「君へのレクイエム」
- 嵯峨吹雪「嵯峨哀花改め」 著 五行歌集「君へのレクイエ」の解説にかえて -
著者の処女歌集「痛みの変奏曲」の解説を、かつて担わせて頂きましたが、ここに再び第二歌集の「君へのレクイエム」の解説を承ることになりました。「レクイエムとは」との注釈は、博学の諸兄には失礼に当たるものと拝察しますが、本書の主題を構成する背骨にも当たる為、 若干の補足を行うことをご容赦頂きたいと思います。
レクイエムはキリスト教の典礼に用いられる「死者のためのミサ曲」から発展したものと言われています。 また、このレクイエムについて、ヴェルディ、モーツアルトと共に「三大レクイエム」の作曲者であるフォーレは、 1902年に次のような言葉を手紙に書いています。「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます」と・・・。
嵯峨吹雪さんの著書「君へのレクイエム」は、まさに永遠の恋人「君」へ捧げた鎮魂曲であります。 また、悲痛な喪失感と深い哀しみとが、歌の行間から響いてきます。 短歌は幾たびかの歴史の過酷な波に洗われながらも、その度に深く磨かれより広く裾野を広げ、民族の詩精神をも育んできました。 短歌を生活の潤いとして、あるいは拠り所として、またその表現をつらぬく志に、命をも賭けて詠ってきた多くの市井の歌人達。 これら歌人の貴重な営みによって築かれてきた短歌の広大な裾野。
その裾野上に「君へのレクイエム」は著者の処女歌集「痛みの変奏曲」と共に、 連峰として聳え立つ可能性をも秘めています。
全九章に及ぶ「君へのレクイエム」は一章から四章までは、文字通り「君」への挽歌という主題で占められ、 それがまた優れた相聞歌ともなっています。 著者は短歌を「詩的な形式に視覚化」するとの意図の下に、一首五句を五行書きしていますが、紙面の関係で、 著者の了解を得て一首一行書きで抄出してみました(以下同文)。
○ 春琴と 佐助もかくや 病む貴女に 寄り添い来たる 三歳の月日
○ 病む貴女よ 病は四苦の 苦と言えど 心安かれ 罪には非ず
○ ああ貴女よ 余命三月の 宣告を 二年五ヶ月 戦いぬけり
○ 深々と 降る白雪や 昏々と 永遠の眠りの 貴女が朝に
○ かの日から 我が胸底に 時として 痛み激しく 疼く死の棘
○ 君も夢 我もまぼろし ああされど この夕光の この哀しさよ
「短歌はつきつめれば相聞と挽歌から成ると言える」と、著者はその「序文」でも述べていますが、私もこの論に賛意をおくりたいと思います。 愛し合う男と女が、死を前に残された短い生を意識しつつ純粋に己の感情をみつめ、その一瞬一瞬の燃焼に生命をも賭けた恋。 そして慟哭を呑み込み闇に涙する愛の伝説。それらが詩歌の流転に重なる人々の長い歴史を経た現代に、再び生まれ得るのでしょうか。 この問いに対する一つの回答とも言いうる挽歌、即相聞の証が
○ 君も夢 我もまぼろし ああされど この夕光の この哀しさよ
と詠う、これら抄出歌と、この章の歌群に溢れています。ときには甘く、ときには哀しく、 しかも感傷に堕さない確かな調べをぬって清澄な響きが伝わってきます。 文語のもつ緊張感とは趣を異にする、口語のしなやかで活きた言葉が、その響きと艶を支えています。
五章から七章は、著者と「君」とに関る人々との交友の日々、その中で紡がれた作品で構成されています。 「君」を取り巻く背景を浮き彫りにしつつ、「君」を亡くした後に襲ってきたであろう深い喪失感と、哀しみとが歌群に滲んでいます。
○ 哀しきは 古今かわらず 山里の 卯の花曇りに 鳴く 妹背鳥
○ 男あり 独り夜半の 台所 注ぐワインの 音にて泣けり
○ 天さえも 泣けるや友の 愛妻の 出棺まぎわに 泪雨ふる
○ 繊細(デリケート)で憂愁(メランコリック)と我が歌をテレビで評す歌人教授
○ 星々の 彼方を永遠に 駆け巡れ 我が哀しみよ エコーとなりて
生きることの危うさと、痛みと、さらに哀しみを十分に識った人間同士が求め合う、本能的とも言える連帯への志向。 人と人との出会いと永訣によって紡がれる生きる標、そして知る生の価値と重さと輝き。 これらは三十一韻律の短歌という器を長いこと満たしてきました。そしてこれからも満たし続けることでしょう。
