教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

『日本教員社会史研究』その1―明治前期教員史研究の深化

2008年04月15日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 いつも「難しいものを難しいままに」説明してしまってます。どうも余裕がなくて、「難しいものをわかりやすく」説明することができないんですよね。わかりやすく説明するには、ひとつの研究成果に依拠するよりも、多くの研究成果をもともとの研究意図や資料の性質に注意しながら自分でまとめた方がはるかにいいので、今は先に進むことを優先します。申し訳ないのですが、今回も「難しいものを難しいままに」説明してます。

 今回から何回かでは、石戸谷哲夫・門脇厚司編『日本教員社会史研究』(亜紀書房、1981年)をまとめます。この編著は、東京教育大学で石戸谷哲夫氏を師事した人々を中心とした執筆者12名により、「日本社会における教員社会の社会学的分析」を目指して構成され、石戸谷氏の退官記念事業として編まれた論文集です。収録された12本の論文すべてが一貫した研究視角をもっているわけではないとされていますが、いずれも石戸谷氏の『日本教員史研究』を多分に意識して書かれたものと思われます。
 第1章の大坪嘉昭「近代日本の臣民創制過程における国民像と教員像」は、明治維新から森有礼の教育政策直前までの時期における国民像・教員像の課題と模索過程を分析したものです。維新後、明治政府は、外圧に対抗するため、富国強兵のための資本蓄積や軍事増強を推進しなくてはなりませんでした。しかし、農民は重い税負担などの負担増大に対する不満をもって、士族は治者としての存在意義と特権を否定された不満をもって、それぞれ集団的な抵抗を続けていました。明治政府の課題は、これら反抗しがちな民衆を、国家や諸集団へ統合する原理を模索することでした。明治政府内での国家統合原理の方向性は、それを村落共同体秩序と国家体制とを接合する素朴なイデオロギー体系に求める元田永孚(保守的旧特権層)と、反政府的政談にはしらず学問や職業に堅実にいそしむ態度に求める伊藤博文(開明派官僚グループ)との間でおこなわれた教育議論争にみられるように、決して一つではありませんでした。明治10年代前半の教育政策は、伊藤よりも元田の路線に沿った形で形成されていきます。明治14(1881)年の小学校教則綱領などによって、神聖化された天皇の伝統性を教科内容とし、「臣民」としての国民像を制度化を進められました。小学校教員は、明治14年の小学校教員心得などによって、児童の模範となり、国民教化イデオロギー(「徳」)を国民に内面化する役割を課されていきます。この時期の国民像の追求はまだ不十分でしたが、制度化過程における国民像や教員像の模索は、民衆を国家や諸集団へ統合する原理の模索として行われました。
 第2章の大橋昌平「小学校創設期における教員社会―五日市勧能学校と教師たち」は、神奈川県西多摩郡五日市地区に創立した勧能学校の創設背景・就学状況や、その教員の属性・動向、同校に関わった人々の公教育観を明らかにした論文です。明治10年代前半ころまでの勧能学校の教員は、政治問題に関心の強い学校世話役・学務委員(戸長や豪農たち)によって招致された各地を転々としてきた士族青年たちであり、村の豪農たちによって生活全般にわたって厚く援助されていました。当時、彼らの給料は学校へ奇遇していた民権運動の壮士へ寄附されていたそうです。教員のなかには、『五日市憲法草案』を起草した千葉卓三郎などの民権運動家がいました。彼らの公教育観は、教育内容・方法などをすべて自由とし、子弟に小学校教育を受けさせることは父母の責任であるとするものでした。このような教員・教育観を背景とした勧能学校の教育方針は、明治17年ころまで確認できるようです。
 第3章の溝口繁美「自由民権運動の抑圧と教員社会」は、自由民権運動の指導的役割すら果たしていた教員たちが、なぜ政府の教員統制政策に対して抵抗せず沈黙してしまったか、という問題を検討した論文です。明治14年から16年にかけて打ち出された教員施策は、絶対主義的天皇制の精神原理を貫徹させるべく、無批判な尊皇愛国思想の注入者として日夜努力する教師像を前提としたものでした。そこで要求されるのは、教員の自律性や専門性ではなく、教化の効率化のための教育技術であったとされています。このような教師像に対して当時の教員たちが抵抗しなかったのは、勤務年数の地域格差の温存(九州・四国・東北では若く経験浅い教員が多く、近畿・東海では比較的経験ある教員が多い)、出身身分による二重構造(上層に士族・下層に平民)、めまぐるしい人員の交替によって、固有の価値・教職倫理・専門性を確立することが難しかったからだといいます。また、教員社会の指導者層(師範学校教員)は、西洋から輸入した学問的識見によってエリート性を有し、政治的自由と権力を獲得するための組織的運動を指導するのではなく、教員層内部から遊離して多くの無資格教員を蔑視・支配したとしています。
 以上の大坪・大橋・溝口論文では、国民像と教員像の関係、小学校教員の実態、教員と自由民権運動の分離、といった明治前期教員史研究の専門的テーマを設定し、その研究の深化が図られています。実証面ではあやしいところも少々ありますが、いずれも興味深い研究成果を示していると思います。
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