教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

[1893~96]大日本教育会の教育研究団体化

2011年01月31日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 寒いです。日が出ている日中に、マイナスの気温なんて…

 さて、さらに旧HPテキストの補完です。旧HPの連載「大日本教育会・帝国教育会とは」は、以下のテキストを最後に無期限休止になっていました。その理由は、研究が停滞していたからです。諸事情により、このあたりの時期に関する研究方針や解釈がなかなか定まらず、この続きを書くことができませんでした。その後、研究をまとめた成果が、「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の12番です。HPに書いてから論文にまとめるまで、3年かかったわけですね。前回と同様、今書くとかなり違った書き方ができそうです。
 ちなみに、下の方に貼り付けている図4の大日本教育会事務所には、向かって左の門札に「大日本教育会書籍館」とあります。これは、大日本教育会が、明治20(1887)年3月21日に開館した書籍館です。一説によると、日本初の民間図書館らしいのですが、本当でしょうかね。同書籍館には、ボアソナード文庫などの貴重コレクションも併置されていました。


 3,大日本教育会の受難~政治運動から学術研究へ~
 
[明治26(1893)年~29(1896)年]

 ようやく安定してきた大日本教育会でしたが、再び試練が待ちかまえていました。明治26(1893)年10月の文部省訓令第十一号訓令(いわゆる「箝口訓令」)の発令です。この訓令の全文は、次のような内容でした。

 「教育は政論の外に立つべき者たるに因り、学校教員たる者は明治二十二年十月九日文部省訓令・明治二十五年十二月十五日内訓の旨を注意することに怠らざるべし。教育会の名称に於ける団体にして、純粋なる教育事項の範囲の外に出て教育上又は其他の行政に渉り持論を論議し、政事上の新聞雑誌を発行するは一種の政論を為す者と認めざるを得ず。因ては其の団体は、法律上の手続を履み、相当なる政論の自由あると否とに拘らず、学校教員たる者の職務上の義務は此等団体の会員たるを許さざる者とす」([下線・]句読点・濁点は白石が付記)

