教育史研究と邦楽作曲の生活

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寺崎昌男編『教師像の展開』―近代日本における教師像の歴史的形成過程

2010年06月07日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 うっ屈した日常を打開するために(笑)、久しぶりに先行研究をまとめたいと思います。テキストは、寺崎昌男「解説 教師像の展開」寺崎昌男編『教師像の展開』(近代日本教育論集第6巻、国土社、1973年、9~31頁)です。なお、研究対象としての人物名には「氏」はつけていません。
 重要なことが多く、あまりに長くなったので、途中でやめたくなりました…(;_;) 余裕がないのでやりっぱなし、文章は読みにくく、難しいままです。先に言っておきます(笑)。



 本論文は、明治~昭和戦前期に発表された教師論、教育実践記録、および教師の社会的あり方に関する評論について、教師の生活や意識にかかわる時代背景を踏まえて論じたものです。戦前日本において教師はどのようにあるべきとされてきたか、という観点から、日本教員史を通史的に描いた論文だと思います。比較的短いわりに、今でも目の覚めるような論旨を含んでおり、教員史研究を志す方だけでなく、教育史を学ぼうと思われる方にもぜひ読んでみることをお勧めします。
 この論文では、戦前の教師論(または教育者論)を、国家側からの教育界の指導者たちによる教師向けの啓蒙的教説という性格を強く持ち、権力の末端機構に位置づけ、本格的な知的階級としてみなされなかった教師のあり方の反映だと位置づけています。教師論以外の記録・評論を対象としたのは、これらの資料が明治以降の国家社会によって形成されてきたものとして教師像(ビルト)を歴史に位置づける手がかりとなるからであり、国家側・指導層からの教師論だけでは見極められない内容を明らかにするためでした。そのことによって、教師像を近代日本の国家・社会において歴史的に作られたものとして明確化し、その教師像を作りだしたものの論理を対象化し、その論理的矛盾を明らかにしようとしたそうです。以下、順を追ってまとめていきたいと思います。
 まず、啓蒙期の教師について、「師匠」から小学校「教員」の造出へのという流れで述べられています。明治公教育の出発にあたっては、新しいタイプの学校(近代学校)を全国に5万余校設立・運営するため、大量の小学校教員を組織的・安定的に供給する必要がありました。しかも、その教員たちは、科学重視・近代実学内容の小学校教育を担うにふさわしい学力をもち、幕藩時代の郷学・寺子屋教育にあった地域的・私的性格を払拭した中央単一支配下の新しい身分に取り入れなくてはなりませんでした。そのため、政府は、幕藩時代にほとんど見出すことのできなかった「教師は養成されるべきもの」という思想を選び取り、師匠を否定して教員を造出するという教員養成の方針をとりました。ただ、実態としては、師匠→教員という過程は、なめらかには進んでいません。結局、各地域では、寺子屋・私塾の師匠や神官・僧侶・士族などの和漢学の心得のある者を教師に任命して、師範学校などの教員養成機関において「伝習」「講習」を受けさせて、急激な教員需要に対応しています。
 明治初年の教師論(たとえば文部省『小学教師心得』明治6(1873)年)には、知識伝達者としての啓蒙的・主知主義的教師像が中心であり、国家的意義から演繹した教師の役割は説かれませんでした。また、小学校教員は次の問題に直面していきます。すなわち、教師は知的教授者という位置にとどまりうるのか、啓蒙的教授内容は真に実用性をもっているのか、という問題です。そもそも、幕藩時代の民衆の生活において寺子屋・私塾師匠は、地域・父母の教育要求に即自的に対応した主として読書算を担当する知的指導者として、幼児期養育を担う子守や老人、青少年期職業指導を担う宿親・親方などのさまざまな「教師」とともに教育の世界を分かち持っていました。この慣行の中に押し入ってきた学校教員は、その立場と役割とを自らの実践的問題として問わざるをえなかったのです。それらに対する問題意識は、明治20年代以後、学校を臣民教化機構化・擬似的共同体化しようとした教員政策とあいまって、小学校教員たちを訓育・徳育担当者や一村一区の人格モデル・指導者としての立場へと移行させていきます。
