中内・川合編『中・高教師のあゆみ』(明治図書、1970年)のまとめの続きです。
稲葉宏雄「大正デモクラシーと中等教員の増大」(Ⅲ章)は、大正期における中等教員の特徴を明らかにした論文です。稲葉論文は、大正デモクラシーにおける教育を民主主義的傾向(教育方法・内容における資本主義発展に応ずる科学的精神と独創的精神の育成)とその限界(教育理念における天皇制イデオロギーに基づく皇国臣民の育成)という視点から、中等教員における自由主義・社会主義・教養主義の可能性をさぐっていきます。大正期の中等教員は、整備される教員養成制度によって皇国主義イデオロギーに基づく聖職者意識や、「思想的盲目性と体制への従属意識」を形成していったとされます。また、大正期を「民本主義からコミュニズムへという時代の流れ」として捉える視点によれば、政策・学校からの圧力に抗しようとしていた「教育的世界でのインテリゲンチャのさまざまな生き方」を見出せることも示されています。
Ⅳ章「昭和期の中等教育教師の歩み」は、3人の執筆者が書いています。まず、木下春雄「中等教師像の転換―戦前から戦後へ」(Ⅳ章一)は、昭和期の中等教員の特徴を昭和初期・昭和10年代・戦後の3つの時期ごとに説明したものです。昭和初期の中等教員(中学校)は、俸給格差に基づく差別意識や、自主的・創意的研究の低調さ、授業や学校生活の形式化・固定化をまねく権威主義・事大主義という特徴を持っていました。昭和10年代の中等教員は、中等教員・学校におけるつめこみ・暗記・画一・形式主義に対する批判に基づいて、教科内容の改革や授業案創作などの個人研究を進め、中等教育を革新に導くきざしを見せたとしています。なお、この時期の中等教員にみられる国家のための創造性・自発性への収斂は、我が国の中等教育の「空白」「断絶」「大きいマイナスの作用があった」と評価されています。戦後の高校教員は、教育労働運動(教育研究活動)のなかで、労働者としての統一行動と団結に対する自覚の深まり、教育観・生徒観の変革、教育実践への創意的取り組みに見出す枠組みを提示したとしました。本論文は、昭和期の中等教員の組織的な自主的・創意的研究活動に着目し、昭和10年代に限界つきでその活動が個人的・非組織的に見られるようになり、戦後に教育労働者としての自覚とともに活発に行われるようになった、と見ていると思われます。
Ⅳ章-二「新しい中等学校教師像の探求」は、2人の現役高校教員(戦後採用者)の来歴をつづったもので構成されています。畑巌「子どもの現実と典型実践に学びながら」(Ⅳ章二-1)は、自分の教師生活を、主として生徒とのかかわりと生活指導観の変遷にしぼってつづったものです。畑氏は、就職時の自分を「デモ教師」(「教師でもなるか」で教師となった者)であったと位置づけ、現実の子どもとのふれあいのなかで学生運動や労働運動を通して身につけた民主主義思想の無力さを感じ、教員組合運動への挫折感や生徒会との衝突、同和問題のなかで自らの教育観を再検討し、新しい教育実践の検討していく姿がつづっています。田代三良「私の教師体験と教育実践の課題」(Ⅳ章二-2)は、教科指導や生活指導を通した、田代氏自身の生徒観の変遷をつづっています。
Ⅳ章の一・二の文によると、意識変容の転換点として畑・田代両氏に共通したのは、次の3つがみられます。第1に、旭丘中学事件(昭和28(1953)年)と勤評闘争(1956~を経て生じた反体制運動への挫折感でした。第2に、教員と生徒・父母との対立でした(例えば、生徒会が教師にあびせた批判「さっぱりわからん授業。アホは放っておく授業。悪い奴は出ていけというやり方をやっていて、何が民主教育か」(207頁)など) 第3に、子どもの現実(同和問題や政治的問題に対する生徒の実感など)でした。これらを通して、畑・田代両氏は、自らの理想とする教師像や生徒観を変革しています。畑・田代両氏の事例によると、戦後の高校教員には、教育労働運動の挫折感と子ども・保護者に関する現実認識の深まりとを経て、教育労働者としての教師像を自ら変革した者がいた、といえそうです。そのように見ると、大正期の中等教員において芽生えたコミュニズムと、戦後の高校教員における教育労働者意識とは、挫折して意味あるものとなったようにも思われます。
叢書「日本の教師」には、教育労働者としての教員像を教員史の到達点のように扱う論文が見られますが、同時にそれを批判するような現職教員の実感が含まれていたことは興味深いところです。この事実は、叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後には、「教育労働者」がいまだ理想の教師像として語られるなかで、現実にはすでにその反省と変革が始まっていたようにも読めます。叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後という時期は、教育労働運動の中核論理が「教育労働者」から「教職の専門性」へと移行しつつあった時期だと以前述べました。このような時代背景を加味すると、叢書「日本の教師」は、日本教員史における「教育労働者」としての教員像の意義を明らかにして、新たな教員像を模索する基礎研究となる可能性を持っていたとはいえないでしょうか。ただ、『小学校教師の歩み』(第1巻)と『中・高教師のあゆみ』(第2巻)を通して読んだ限りでは、「教育労働者」としての教員像を批判的に検討する傾向は低調であったように感じます。日本教職員組合が90%近くの組織率をもっていた昭和30年代(1965~1974)に編纂されたことを考えると、それまで掲げていた「教育労働者」という運動論理を自由に批判することは難しかったのかもしれません。