つまり、政論を為す教育会には学校教員は入会・参加を禁止する、という内容でした。そもそも学校教員の政論禁止を指示する訓令は、これが初めてではありませんが、第十一号訓令は政論を為す団体として「教育会」を名指ししたことに独自性を持っていました。この訓令によって、大日本教育会を初め、各地の地方教育会にも影響が及び、大幅に会員数を減らす結果を引き起こしました。
 第十一号訓令発令の背景には、明治25年来教育界で盛り上がっていた小学校教育費国庫補助運動の過激化があったようです。この運動の中心は、先述の全国教育者大集会の過程で結成された国家教育社という団体が実質的に担っていました。大日本教育会はこの運動に対して最初は不干渉の姿勢を取っていましたが、運動の加熱に及ぶと学術研究の側から参加するようになりました。時の文部大臣・井上毅も教育費国庫補助は重要だと認識しており、7月の第十回総集会席上で国庫補助の必要について言及しました。しかし、当時の日本政府は軍事力整備を最優先していましたから、教育にまわすお金はあるはずもなく、井上文相も国庫補助について消極的になってしまいました。そしてついに明治26年9月9日、創立第十周年記念会席上にて、役員たちによる井上文相の批判を含んだ演説に発展しました。また、同日の評議員会にて、従来の政論に及ぶことができない出版法準拠の機関誌『大日本教育会雑誌』を、政論に及ぶことのできる新聞紙条例準拠にすることが決定しました。さらにその後、辻新次会長と伊沢修二国家教育社長が、伊藤博文の政敵であった大隈重信にそろって面会したという風聞が現れます(『教育時論』によると、三者同時面会は事実だったようです)。10月18日、大日本教育会名誉会員であった伊藤博文以下当時の内閣関係者8名が脱会、25日には大日本教育会総裁を務めていた有栖川宮熾仁親王が総裁職辞退という、大変な事態が起きてしまいました。そして、愛知県で開かれた国家教育社第三回総集会の第一日目に合わせて、文部省訓令第十一号訓令が発令されてしまったのです。大日本教育会は訓令発令直後に評議員会を開き、機関誌の新聞紙条例準拠の件を廃案、政論に及ぶ研究調査を担当していた委員会を廃止、「教育上の学術会」であることを確認しました。
 大日本教育会会員は、大部分が学校教員であり教育行政担当者も多く、この対応はやむをえない対応でしたが、運動から撤退したことに対して教育雑誌や新聞は辛辣な批判を始めます。教育雑誌や新聞は第十一号訓令とは関係ないのですから、ある意味むごいことですが、大日本教育会批判は当時における教育費国庫補助運動そのものの重要性を示すものともいえましょう。さらに、大日本教育会の対応は早かったのですが、大勢の退会者を出したと同時に幹部クラスの人物の退会に及んでしまいました。ある地方では属官に対して教育会に関わらないように指示したといいます。大日本教育会は、当初は無干渉であった政治運動に大々的に参加したために、世間的にも組織的にも大打撃を受けてしまったのです。
 第十一号訓令後の大日本教育会の組織改革は、極めて迅速に、そして徹底されました[研究団体化が迅速に進められたのは、訓令第十一号だけがこの時期における組織改革の原因ではなかったからだと思われます。『教育学研究』掲載の拙稿12番を参照のこと]。嘉納治五郎や能勢栄などの教育学研究の充実を望む人々が役員を占め、組合という研究調査機関を設置しました。結果、計7つの組合(単級教授法研究組合・国語科研究組合・初等教育調査組合・説辞法研究組合・漢文科研究組合・児童研究組合・理科教授研究組合)が会員の手で創設され、さまざまな学術的研究調査を行いました。明治27年6月の第十一回総集会席上で起きた教育費国庫補助に関する採決(提案代表者は有力教育雑誌のリーダー)に際しても未採択を貫き通し、「政論に及ばず学術研究を行う」という方針は貫かれました。この判断についても雑誌新聞上では激しく非難されましたが、大日本教育会の方針は揺るぎませんでした。そして次第に、組合による研究調査が成果を上げ始めました。各地の地方教育会の機関誌は組合の研究調査を転載するようになり、学術研究の方針はうまく進んでいるように見受けられました。

図4:明治26年頃の大日本教育会事務所正面
 東京市神田区一橋通町にあった大日本教育会事務所。出典は『大日本教育会雑誌』132号所載の画像。元々は宮内省から借用していた土地・事務所であった。下賜を請願し、明治25年2月5日に許されて大日本教育会の持ち物となった。画像の建物は明治26年春に改築したもの。正面につるされた表札を見ると、さまざまな団体に利用されていたことがわかる。この建物の中でさまざまな事務が行われ、組合の会合もここで行われ、建物内の講堂ではさまざまな学説が唱えられた。帝国教育会と改称した後も、しばらくこのままであった。しかし、まさか、この土地と建物が国家教育社とのトラブルの一因となるとは、下賜直後は誰も考えなかっただろう。

  (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)

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6 コメント

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大日本教育会人名録について (松沢)
2021-07-20 22:50:28
はじめまして。「大日本教育会」で検索していてこのblogを見つけました。
明治期の祖先に近い人物が当時の大日本教育会の会員だったことを最近知り、名簿からその名前の確認などしています。

「大日本教育会・帝国教育会の群像」の方のblog記事で教育会の名簿について言及がありますが、これは「大日本教育会雑誌」もしくは「教育公報」などの付録として発行されていたものでしょうか?