 明治中期の教師論については、文部大臣であった森有礼と井上毅のそれが取り上げられています。明治18(1885)年、森有礼が文部大臣に就任しました。森文政期には、教師・教員養成改革が重要な政策目標として取り組まれ、師範学校令制定によって順良・信愛・威重の三気質が教員養成の目標とされました。森が養成しようとした教師は、天皇制国家の臣民育成を担う直接的責任者として、「学問」とは区別される「教育」を担う知識伝達者とともに、子どもに道徳的薫陶を及ぼす人格の持ち主であり、僧侶のように政論に中立である「天皇制国家の教育の担い手」でした。ただ、少なくとも森自身が意図していた理想の教師とは、国体への忠誠心を自発的にもち、読書算の教授だけでなく身をもって子どもに行動を示して道徳律に気付かせ、学力とともに忠良なる臣民の資質を備えて精神共同体にその一員として参加しうる子どもを育成する教師ではないかとされています。それは、教育の本質から教師の任務と役割を説き、「国体」の形成への教職を通じての献身と禁欲を説いたキリスト教的・西欧近代思想の反映であり、儒教主義思想とは異なるものです。当時の民権運動に対する政治的意味を否定することはできませんが、森の教師論には「教職の専門性論と、教師聖職者論との契機を同時にふくんでいた」とされています。ただ、明治23年の教育勅語渙発などを経ると、森の教師論のような発想は文部行政から見られなくなりました。井上毅文部大臣のころには、進展する国際社会における資本主義的競争への危機感に裏打ちされた実業教育論のもとに、国家・天皇に対する論理だけを媒介して教師の地位を説く教師論が発表されていきます。
 日清戦後から明治30年代にかけては、教師を新しい状況がとりまいていきます。すなわち、義務教育就学率の急上昇にともなう小学校教員数の増加、それに占める女教員と農民層の増加の一方で、劣悪な待遇によって教員集団の社会的地位が下落していったのです。政府は、待遇改善への決定的な対応ができない一方で、教員の政治的活動を規制し、教育内容・方法の画一化を進めて、教員の自由を狭めていきました。これらを受けて、教員たちは内的自発性の成立条件を喪失し、教師としていかに生きるべきか思い悩み、「教師たることへのよりどころ」を求めていきます。しかし、国家としては、大日本帝国の対外膨張に対応して進取敢為の積極的国民を育成するには、教師がただの職業人になってしまうことは避けられるべきことでした。そのなかで、教師は子どもへ献身するために、教室王国の主権者・主宰者として教科書を超え、価値内容を子どもたちに付与する慈恵的姿勢をとることを要求されていきます。このような状況下で、教師の目は、教育界の内へ内へと導かれていきました。
 明治末期から大正期にかけては、聖職的教師論という建前を逆手に取った居直りの教師論が現れます。官僚制・資本主義化の進展のなかで、その国家的役割を逆手にとって、教師の劣悪な法制的・経済的地位を再検討しようとする意識が、教師論のなかにも芽生えていきました。その一方で、教師自身が自己の経歴を内省しつつ、現実をいったん受容してのちその現実を越えようともがく、モノローグ(独白)的な教師論も現れます。大正期教師論は、教師論の建前と教師の現実との大きな矛盾に直面したがゆえに、自我の伸長を軸とした脱制度論的公教育批判の様相をもち、内観による「修養」概念の再発見によって教育実践の再生を展望していきました。
 教育運動を通じた教師像も検討されています。明治30年代には、社会主義運動の影響を受けて、経済的不平等による教育機会の差別や、教育費の全面的国家負担の要求、学齢児童の就労禁止などの労働者からの教育要求が現れています。明治期においてはこの流れに沿った教師の運動は停滞していましたが、大正・昭和期を通して教育労働運動が勃興すると、新しい教師論を生んでいきました。ただし、それらの運動と教師論は15年戦争の進展の中で弾圧されたため、本格的に展開するのは戦後に入ってからになります。なお、これらの動きと関連しつつ、大正期の運動を批判的に継承して、生活綴方教育運動や教育科学運動が展開しました。また、それらの運動とは離れたところでも、着々と教師のあり方が模索され続けていました。斎藤喜博などのように、子どもと同僚との緊張をはらんだ実践と教育研究とに向けた心構えなどを語り、「子どもとのきり結びをばねとした創造的・専門的教師像への地平をひらく視点」を見出す者も現れました。そして、敗戦を迎え、戦後も教師たちはそれぞれ生き続けていくのです。
