〈学生たちへ: この記事をコピペしてレポートの字数をかせぐことを禁ず。 2011.7.27追記〉
もうずいぶん前のように感じますが、平成20(2008)年1月31日、一年近くの時間をかけて、教育再生会議が「道徳を教科化せよ」という内容を含む最終報告を出しました。今年の学習指導要領の改訂には明確に盛り込まれたわけではありませんが(道徳は事実上、教科化されたという意見もあります。新谷恭明「特別活動の終わり」『2008年版学習指導要領を読む視点』白澤社、2008年、218頁参照)、教科化までいかなくとも、学校生活のなかで道徳教育を集中的・計画的に行うべきという意見は、おそらく今後もたびたびなされるでしょう。私はこの問題について、1年ほど前に評価の観点から疑問を呈してみましたが(2007年3月31日の記事の一部)、今回はちょっと違う視点から考えてみたいと思います。
現在の道徳教育は、戦前の修身科に対する拒否反応を基盤としています。そこでの修身科は、訓育を排除した教授方法を用いて、法的に規制された「非民主的」道徳的価値を注入した元凶とされています(この修身科観は極端すぎると私は思いますが)。戦後の道徳教育は、まず、特定の教科ではなく学校生活全体で行い、教え込むのではなく、子どもに問題解決過程を経させて民主主義的な道徳的価値を養うこととしました。各教科(とくに社会科)は、各教科固有の役割を果たすことによって、このような道徳教育を担うとされています。このような道徳教育思想を「全面主義」といい、昭和20年代から30年代頭まで、教育課程における道徳教育の原理となりました。
朝鮮戦争を契機とした高度経済成長期において、社会的動揺が拡がると、道徳教育の特設を希望する意見が強まっていきます。また、全面主義では教科固有の役割を阻害するという批判や、統一的・計画的に道徳教育を行うことが難しい教育現場での実態が次第に明らかになっていきました。その結果、昭和33(1958)年に学習指導要領が改訂されて、「道徳の時間」が新設されました。以後の道徳教育は、学校生活全体で行うという基本路線を維持しながら、「道徳の時間」で計画的に実施して子どもの道徳的自覚を深化させることになりました。このような道徳教育思想を「特設主義」といい、昭和30年代から今に至るまで教育課程における道徳教育の原理になっています。
道徳科(徳育科)を推す人々は、集中的・計画的な道徳教育を推進したいのでしょう。そして、現行の教育課程に対する素朴な疑問として、道徳の時間があるならば、それが道徳科(徳育科)でもいいじゃないか、と思っているのではないでしょうか。しかし、そういう人々に気をつけてほしいのは、教育課程における道徳の時間は、「教科」であることを否定し、戦後求められた全面主義を基礎として成立したものであるということです。道徳の時間は教科ではないことに意味があるのです。道徳教育の教科化の問題点は、私が思うに、道徳教育が「教科」になることにあります。修身科の再来として拒否するのではありません。もし道徳科(徳育科)が設置されても、戦前の修身科と同じ轍を踏むとは思いません。それほど今の政府・国民は無知ではないと信じるからです。そうではなくて、「今」、「教科」になることに、以下のような問題点を感じるのです。
現代日本の教科は、理念上・制度上、知識の伝達だけでなく意欲・態度・能力・徳性を養成することになっています。しかし、実態として、大部分の教科指導は、いまだ知識の伝達(ひどいときには注入)にとどまっているのではないでしょうか。現代日本における教育の一つの意義は、学歴取得です。学歴は現代において必要不可欠なものだと思いますが、その学歴取得の方法として知識量の多少を問うことを基本とする限り、知識伝達・注入中心の教科指導のあり方はかわらないでしょう。これは、個々の教員だけの問題ではなく、今の学歴社会を支持・推進する教育社会および日本社会一般の問題でもあります。
現代そして未来の日本において必要とされる国民は、今何が起こっているかわからないまま、ただ誰かに流されて生きていくような人々ではありません。必要とされるのは、国家・社会のグローバル化・市場化が進んで従来の秩序や価値が有効性を失っていくなかで、正確な事実認識に基づいて、自ら道徳的価値を選択・創出して生きていく人々です。そうであれば、今後の道徳教育は、子どもたち自身が正確な事実認識に基づいて個別・集団的に道徳的価値を選びとる(ときには創り出す)ことによって行われるべきですし、そもそもこういう道徳教育実践は、各地で実際に行われているはずです。
しかし、知識伝達・注入中心の指導が行われるのが一般的な「教科」として位置づけられ、道徳的とされる知識・価値を伝達したり注入したりすることでは、上記のような道徳教育は行えません。「教科」の実態が現状のままでは、道徳科(徳育科)の理念どうこうの話どころではなく、実施した数年後には様々な弊害が湧き出てくることでしょう。こんな状況下で道徳科(徳育科)を設置することは、私は絶対に反対です。それは、修身科の復興に対する拒否反応ではありません。教科のあり方が実態としてかわらない限り、つまり学歴取得のあり方がかわらない限り、道徳教育が教科になるべきではない、と私は思うのです。