「大日本教育会雑誌」の復刻もしくは目次集成を手掛りに当時の名簿を確認しているのですが、明治21年以降で見つけることができたのは次のような感じです。

M21(号外)人名録
M22(号外)人名録
M23(号外)人名録
M24(112号付録)人名録
(その後無し?)
M38(301号)帝国教育会会員名簿

明治38年の名簿は明治24年のものに比べると随分会員数が減っているように見えます。

個人的興味からは、ぜひ明治24年以降38年まであるいはそれ以降の名簿を継続的に確認し、祖先に近い人物がいつまで在籍していたか、脱会していたとしたらその契機は(会費未納による除名とか)?など調べてみたいのです。

教育会による当時の人名録出版状況について、もしご存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
(何年の版が存在する、存在しない、など)
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はじめまして (白石 崇人)
2021-07-22 09:17:33
松沢様、はじめまして。
大日本・帝国教育会の名簿はいずれも機関誌の付録です。私の知る限りでは、明治25年と明治29年~37年の名簿は未発見です。そのほかは復刻雑誌に付録しています。また、それ以降は、大正元年と大正4年の名簿だけ見つかっています(それ以外は未発見です)。これらも雑誌『帝国教育』の付録についています。名簿未発見の時期分は、たびたび出てくる入退会記録を追っていくしかないのですが、入退会記録も皆尽的なものではないので補足的な史料となります。院生時代はそういう記事を一つ一つひろってチェックしておりました。

明治36年に会費未納者を対象とする名簿の大規模な整理があったので、明治38年の名簿記載者は少なくなっています。ある意味この年の名簿に載っている人たちは教育会の「少数精鋭」といったところでしょう。明治期の会員数の推移については、おおざっぱですが拙著『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良』溪水社、2017年の第Ⅰ部第5章でやっていますので、参考にしてください。
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ありがとうございます (松沢)
2021-07-24 09:46:18
ご回答ありがとうございました、大変参考になります。

いま追いかけている人物は、履歴書をみると教育会の夏期講習にも参加している様子です。
講習内容など雑誌に記事があると思いますので、こちらも確認しようと思っています。
(地方在住なので、地方で開催の講習会なのか、東京でのものだったのか、等。
また、どのような契機で地方の教員が教育会に参加していったのか、など。)
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Unknown (白石 崇人)
2021-07-24 14:59:47
夏期講習会も追いかけていらっしゃるのですね。
講習会の名簿は一部しか検討していませんが、明治期の講習会については拙著『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良』の第Ⅲ部で詳しく検討しております。研究が進みましたら参考にしてみてください。当時、東京では複数の団体が講習会を開いていますし、地方でも道府県市や地方教育会が講習会を多数開いています。よくもこれだけの学修需要があったものだと思うくらいです。免許上進や出世のポイントにもなったようですが、それを差し引いても当時の教員はかなり勉強熱心であったと思います(講習に出て寝ていた人もいたようですが…)。
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Unknown (松沢)
2021-08-16 23:02:24
夏期講習の件、復刻版雑誌で確認できました。
地方開催の2〜3日の講習会のようなものと侮っていたら、東京の師範学校附属学校の講堂で八月まるまる三十日使って講義、終了時には免状授与式と後楽園で慰労会、という内容でした。
東海道線の東京・神戸開通が明治二十二年のようですね(所要時間二十時間)。
明治二十年代にこのために夏休み返上で地方から上京して、東京に滞在するだけでも大金が必要だったのでは?
おっしゃるように明治の若者の熱気というか、時代の勢いと言うかがあったのでしょうか。
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Unknown (白石 崇人)
2021-12-08 18:37:02
松沢様、投稿されていたのは早くに気づいていたのですが、コメントが遅くなりました。
明治20年代に地方から上京することは、我々現代人には想像もつかないほどの一大イベントだったと思いますし、費用も並の覚悟では出せないものだったと思います。移動中は収入がなくなる可能性もあるわけですし。
夏期講習ではありませんが、東京から愛媛に赴任した町田則文の資料に基づいて、「明治人の距離感覚と大日本教育会https://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/e/2de0bd09446e1bffe79649bef1642d53」という記事を10年以上前に書いたことがあったのを思い出しました。当時の史料に基づいて考察することで、明治人の感覚を疑似体験することができます。歴史研究の面白いところですね。
熱気を帯びているとしか言いようのない明治人の勢いやエネルギーは、いつ見ても魅力的だと思います。感情的な理由に限ると、私が明治時代を専門に研究している理由のうち、最大の理由がこれです。
とりとめのない感想になりました。失礼しました。
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