○ 星々の 彼方を永遠に 駆け巡れ 我が哀しみよ エコーとなりて
と詠う、この歌を含むこれらの章は、その器の質的容量をさらに増し、現代短歌への貴重な道標となっていくものと考えます。
八章は、著者の哲学的原点を象徴的に示す「薔薇」に関る短歌の集大成であり、「薔薇づくし」となっています。 「薔薇は花々の女王としてのみならず、形而上学的意味を付与されている」と、著者は説いていますが「一輪の薔薇もて」歩みながら、じっくり味わいたい歌群でもあります。
○ 薔薇なれば 花開かんと 言う君の 長き黒髪 永遠なる瞳
○ これが薔薇だ ここで踊れと 言うほどの 歌を詠いて 死にたきものよ
○ 現象は 変現すれど 本質は 永遠不滅 万能の薔薇
○ メドウサの 囲いの中を 一輪の 薔薇もて歩む 夢の傑作
○ 過ぎ去りし 薔薇なる君は 名前のみ 今も哀しく 我に残れり
九章は著者が人生最後の師と仰ぐ埴輪雄高(本名、般若豊)の代表作「死霊」の真髄に、 短歌でアプローチするという画期的な試みを展開しています。埴輪雄高は「知の巨人」と言われる立花隆に、「埴谷は神様のような存在だったと」述懐させるほどの「存在」でもあります。
一首の完結・独立性を旨として、 三十一音律の限られた空間で詠う短歌。その表現手段をもって「人間の救いしか説かなかった」と、 キリストも釈迦をも糾弾する「死霊」の本質に迫るという試み。
これは勇敢な挑戦とも言えますが、歌の背景と深さを把握し得ない読者の戸惑いを誘うと共に 「ラ・マンチャの男」的な危うさをも秘めていると言えます。 しかし、この著者の挑戦は埴輪雄高の胸奥に巣くう悲哀までも表出しつつ、制約された短歌表現ながら、 歌の行間に漂う暗喩も動員しつつ、埴輪文学攻略のホームランとは言えないまでも、確かなヒットエンドランを放っています。
○ 不合理ゆえ 吾信ずとの アフォリズム 死霊に影を 落とす一冊
○ 不快なる 時空や不快な 肉体を 超出せんと 死霊は呻く
○ 哲学で 不可能ならば 文学で カントを超えて ドフトエフスキーへ
○ 死者たちの 叫びがわーんと 木霊する 般若の胸よ 汝れが悲哀よ
○ 死霊とは 全実体の 超越虚体 イマジナリーナンバーの イマジネイション
○ 精神の リレーになれる 「紅楼夢」 死霊のバトン 誰が継ぐ者ぞ
○ 薄暗い 己が頭蓋の 茨道 歩み出だせよ 死霊の読者
なお、「死霊」の膨大な著作を視野に入れると、今回の試みは「死霊」文学に、短歌でアプローチする、 その端緒を開いたとも言えます。今後は著者の意欲的な挑戦により短歌の表現限界の超越と、さらなる進化を期待したいと思います。 また、「歩み出だせよ」との呼びかけにも、一人の歌人として真摯に真向かって行きたいと思っています。
最愛の「君」の死。その理不尽さを慟哭しながらも呑み込み、呻吟しつつ受け止めた著者。 その著者が言霊と全霊とをかけて奏でた「永遠の至福の喜びに満ちた開放感」への祈りに溢れた「レクイエム」。 それは「生きて在る」ことに向けた限りない憧憬を詠い、生命の豊饒への限りない賛歌を重く、静かに奏でてもします。
また、この「レクイエム」にはチェロの音が際立つヴェルディ「レクイエム」の華麗な調べばかりでなく、 ためらいながらも疾走するバイオリンの音にも似た哀しげな調べとが協和しつつ響きあっています。 あたかもパッヘルベルのカノンの曲のように、生命の復活と再生を促す、通奏低音を基調としたおおらかな調べが繰り返し重層的に響いてきます。 死がもたらす深い哀しみと共に、それが開放するであろうフォーレの唱える「永遠の至福」をも示唆しながら…。
初稿掲載 2007年11月15日
本文は著者と出版社との約束で、解説のネットへの掲載を保留していたものですが過日、 著者からネットへの掲載の承諾を得ましたので、歳月の経過がありますがここに掲載するものです。 なお、著書中の「解説文」の一部を手直しして掲載させて頂きました。
嵯峨吹雪 著 五行歌集「君へのレクイエ」より転載(文責:ポエット・M)