稲葉宏雄「大正デモクラシーと中等教員の増大」(Ⅲ章)は、大正期における中等教員の特徴を明らかにした論文です。稲葉論文は、大正デモクラシーにおける教育を民主主義的傾向(教育方法・内容における資本主義発展に応ずる科学的精神と独創的精神の育成)とその限界(教育理念における天皇制イデオロギーに基づく皇国臣民の育成)という視点から、中等教員における自由主義・社会主義・教養主義の可能性をさぐっていきます。大正期の中等教員は、整備される教員養成制度によって皇国主義イデオロギーに基づく聖職者意識や、「思想的盲目性と体制への従属意識」を形成していったとされます。また、大正期を「民本主義からコミュニズムへという時代の流れ」として捉える視点によれば、政策・学校からの圧力に抗しようとしていた「教育的世界でのインテリゲンチャのさまざまな生き方」を見出せることも示されています。
Ⅳ章「昭和期の中等教育教師の歩み」は、3人の執筆者が書いています。まず、木下春雄「中等教師像の転換―戦前から戦後へ」(Ⅳ章一)は、昭和期の中等教員の特徴を昭和初期・昭和10年代・戦後の3つの時期ごとに説明したものです。昭和初期の中等教員(中学校)は、俸給格差に基づく差別意識や、自主的・創意的研究の低調さ、授業や学校生活の形式化・固定化をまねく権威主義・事大主義という特徴を持っていました。昭和10年代の中等教員は、中等教員・学校におけるつめこみ・暗記・画一・形式主義に対する批判に基づいて、教科内容の改革や授業案創作などの個人研究を進め、中等教育を革新に導くきざしを見せたとしています。なお、この時期の中等教員にみられる国家のための創造性・自発性への収斂は、我が国の中等教育の「空白」「断絶」「大きいマイナスの作用があった」と評価されています。戦後の高校教員は、教育労働運動(教育研究活動)のなかで、労働者としての統一行動と団結に対する自覚の深まり、教育観・生徒観の変革、教育実践への創意的取り組みに見出す枠組みを提示したとしました。本論文は、昭和期の中等教員の組織的な自主的・創意的研究活動に着目し、昭和10年代に限界つきでその活動が個人的・非組織的に見られるようになり、戦後に教育労働者としての自覚とともに活発に行われるようになった、と見ていると思われます。
Ⅳ章-二「新しい中等学校教師像の探求」は、2人の現役高校教員(戦後採用者)の来歴をつづったもので構成されています。畑巌「子どもの現実と典型実践に学びながら」(Ⅳ章二-1)は、自分の教師生活を、主として生徒とのかかわりと生活指導観の変遷にしぼってつづったものです。畑氏は、就職時の自分を「デモ教師」(「教師でもなるか」で教師となった者)であったと位置づけ、現実の子どもとのふれあいのなかで学生運動や労働運動を通して身につけた民主主義思想の無力さを感じ、教員組合運動への挫折感や生徒会との衝突、同和問題のなかで自らの教育観を再検討し、新しい教育実践の検討していく姿がつづっています。田代三良「私の教師体験と教育実践の課題」(Ⅳ章二-2)は、教科指導や生活指導を通した、田代氏自身の生徒観の変遷をつづっています。
Ⅳ章の一・二の文によると、意識変容の転換点として畑・田代両氏に共通したのは、次の3つがみられます。第1に、旭丘中学事件(昭和28(1953)年)と勤評闘争(1956~を経て生じた反体制運動への挫折感でした。第2に、教員と生徒・父母との対立でした(例えば、生徒会が教師にあびせた批判「さっぱりわからん授業。アホは放っておく授業。悪い奴は出ていけというやり方をやっていて、何が民主教育か」(207頁)など) 第3に、子どもの現実(同和問題や政治的問題に対する生徒の実感など)でした。これらを通して、畑・田代両氏は、自らの理想とする教師像や生徒観を変革しています。畑・田代両氏の事例によると、戦後の高校教員には、教育労働運動の挫折感と子ども・保護者に関する現実認識の深まりとを経て、教育労働者としての教師像を自ら変革した者がいた、といえそうです。そのように見ると、大正期の中等教員において芽生えたコミュニズムと、戦後の高校教員における教育労働者意識とは、挫折して意味あるものとなったようにも思われます。
叢書「日本の教師」には、教育労働者としての教員像を教員史の到達点のように扱う論文が見られますが、同時にそれを批判するような現職教員の実感が含まれていたことは興味深いところです。この事実は、叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後には、「教育労働者」がいまだ理想の教師像として語られるなかで、現実にはすでにその反省と変革が始まっていたようにも読めます。叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後という時期は、教育労働運動の中核論理が「教育労働者」から「教職の専門性」へと移行しつつあった時期だと以前述べました。このような時代背景を加味すると、叢書「日本の教師」は、日本教員史における「教育労働者」としての教員像の意義を明らかにして、新たな教員像を模索する基礎研究となる可能性を持っていたとはいえないでしょうか。ただ、『小学校教師の歩み』(第1巻)と『中・高教師のあゆみ』(第2巻)を通して読んだ限りでは、「教育労働者」としての教員像を批判的に検討する傾向は低調であったように感じます。日本教職員組合が90%近くの組織率をもっていた昭和30年代(1965~1974)に編纂されたことを考えると、それまで掲げていた「教育労働者」という運動論理を自由に批判することは難しかったのかもしれません。