教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

卒業論文発表会に参加して

2007年02月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は目覚ましをかけ忘れて、寝坊しました(笑)。
 今日は、学部4年生の卒業論文発表会への参加です。寝坊したので、教育史の人たちの発表を聞けませんでした(ダメじゃん)。発表会の最後をかざる教育方法学研究室の5人の発表を聞き、質問しました。質問した理由は、質疑応答の時にシーンとならないようにという理由と、誰も聞かないのなら自分が気になっているところを聞こうという理由です。
 教育方法は、必ず何らかの理念に基づいて構成されており、その理念はまた別の意図の下に構成されています。その場合の意図を理解するには、キラキラ飾られた理念(タテマエ)を見るだけではなく、その理念を立てる必要性や目的を意味する意図が出現してきた過程を見る必要があります。美しい理念の裏にある、ドロドロした政治的・思想的思惑やら対立などを見逃しては理解できないわけです。また、外国の理論・方法を持ってくる場合、外国は外国自身の目的・意図の下にその理論・方法を編み出したことを忘れてはいけません。外国の理論・方法を研究し、日本の問題を考え直すことは意味のあることです。しかし、同じような教育問題が日本にあるからといって、そのまま持ってきては、理論・方法の本質や内容をねじ曲げることになりかねません。自分のさじ加減一つで事実をねじ曲げてしまうことに無自覚であるのは、研究者としての責任を放棄していることです。あなたしかその研究はしていないのだから、あなたが間違えれば、すべてが間違いをそのままで世間に流布してしまうかもしれないのです。それから、自分の研究に書かれた歴史像が、これでいいか考え直すことも、研究を深めるコツです。歴史は現在を見る鏡ですから、歴史像が曇っていれば現在の問題は的確に捉えられません。
 発表会に参加して思ったことを、えらそうに言ってみました。修論程度の発表に対して何か言うことはまだ難しいのですが、卒論程度の発表なら何が足りないか、何となくわかるようになってきました。発表会後、写真撮影を頼まれていたので、その役目を何となく果たした後、研究室に帰りました。なんとなく「群像」の記事を書きながら、速読の練習。かなり速くなりましたよ。効果はあり。
 今日は、斎藤孝『教育力』(岩波新書、岩波書店、2007年)を読み切り。斎藤氏自身の教育実践や思想を通して、教育にはどのような力が必要なのかを説いた本です。教育者がどのような能力・視点・姿勢を身に付けるべきか、具体的にわかります。教師の仕事がハッキリ見えないとか、何をすべきか迷っている方にはお勧めかもしれません。さすが斎藤氏というべきか、スラスラ読めます。前向きで希望に満ちてキラキラ(?)した内容に、「うぅ…ぅ!だ、だまされないぞっ!」と素直に受け入れられないのは、私が疑いすぎなのでしょうか?(笑)
コメント
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