 なお、戦前の教師像といえば、「師範タイプ」という像があります。師範タイプとは、師範学校を卒業した教師の一般的性格傾向を示す言葉であり、誠実ではあるが視野が狭く、従順ではあるが権威に弱い、偽善・卑屈・偏狭・陰鬱というの性格傾向を指します。そのような師範タイプの教師を生みだした師範教育については、明治以来とくに昭和期において、批判的認識および改革実践・論議が重ねられていました。師範教育を保っていた要因には、教師になるためには一般大学の学問的教授だけでは達成されない特別の教養が必要であり、それは長期的な教職専門教育が必要であるという認識があり、明治以来構築してきた師範学校の強力な閥的組織の維持要求がありました。師範教育は、戦後、開放制によって廃止されました。しかし、師範学校卒業生は、国民の生活現実から切り離されていく中学校―高校―帝国大学というエリート・ルートを経ず、「自らの将来を小学校教師へと閉鎖的に限定せざるをえなかった」がゆえに、「日本の子どもとそれをとりまく現実へのとりくみを可能とする位置に立った」のではないかという考え方もあります。

 以上、寺崎論文をまとめてきました。寺崎論文は、近代日本における教師像の歴史的形成過程からみた、小学校教員の歴史的特徴(地域的・私的性格の質的転換、国家的役割の漸次的付与、内省的性格の深まり、法制的・経済的地位への自覚化、国家から子どもへの献身対象の変化など)を明らかにしたものだと思います。戦前日本教員史の通史(とくに思想史として)として、分量としては短いですが、非常によくまとまっている論文だと思います。本文中には、以後発表されていく日本教員史に関する研究論文の主張を思わせる論旨があちらこちらに見られ、以後の教員史研究の先駆のようにも感じました。なお、自由民権運動と教員との関係、女教員についてはほとんど論じられていません。
 寺崎論文は、海後宗臣・波多野完治・宮原誠一監修「近代日本教育論集」シリーズの第6巻『教師像の展開』の総解説です。同シリーズは、「明治百年」(シリーズ発行が開始されたのは1969年)かつ戦後20年あまりが経過した中で、、明治以降に発表された教育に関する論説を復刻するとともに、それに関する解説を編纂したものでした。編纂当時、明治以来の教育学・教育研究は、諸外国の教育思想・理論・方法の輸入・祖述にすぎないとして省みられていなかったそうです。しかし、そこには諸外国の教育研究の摂取と内発的な発送をもとに創造的な努力が営まれ、教育現場に一定の影響を及ぼすとともに独自の歴史的系譜を形成していると意味づけ、「日本における教育研究の遺産の継承、なかんずく明治以降におけるそれの発展的継承が、少なからずおろそかにされている」と指摘します。寺崎論文は、この問題設定のもとに書かれたものでした。「近代日本教育論集」シリーズの問題設定は、30年経った今でも生きているような気がします。過去のことなど省みるに値しない、という傾向がなくなったわけではありません。しかも、そういう人たちに限って、過去のことを真剣に見つめたことがない、というのも事実ではないでしょうか。教育史の出番はそこにこそあるような気がします。
 なお、日本教員史の通史的研究として、もう少し新しく、戦後も含めたものとしては、寺崎昌男・前田一男編『歴史の中の教師Ⅰ』(日本の教師22、ぎょうせい、1993年)と同編『歴史の中の教師Ⅱ』(日本の教師23、ぎょうせい、1994年)があります。これらもお勧めです。叙述の戦前部分は、上の寺崎論文の内容を基礎としつつ、時代に合った形で再構成されていると思います。いずれ、また紹介したいと思います。
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