南  紫星
 ○疲れ果て軍衣を脱げばころころと蛭の丸きが落ちて哀れさ     島  寛
 ○憤る心の底ゆひややかに流るるものあり病者の理性        門脇 顕正
 ○白芙蓉みたびを散りていくさびとはろけきままに秋去なむとす   菅野 貞子
 ○応召の子の影膳に菓子を添へ愛しむままの祈りをささぐ      高島 てう子
 ○現し身の伏したるままの姿なる墓地の上にも咲く野菊かな     有田 久雄
 ○還らずと知りつつ点けし離着灯暮れはてし基地に迎火の如し    川辺 信晴
 ○御戦に夫を捧げて吾子二人と生きゆく友にまむかひがたし     加瀬 歌乃
 ○吾子いだき久しぶりなる夫の文読み聞かすればゐねむりにけり   廣田 博子
 ○ゆたかなりし君が言葉を偲びゐる今は文さへ絶えたるものを    秩父 ゆき子


 昭和十八年十一月二十二日、カイロ会談はチャーチル、ルーズベルト、蒋介石の三者によってもたれた。これにより日本の戦後処理に向け連合国側の共同歩調が確認され、日本を巡る戦局は益々敗色が濃厚になり、深刻さが増していった。この過酷な戦場へ前述の学徒を初め多くの若者達が送られていった。母と別れ、子と別れ、妻と別れ、そして心に秘めた人を残し戦場に向かった若者達。その若者達に寄せる母の、妻の、そして恋人達の思いは、これらの歌群の中から相聞にも似た思いを滲ませながらも重く、静かに響いてくる。



 語りや言葉のもつ空しさや限界を心に刻みながらも、なおそれらを越えて伝えていかねばならないものがある。それを、この数ヶ月にわたる「綜合詩歌」誌との関わりの中で、特にその一般会員の歌群より痛感し、学ばされた。
 それは、戦時下という極限状況の中にあって、なお付け焼刃の一片も許さない英知と、人間の誇りとに自らの全存在をかけて、慎ましくもしたたかに生き抜いた少なからぬ人々の存在である。さらに、その人々の胸に静かに燃えていたであろう、愛するものを護ろうとする懸命な思いと、それを破壊しようとする者に対する、心からの憤りであり怒りの存在でもあった。



 怒りと哀しみ、葛藤の日々を重ね、それを乗越え前向きに歩もうとする人々の気迫を秘めた表情。それは、幾たびかの霜と、木枯らしの中でも打ちひしがれることなく凛と咲く、野菊の気高さに満ちた花の表情に重なっていく。
 そう遠くない時代、この野菊を摘みながらも愛する人に、渡すことすら叶わなかったおば達の、哀しい吐息と無念さを思った。夏の喧騒の去った信濃路は、その本来の静寂を取り戻し、晩秋の野辺には野菊の風がふいていた。
                       了
                  初稿掲載 平成19年11月10日

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