ふぅー、ようやく一週間が終わりましたね。崩れ気味の精神のバランスを保ちながら、それぞれお互いにがんばりましょう。
さて、今日はまたも旧HPテキストの補完。今ではちょっと変な表現がありますが、とりあえずテキストに手を入れない方針をとり、当時のままにしています(「我々院生」とか)。落ち着かない今の私には、たいしたことは書けません(笑)。なお、本文中の大日本教育会研究組合について詳しくはこちら。
研究会の利用
(1) ある研究会の目的
集団を効果的に維持するにはある一定の目的・方向性が必要です。平成17年1月から平成18年2月まで、一年間私が中心となって運営した教育史研究会(広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会)の「申合」を例にとって挙げてみましょう。
教育史研究会申合同教育史研究会の目的は「申合」第二項に定めました。すなわち次の通り。
第一:本会は、会名を広島大学教育学研究科教育学教室内 教育史研究会とする。
第二:本会の目的は次の通り。
(1) 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
(2) 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。
第三:本会には、本会の目的に賛同する者は、いかなる者でも参加することができる。
第四:本会は、隔週一回30分から90分程度会合を開き、教育史研究に関する意見を交換する。
第五:本会に幹事若干名を置き、事務を処理する。
<広島大学教育学研究科教育史教室内教育史研究会の目的>
1 本会の参加者が、教育史研究の能力・知識を向上させること。
2 本会の参加者が、自身の専門地域・領域を越え、互いに知的交流を行うこと。
同研究会の目的は、あえて説明しなくてもよいと考えます。申合にある目的を参加者個々人が自由に解釈し、様々な形で教育史研究会を利用してもらえればそれでよいと思うためです。また、ある解釈を示すことで、その方向に囚われてしまうことを恐れます。ただ、これらの配慮が参加者(もしくは参加を考えている人々)に対して混乱を与えるとしたら、それは私の本意ではありません。
ということで、参考までに、教育史研究会の目的理解とその意義について私個人の考えを述べたのが以下のものです。なお、以下の主張は、私個人の経験に則って構成した勝手な主張であることはお断りしておきます。
(2) 研究会で向上させられる教育史研究の能力
上記の研究会で向上させることのできる「教育史研究の能力」の中で最も重要なものは、「論文の読解力」だと思います。最も重要だと考えるのは、論文を読むことは参加者全員が共通に行う作業だからです。当該論文を読みとるには、次のような論文構造に関する諸点を明確にする必要があります。
<論文を読みとるために理解が必要な注意点>
1 何を論じ、なぜ論じているのか。(課題設定)
2 何をどのように論じているのか。(論文構成・展開)
3 結果として何が言えるのか、結論はどういう意義があるのか。(結論)
そして、上記の論文構造に関する諸点の妥当性を問うには、次の諸点についての知識理解が必要です。
<論文の妥当性を問うために理解が必要な注意点>
1 現実問題や先行研究では、何が問題となっているのか、なぜ問題なのか。
2 先行研究では、何が明らかにされているのか。
3 先行研究を通して、何が課題として残されているのか。
これら諸点についてどれだけ理解できるかが、「論文の読解力」の程度を計る指標になろうと思います。また、これら諸点は自らが論文を書く際に注意すべき点と重なるのであり、「教育史研究の能力」として基礎的な能力であると思われます。能力向上の方法として繰り返しが有効であることを考えれば、教育史研究者にとって教育史研究会のテキスト読解は基礎的能力の形成にとって有意義な機会となります。また、レジュメ作成は、論文を意識的に分析し上記の諸点を明確にする作業であり、自覚的に能力形成を行える有意義な機会となります。
ただし、以上のようなテキスト読解は一人でもできます。では、なぜ多人数が集まって、研究会を組織する必要があるのでしょうか。私が研究している大日本教育会では、明治26(1893)年12月に研究組合という組織的研究機関を設置しました。研究組合設置の意義には、「偏見固陋の危険性の排除」と「研究資料の交換」という意義が見いだされていました。私が考える本研究会の組織の意義も大きくはここにあり、まとめると次のようになります。
<研究会の会合によって得られるもの>
1 自分にはなかった発想・意見・知識を確認すること。
2 自分の誤解を確認すること。
自分のものとは違う発想等は、自分のものとは違う知識・経験から生み出されることが多いのではないか、と私は思います。また、自分の誤解を確認することは、次なる成長の動機となりうるのではないか、とも思います。だからこそ、多人数で研究会を組織する意味があるのであり、異なる意見・知識を極端に追究すれば「自身の専門領域・地域を超えた知的交流」は重要だと思うのです。
以上、討議の意義など述べ切れていない部分もありますが、教育史研究会の目的と意義の私個人の見解を述べてきました。私は、この研究会では、参加者個々人が論文の読解力を向上させ、異なる発想・意見・知識を得ることができればよいと思っています。そして、多少なりともみなさんの論文作成能力の向上や新たな視点の形成に、教育史研究会が資することができれば、なおよいと思います。教育史研究の実体は個々の研究で成り立っています。教育史研究のさらなる進歩は一人の研究者によって達成されるものではありません。研究者個々人が優れた論文を書くことで研究は進歩するのであり、研究者のタマゴである我々院生の研究能力の向上は教育史研究の進歩と無関係ではありません。教育史研究会は、参加者一人一人の能力向上・研究の進展を目指すものだと思います。ここに、研究会の発起・参加の意義があるのだと思っております。
(広島大学教育学研究科教育学教室内教育史研究会第四回例会報告書(2005.2.26発行)を訂正し、2006.4.13作成)