今日も大変でした。そして、明日の夕方からあさってにかけて、今年最初の山場です。
再び、旧HPのテキストの貼り付け。大日本教育会の前史と結成までを書いたものです。見れば見るほど書き直したくなりますが、手を加え始めるとキリがないのでそのままにします。内容的には、当時にしては比較的まとまっている方かな。
ちなみに前史・結成期に活躍していた人の一部は、私の別ブログ「大日本教育会・帝国教育会の群像」を参照のこと。現在作成している範囲では、東京府会員ファイル1、5~7、9~16がその人々に当たります。…「群像」も更新したい。時間がほしい…
1,東京から全国へ ~東京教育会・東京教育協会・東京教育学会~
明治12(1879)年~明治16(1883)年
明治のはじめごろ、学校制度による公教育が開始されるに至り、文部省や各地方官たちは学校教育の普及・改良を求めて数々の試行錯誤を繰り返しました。この試行錯誤は民衆においても繰り返され、多くの人々が教育の普及・改良を目ざしました。記録に残っているのは公立の教育会議が多いですが、当然、教員自身が自発的に組織した会議も存在しました。次第に継続的に会合するものも現れ、組織体として活動を始めるものも現れました。その活動は、当時隆盛を誇っていた自由民権運動の影響を強く受けており、演説や討論によって新しい教育のあり方を模索しました。
明治12(1879)年1月、東京府日本橋区本町にあった常磐小学にて、教育に関する演説討論会が開催されました。これは、東京府師範学校(現東京学芸大学の前身の一つ)の教員四名が連名で開催したものでした。その内の一人・津田清長を会主として、この演説討論会は開かれ、仮規則が配布されました。これが、大日本教育会・帝国教育会[につながる前身]の最も初めに現れた組織体でした。この会は、同年4月に東京教育会と改称し、府立第一中学や上野公園内にあった教育博物館を会場として演説討論会を開いていました。明治13(1880)年になると小学校教員など72名が会員となり、東京府学務課幹部の田邊貞吉を主幹(会長)とし、東京府内の優秀な教員が役員となって活動しました。この年には、東京府学務課や府師範学校と連携して活動を活発化し、小学試験法改正や小学教則(カリキュラム)改正について諮問などを受け、教育現場の判断をより重視する内容の法令制定に関与しました。また、8月には懇親会を主催し、東京府の学事関係者と懇親を結びんでいます。しかし、明治14(1881)年以降は次第に活動を衰退させ、明治15 (1882)年には機関誌『東京教育会雑誌』を休刊してしまいました。
東京教育会が活動していた同時期の東京府には、東京教育協会という団体が活動していました。これは、学習院(華族子弟対象の学校)の教員などが中心になって明治13年8月(明治12年とも)[に]結成した団体でした。明治14年ごろ中心になって活動していた人物には、能勢栄・城谷謙・財満久純(いずれも学習院教員)がいました。12月には、文部省が地方官を召集したのを期に、東京教育協会が仲介役となって懇親会を開き、大勢の地方官と東京教育協会会員が交流しました。その中には文部省少書記官の吉村某の姿もありました。勢力を衰退させつつあった東京教育会と比べて、東京教育協会は勢いにのりつつありました。そのような状況の中の明治15年2・3月ごろ、両会合併の話が持ち上がったのです。両会の中心人物は、東京師範学校(東京高等師範学校、現筑波大学の前身の一部)の卒業生であり、先輩後輩関係の人々が多くいました。そのため、それほど抵抗はなかったのでしょう。明治15年5月、両会が合併し、東京教育学会が成立しました。
東京教育学会は、文部省所管体操伝習所主幹の西村貞を会長として結成されました。同会は、1討論会による教育実務の審査・2演説会による学説や実験成果の交換・3国内外教育の調査・4雑誌刊行・5各地の教育会や教育者との交流を行いました。同会においてすでに、後の大日本教育会における活動の基礎を形作ったのです。明治15年12月、文部省主催の学事諮問会を期に教育懇話会を主催し、各地の学事関係者や文部省の幹部官僚たちと交流しました。そして、明治16(1883)年7月、後の大日本教育会・帝国教育会会長となる、文部大書記官の辻新次が入会しました。このころから、東京に限らない、さらに大きな活動範囲を持つ団体へと成長するため、組織改革の動きがあったようです。
明治16年9月9日、東京教育学会常集会にて、大日本教育会が結成されました。東京教育学会規則の改正、という手続きを踏んでの組織再編でした。これによって、日本初の全国的な私立教育団体が成立したのです。以上のように大日本教育会は、東京府師範学校教員の発起の会より始まり、文部省や地方官と交流を重ねながら結成された団体であったのです。
図2:明治10年代前半の学習院校舎
出典は『女子学習院五十年史』(凸版印刷、1935年)。学習院は華族子弟子女のための学校。ここで働いていた教員たちが東京教育協会を結成した。毎月の演説討論会などもここで開かれた。また、東京教育学会も集会会場として利用し、大日本教育会でも明治17年1月まで常集会会場として利用していた。
(以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)