- 嵯峨吹雪「嵯峨哀花改め」 著 五行歌集「君へのレクイエ」の解説にかえて -
著者の処女歌集「痛みの変奏曲」の解説を、かつて担わせて頂きましたが、ここに再び第二歌集の「君へのレクイエム」の解説を承ることになりました。「レクイエムとは」との注釈は、博学の諸兄には失礼に当たるものと拝察しますが、本書の主題を構成する背骨にも当たる為、 若干の補足を行うことをご容赦頂きたいと思います。
レクイエムはキリスト教の典礼に用いられる「死者のためのミサ曲」から発展したものと言われています。 また、このレクイエムについて、ヴェルディ、モーツアルトと共に「三大レクイエム」の作曲者であるフォーレは、 1902年に次のような言葉を手紙に書いています。「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます」と・・・。
嵯峨吹雪さんの著書「君へのレクイエム」は、まさに永遠の恋人「君」へ捧げた鎮魂曲であります。 また、悲痛な喪失感と深い哀しみとが、歌の行間から響いてきます。 短歌は幾たびかの歴史の過酷な波に洗われながらも、その度に深く磨かれより広く裾野を広げ、民族の詩精神をも育んできました。 短歌を生活の潤いとして、あるいは拠り所として、またその表現をつらぬく志に、命をも賭けて詠ってきた多くの市井の歌人達。 これら歌人の貴重な営みによって築かれてきた短歌の広大な裾野。
その裾野上に「君へのレクイエム」は著者の処女歌集「痛みの変奏曲」と共に、 連峰として聳え立つ可能性をも秘めています。
全九章に及ぶ「君へのレクイエム」は一章から四章までは、文字通り「君」への挽歌という主題で占められ、 それがまた優れた相聞歌ともなっています。 著者は短歌を「詩的な形式に視覚化」するとの意図の下に、一首五句を五行書きしていますが、紙面の関係で、 著者の了解を得て一首一行書きで抄出してみました(以下同文)。
○ 春琴と 佐助もかくや 病む貴女に 寄り添い来たる 三歳の月日
○ 病む貴女よ 病は四苦の 苦と言えど 心安かれ 罪には非ず
○ ああ貴女よ 余命三月の 宣告を 二年五ヶ月 戦いぬけり
○ 深々と 降る白雪や 昏々と 永遠の眠りの 貴女が朝に
○ かの日から 我が胸底に 時として 痛み激しく 疼く死の棘
○ 君も夢 我もまぼろし ああされど この夕光の この哀しさよ
「短歌はつきつめれば相聞と挽歌から成ると言える」と、著者はその「序文」でも述べていますが、私もこの論に賛意をおくりたいと思います。 愛し合う男と女が、死を前に残された短い生を意識しつつ純粋に己の感情をみつめ、その一瞬一瞬の燃焼に生命をも賭けた恋。 そして慟哭を呑み込み闇に涙する愛の伝説。それらが詩歌の流転に重なる人々の長い歴史を経た現代に、再び生まれ得るのでしょうか。 この問いに対する一つの回答とも言いうる挽歌、即相聞の証が
○ 君も夢 我もまぼろし ああされど この夕光の この哀しさよ
と詠う、これら抄出歌と、この章の歌群に溢れています。ときには甘く、ときには哀しく、 しかも感傷に堕さない確かな調べをぬって清澄な響きが伝わってきます。 文語のもつ緊張感とは趣を異にする、口語のしなやかで活きた言葉が、その響きと艶を支えています。
五章から七章は、著者と「君」とに関る人々との交友の日々、その中で紡がれた作品で構成されています。 「君」を取り巻く背景を浮き彫りにしつつ、「君」を亡くした後に襲ってきたであろう深い喪失感と、哀しみとが歌群に滲んでいます。
○ 哀しきは 古今かわらず 山里の 卯の花曇りに 鳴く 妹背鳥
○ 男あり 独り夜半の 台所 注ぐワインの 音にて泣けり
○ 天さえも 泣けるや友の 愛妻の 出棺まぎわに 泪雨ふる
○ 繊細(デリケート)で憂愁(メランコリック)と我が歌をテレビで評す歌人教授
○ 星々の 彼方を永遠に 駆け巡れ 我が哀しみよ エコーとなりて
生きることの危うさと、痛みと、さらに哀しみを十分に識った人間同士が求め合う、本能的とも言える連帯への志向。 人と人との出会いと永訣によって紡がれる生きる標、そして知る生の価値と重さと輝き。 これらは三十一韻律の短歌という器を長いこと満たしてきました。そしてこれからも満たし続けることでしょう。
