(その1はこちら)
■平林寺
臨済宗妙心寺派の寺院で松平伊豆守信綱をはじめとする大河内松平家歴代の菩提寺。南北朝時代の永和元年(1375)、鎌倉建長寺の住持の石室善玖禅師を開山として岩槻(現在のさいたま市岩槻区)に建立。天正18年(1590)豊臣秀吉の北条攻めにより岩槻城とともに焼失したが、天正20年(1592)に徳川家康が鉄山宗鈍禅師を迎えて再興した。江戸時代・寛文3年(1663)に川越城主の松平信綱の遺志を継いだ、子の輝綱によって野火止の地に移された。
総門。茅葺の切妻造の四脚門。京都詩仙堂の石川丈山揮毫の「金鳳山」の扁額を掲げる。
山門。寛文3年(1663)建立の茅葺の重層入母屋造。楼上には室町時代の釈迦如来像と江戸時代の文殊・普賢菩薩像、南北朝時代の十八羅漢を安置。「凌霄閣」の扁額は石川丈山の筆。
仏殿。寛文3年(1663)建立の単層入母屋造。南北朝時代の釈迦如来像と室町時代の迦葉・阿難尊者像を祀る。
中門。茅葺の切妻造の四脚門。
本堂。明治13年(1880)再建。釈迦如来像、達磨大師と歴代住職の霊牌を祀る。
平林寺堀。野火止用水の支流の一つ。
島原の乱供養塔。文久2年(1861)建立。松平信綱は寛永14年(1637)に肥後国天草で起こった島原の乱を鎮定した。
松永安左エ門の墓。明治8年(1875)~昭和46年(1971)。松永は「日本電力の王」と称された実業家で、戦前に複数の電力会社を経営、戦後には周囲の抵抗に遭いながらも国家管理の下に置かれていた電気事業を民営化し、現在の民営9電力体制を築いた。茶道にも造詣の深く近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称された。傾倒する石室善玖の開山である平林寺に葬られたが、本人の遺志により法号はなく葬儀・法要は一切行われず。
見性院の墓。武田信玄の次女で、武田家重臣の穴山梅雪の正室。梅雪の死後、徳川家康の庇護を受け、会津藩松平家の祖となる保科正之を7歳になるまで養育した。元和8年(1622)没。
増田長盛の墓。豊臣五奉行の一人で大和郡山城主。朝鮮出兵時の兵站や検地で手腕を発揮。元和元年(1615)没。
安松金右衛門の墓。松平信綱の家臣。測量技術等に玉川上水の開削に携わった後、信綱の命により野火止用水の開削工事を担当した。墓は新宿区の大宗寺にあったが、昭和10年(1935)に当寺の松平家累代の墓地の脇に移された。
松平信綱の墓。松平信綱(慶長元年(1596)~寛文2年(1662))は、三代将軍家光、四代家綱の信頼の老中として活躍し、「知恵伊豆」と称された。寛永14年(1637)の島原の乱を鎮定した功績で川越藩主となると、城下町の整備や新河岸川を利用した舟運を起こし江戸との物流の確立、川越街道の整備などを行い「小江戸」と称される商人の町としての基礎を築いた。また玉川上水や野火止用水の開削を行うなど数多くの功績を残した。
平林寺境内林。国指定天然記念物。境内林は約43ヘクタールに及び、東京近郊の武蔵野の雑木林が減少の一途をたどっている現在、面積も広く自然の残されたものとしては大変貴重。アカマツ林やコナラ・クヌギ林などからなり、林床はクマザサにおおわれる。アカハラ・ルリビタキ・アオゲラ・カケスなど、鳥類約60種が越冬・繁殖・渡りの中継地等としてここに生息し、オオムラサキのような貴重な蝶もここに生息する。
野火止塚(九十九塚)。古より詩歌の題材となった高さ約6メートルの円形の塚で、焼畑農耕または火を使った狩猟での野火の見張台として使われたとの説がある。
業平塚。在原業平が東下りの際に駒を止めて休んだと伝えられる塚。
修行僧の日常生活の時間割。朝3時に起床、夜10時に寝るまでひたすら修行に励む。
