教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学習塾について

2006年02月17日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日車で登校中、FMを聞いていたのですが、その中のある子どもの投稿で、母親に「どうして僕は塾へ行かないの?」と聞いたというものがありました。「塾」の意味するところは明確ではないですが、おそらく学習塾のことでしょう。ちょっと思うところがあったので少し。この発言の意味は、「みんな塾へ行っているけど、僕は行かなくていいの?」ということだと思います。つまり、この子の周りの子どもの世界では、「塾へ行くこと」が当然視されており、一方でこの子は塾へ行っておらず「塾へ行っていないこと」に不安を感じているわけです。そこでは塾へ行って何をするかということは問題になっておらず、「塾へ行くこと」だけに関心があるといえるでしょう。では、なぜ「塾へ行くこと」がこんなに当然視されるようになったのでしょうか。その要因にはいろいろあるでしょうが、やはり「塾へ行くこと」を大勢の人(子どもか親かはわかりませんが)が求めているんだと思います。学習塾で教育するものというのは、たいてい点数によってはかる学科試験において必要な知識や能力なんだと思います。一方の公教育では、点数ではかれないモラルだとかコミュニケーション能力だとかいったものを身に付けさせるんだ、とがんばっている。ある意味、目的上では棲み分けができているとも言えるかもしれませんが、大衆が求めている知識や能力は結局両方なんではないかと。しかも、学習塾で教育される知識や能力のほうが重要視されている。その背景には、やはり進学のための入学試験に求められている知識や能力が、公教育で提供されているものではなく、学習塾で提供されているものである、ということがあるのでは。こないだ、深夜のNHKの番組で、教育指導要領の改訂の議論の中で様々なアイデアが出されるが、結局、試験で求められるものが変わらないと意味がないというような趣旨のことが話されていました。一般に求められている知識・能力観をしっかり捉え、対策をしっかり練ることが、指導要領の改訂においてしなければならないことなのではないかと。公教育の役割は、塾の存在との関係で考えなおす必要性があるのかもしれません。果たして公教育が全てを担う必要があるのか、それとも全てを担うことなんて現実的ではないから棲み分けてしまうのがいいのか。
 などと、とりとめのない話をしてみたり。論理も何もない読みづらい文章ですみません。
 今日は夕方から教育学教室の行事としての卒業生・修了生を送る会でした。始まるまでは、来月〆切の論文の目的・課題意識・研究方法を考えておりました。ワープロで打ちながら、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら。で、なんとか形は見えてきました。送る会の後は、参加していたドクター生4人(D2:3人、D1:1人)で居酒屋へ。ざっとだべった後、私はD1生の後輩と学校へ。後輩が研究のことで悩んでいるようなので、話し相手になってやりました。まあ、ブレーンストーミングのようなもので、思ったことをしゃべっていただけですけどね(笑)。
 気がついたら午前1時。日付変わってんじゃん!
 明日(今日?)は午前5時起きの予定。午前中までに、松山の実家に戻らないといけないのです。起きられるかな… 大変じゃ!
コメント
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