○ 星々の 彼方を永遠に 駆け巡れ 我が哀しみよ エコーとなりて
と詠う、この歌を含むこれらの章は、その器の質的容量をさらに増し、現代短歌への貴重な道標となっていくものと考えます。
八章は、著者の哲学的原点を象徴的に示す「薔薇」に関る短歌の集大成であり、「薔薇づくし」となっています。 「薔薇は花々の女王としてのみならず、形而上学的意味を付与されている」と、著者は説いていますが「一輪の薔薇もて」歩みながら、じっくり味わいたい歌群でもあります。
○ 薔薇なれば 花開かんと 言う君の 長き黒髪 永遠なる瞳
○ これが薔薇だ ここで踊れと 言うほどの 歌を詠いて 死にたきものよ
○ 現象は 変現すれど 本質は 永遠不滅 万能の薔薇
○ メドウサの 囲いの中を 一輪の 薔薇もて歩む 夢の傑作
○ 過ぎ去りし 薔薇なる君は 名前のみ 今も哀しく 我に残れり
九章は著者が人生最後の師と仰ぐ埴輪雄高(本名、般若豊)の代表作「死霊」の真髄に、 短歌でアプローチするという画期的な試みを展開しています。埴輪雄高は「知の巨人」と言われる立花隆に、「埴谷は神様のような存在だったと」述懐させるほどの「存在」でもあります。
一首の完結・独立性を旨として、 三十一音律の限られた空間で詠う短歌。その表現手段をもって「人間の救いしか説かなかった」と、 キリストも釈迦をも糾弾する「死霊」の本質に迫るという試み。
これは勇敢な挑戦とも言えますが、歌の背景と深さを把握し得ない読者の戸惑いを誘うと共に 「ラ・マンチャの男」的な危うさをも秘めていると言えます。 しかし、この著者の挑戦は埴輪雄高の胸奥に巣くう悲哀までも表出しつつ、制約された短歌表現ながら、 歌の行間に漂う暗喩も動員しつつ、埴輪文学攻略のホームランとは言えないまでも、確かなヒットエンドランを放っています。
○ 不合理ゆえ 吾信ずとの アフォリズム 死霊に影を 落とす一冊
○ 不快なる 時空や不快な 肉体を 超出せんと 死霊は呻く
○ 哲学で 不可能ならば 文学で カントを超えて ドフトエフスキーへ
○ 死者たちの 叫びがわーんと 木霊する 般若の胸よ 汝れが悲哀よ
○ 死霊とは 全実体の 超越虚体 イマジナリーナンバーの イマジネイション
○ 精神の リレーになれる 「紅楼夢」 死霊のバトン 誰が継ぐ者ぞ
○ 薄暗い 己が頭蓋の 茨道 歩み出だせよ 死霊の読者
なお、「死霊」の膨大な著作を視野に入れると、今回の試みは「死霊」文学に、短歌でアプローチする、 その端緒を開いたとも言えます。今後は著者の意欲的な挑戦により短歌の表現限界の超越と、さらなる進化を期待したいと思います。 また、「歩み出だせよ」との呼びかけにも、一人の歌人として真摯に真向かって行きたいと思っています。
最愛の「君」の死。その理不尽さを慟哭しながらも呑み込み、呻吟しつつ受け止めた著者。 その著者が言霊と全霊とをかけて奏でた「永遠の至福の喜びに満ちた開放感」への祈りに溢れた「レクイエム」。 それは「生きて在る」ことに向けた限りない憧憬を詠い、生命の豊饒への限りない賛歌を重く、静かに奏でてもします。
また、この「レクイエム」にはチェロの音が際立つヴェルディ「レクイエム」の華麗な調べばかりでなく、 ためらいながらも疾走するバイオリンの音にも似た哀しげな調べとが協和しつつ響きあっています。 あたかもパッヘルベルのカノンの曲のように、生命の復活と再生を促す、通奏低音を基調としたおおらかな調べが繰り返し重層的に響いてきます。 死がもたらす深い哀しみと共に、それが開放するであろうフォーレの唱える「永遠の至福」をも示唆しながら…。
初稿掲載 2007年11月15日
本文は著者と出版社との約束で、解説のネットへの掲載を保留していたものですが過日、 著者からネットへの掲載の承諾を得ましたので、歳月の経過がありますがここに掲載するものです。 なお、著書中の「解説文」の一部を手直しして掲載させて頂きました。
嵯峨吹雪 著 五行歌集「君へのレクイエ」より転載(文責:ポエット・M)