■平林寺
臨済宗妙心寺派の寺院で松平伊豆守信綱をはじめとする大河内松平家歴代の菩提寺。南北朝時代の永和元年(1375)、鎌倉建長寺の住持の石室善玖禅師を開山として岩槻(現在のさいたま市岩槻区)に建立。天正18年(1590)豊臣秀吉の北条攻めにより岩槻城とともに焼失したが、天正20年(1592)に徳川家康が鉄山宗鈍禅師を迎えて再興した。江戸時代・寛文3年(1663)に川越城主の松平信綱の遺志を継いだ、子の輝綱によって野火止の地に移された。
総門。茅葺の切妻造の四脚門。京都詩仙堂の石川丈山揮毫の「金鳳山」の扁額を掲げる。
山門。寛文3年(1663)建立の茅葺の重層入母屋造。楼上には室町時代の釈迦如来像と江戸時代の文殊・普賢菩薩像、南北朝時代の十八羅漢を安置。「凌霄閣」の扁額は石川丈山の筆。
仏殿。寛文3年(1663)建立の単層入母屋造。南北朝時代の釈迦如来像と室町時代の迦葉・阿難尊者像を祀る。
中門。茅葺の切妻造の四脚門。
本堂。明治13年(1880)再建。釈迦如来像、達磨大師と歴代住職の霊牌を祀る。
平林寺堀。野火止用水の支流の一つ。
島原の乱供養塔。文久2年(1861)建立。松平信綱は寛永14年(1637)に肥後国天草で起こった島原の乱を鎮定した。
松永安左エ門の墓。明治8年(1875)~昭和46年(1971)。松永は「日本電力の王」と称された実業家で、戦前に複数の電力会社を経営、戦後には周囲の抵抗に遭いながらも国家管理の下に置かれていた電気事業を民営化し、現在の民営9電力体制を築いた。茶道にも造詣の深く近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称された。傾倒する石室善玖の開山である平林寺に葬られたが、本人の遺志により法号はなく葬儀・法要は一切行われず。
見性院の墓。武田信玄の次女で、武田家重臣の穴山梅雪の正室。梅雪の死後、徳川家康の庇護を受け、会津藩松平家の祖となる保科正之を7歳になるまで養育した。元和8年(1622)没。
増田長盛の墓。豊臣五奉行の一人で大和郡山城主。朝鮮出兵時の兵站や検地で手腕を発揮。元和元年(1615)没。
安松金右衛門の墓。松平信綱の家臣。測量技術等に玉川上水の開削に携わった後、信綱の命により野火止用水の開削工事を担当した。墓は新宿区の大宗寺にあったが、昭和10年(1935)に当寺の松平家累代の墓地の脇に移された。
松平信綱の墓。松平信綱(慶長元年(1596)~寛文2年(1662))は、三代将軍家光、四代家綱の信頼の老中として活躍し、「知恵伊豆」と称された。寛永14年(1637)の島原の乱を鎮定した功績で川越藩主となると、城下町の整備や新河岸川を利用した舟運を起こし江戸との物流の確立、川越街道の整備などを行い「小江戸」と称される商人の町としての基礎を築いた。また玉川上水や野火止用水の開削を行うなど数多くの功績を残した。
平林寺境内林。国指定天然記念物。境内林は約43ヘクタールに及び、東京近郊の武蔵野の雑木林が減少の一途をたどっている現在、面積も広く自然の残されたものとしては大変貴重。アカマツ林やコナラ・クヌギ林などからなり、林床はクマザサにおおわれる。アカハラ・ルリビタキ・アオゲラ・カケスなど、鳥類約60種が越冬・繁殖・渡りの中継地等としてここに生息し、オオムラサキのような貴重な蝶もここに生息する。
野火止塚(九十九塚)。古より詩歌の題材となった高さ約6メートルの円形の塚で、焼畑農耕または火を使った狩猟での野火の見張台として使われたとの説がある。
業平塚。在原業平が東下りの際に駒を止めて休んだと伝えられる塚。
修行僧の日常生活の時間割。朝3時に起床、夜10時に寝るまでひたすら修行に励む。