今日は、1930~40年代について。出典を示す場合は以下のように表記してください。
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白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。
3.「教育情報回路」概念による教育会史試論
(5)教育情報回路の徹底・変容・再編 (1930年代~40年代)
明治後期から大正期にかけて、教育会の情報回路の機能は、教育研究活動を基軸として充実を極めた。昭和期に入ると、郡役所廃止による県学務当局の台頭を背景に、学務当局の指導強化を受けて教員統制の基盤となっていく道府県教育会が現れた57)。明治後期以降、地域の教員たちの研究発表の場として機能していた教育会雑誌も、道府県学務当局から学校へ、時局に応じた教育内容・方法を伝達する回路となっていった58)。ただ、学務当局の統制のあり方は、全国一律一様のことではなく、道府県によって異なると思われる。県によっては、会長に知事等を自動的に選出するのではなく、師範学校長や民間人を選出して、行政の統制体制からいちおう距離を取ろうとするところもあったのである(信濃教育会や山口県教育会など)。教育会を通した教員統制の多様性の解明については、今後の事例研究の積み上げを必要とする。
1930年代~40年代の教育会史研究は、2009年以降、飛躍的に進められた。ただ、それらをまとめる時間的余裕がなかったため、以下、おおまかな中央教育会の通史的流れを説明することで本時の発表を果たしたい59)。
さて、昭和9(1934)年、帝国教育会は、全国連合教育会(帝国連合教育会が改称したもの)と合併し、道府県郡市区教育会を団体会員とした(そのほかの教育研究調査団体も入会可能)。それ以降、幹部や会議出席者を団体会員から割り当てて選出するようになっており、団体会員の大半を占める地方教育会の影響力は、帝国教育会内部で強まっていったと思われる。1940年代前半の帝国教育会は、おおよそ2段階にわたって組織的性格を大きく変容させた。まず、昭和18(1943)年、組織のあり方を、従来の会員の集合体から、道府県市植民地教育会と全国規模の教育団体とをもって構成される「本邦ノ包括的教育団体」(定款第3条)へと変容させた。次に、戦時協力のために教育団体を帝国教育会に一本化し、昭和19(1944)年、大日本教育会と改称して、幼稚園を含む全学校教職員を正会員とし、文部大臣を名誉会長に推戴して会長・副会長を文部大臣の指名制とする「教育翼賛団体」(定款第3条)となった。わずか2年の間に1930年代から進められていた教育団体の統合を実現させたにとどまらず、総力戦体制の構築・徹底という大きな流れの中で、文部大臣を頂点として全国の全学校教職員を包摂する一大職能団体を誕生させた。
1945年8月、日本は終戦を迎えた。同年10月頃以降、GHQの労働組合育成の方針と終戦下の劣悪な教育環境とを背景として、教員組合が結成され始めた。1947年には、日本教職員組合(日教組)が結成され、全国五十万の教職員の団結を標榜して活動を開始した。他方、戦時末期に職能団体化した教育会は、戦後の民主化の方向性にあわせて再編に努める一方で、1946年から47年にかけて教組の影響を受けて解体されていく。大日本教育会は、1945年11月に機構民主化・運営自主化を目指して定款改正を行い、文部大臣の会長・副会長指名制などを廃止した。さらに、1946年7月に日本教育会と改称し、都道府県市地区教育会またはそれに準じる教育団体の連合体へと再編された。日本教育会は、教育会を「職能団体」と位置づけ、待遇改善を目的とする「教員組合」とは異なる役割を持つ団体とし、地方教育会の解体を押しとどめようとした。1947年に入って、教組との連携をも模索したが、教組側では教育会解散を望む声が根強く残った。各地では、教組代表の教育会幹部への就任により、地方教育会の解散が進んでいく。日本教育会も、1948年8月、地方教育会の解散反対の声を押し切って解散することになった。
1948年8月、日本教育会解散を決めた総会直後、長野・茨城・栃木・東京・岐阜・愛知・山口・鹿児島・富山・山梨・福井・神奈川の代表が集まり、新しい教育会の結成を申し合わせた。その結果、信濃教育会・茨城県教育会・栃木県連合教育会・東京都教育会の発起により、1949年11月、日本教育協会が結成された。日本教育協会は、その目的を「教育の振興」「職能の向上」「学術の研鑽」「教育の民主化」「平和国家の建設と世界文化の発展に寄与すること」とする、都道府県教育会およびそれに準じる団体の「連合機関」であった。
1940年代後半の全国教育団体は、待遇改善のための教員組合の勃興・活発化、職能団体化していた教育会の解体という形で、変容・再編した。1940年代の日教組は、職能向上に関わる教育研究活動を避け続けた。他方、日本教育協会は、組織単位たる地方教育会の不安定な活動状況を反映し、十分な成果を上げられなかった。1940年代後半の全国教育団体は、教員の職能向上よりも待遇改善に傾斜して機能した。
日本教育協会は、日本独立の機運にのって、1952年11月に日本連合教育会と改称し、漸次加盟教育会の数を増やしていく。また、日教組は、様々な待遇改善運動を展開するとともに、1951年9月に教研活動を始め、職能向上の機能も持つに至った。さらに、1940年代末頃から、全国規模の教育研究団体や校長会などが結成され始めている。1950年代にも、全国教育団体は新たな文脈のなかで変容・再編したと予想される。その検討は、今後の課題として残されている。
なお、1940年代前半・後半ともに、地方教育団体の変容・再編のあり方は一様ではない。1940年代の全国教育団体が地方教育団体の連合体であったことを踏まえると、そのあり方の検討は不可欠である。たとえば、1940年代後半の地方教育会存続・解散には、県・教組・軍政部との関係や、教育会財産管理をめぐる動向などの多様な問題要素が絡んでいる。各県ごとの研究が必要である。
注
57)山田恵吾「教員統制と地方教育会―一九二〇年代後半から一九三〇年代前半における千葉県教育会を事例に」梶山編『近代日本教育会史研究』、197~220頁。
58)坂本紀子「一九二〇年以降の北海道連合教育会の変容過程」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、433~456頁。
59)白石崇人「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」未刊行。 [※現在は、次の形で活字化済み。白石崇人「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、東北大学大学院教育学研究科内教育情報回路研究会、2012年、 1~10頁。]
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