教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

明治人の距離感覚と大日本教育会

2008年10月16日 20時08分22秒 | 教育会史研究
 腰の調子は相変わらずです。しかし、5年前は一度何ともなくなるまで治ったので、リハビリを続けていればいつかは治るものと考えています。
 さて、腰のケガによって長時間の移動に不安があるため、最近どうしても行動範囲が狭くなってしまいます。長時間の移動といえば(強引(笑))、明治人の距離感覚のこと。
 教育会は、直接交流の難しい人々が意思疎通を図るために結成されたとも考えられます。「群像」で書いた町田の愛媛教育協会結成への思いを参照すると、なるほどそうかもしれんと思ってもらえるのではないでしょうか。このような教育会結成の意味をよりリアルに理解するためには、どうしても明治人の距離感覚をイメージせざるを得ません。距離感覚をつかむ資料として、地図以外に、とりあえず今は旅にかかった時間を考えています。前回の記事のような旅程の資料は、そういうイメージ喚起を助けてくれます。
 例えば、明治19年9月22日に横浜から汽船に乗って23日に神戸に着いた、という旅程。私が移動する時なんかはよく電車や新幹線を使いまして、長時間の乗車も気にならない方ですが、それでも丸1日も乗っていたらどうにかなってしまいそうです。丸1日神戸に留まって、25日に出発した町田の気持ちもわからなくもないですね(単に用事があっただけかもしれませんが)。今では成田空港からパリまで12時間で行けるみたいですが、明治19年の横浜-神戸間はその約2倍の時間がかかるわけです(きっかり24時間かかったわけではないと思いますが…ここではそういうことにしておいて、と)。横浜-三津浜(松山)間にいたっては、移動時間だけでも現代人がパリに行く時間の約4倍の時間がかかっていたわけです(きっかり48時間かかっ…以下略)。
 パリは昔に比べて近くなったとはいえ、外国です。私は海外旅行をめったにしないので、パリより遠いところって…想像できないです。想像したとしても、交通手段の発達していない外国だろうな、という程度のぼんやりとした想像しかできません。ようするに、明治19年の横浜にいた人が神戸や愛媛松山のことを想像することは、現代の日本人がパリよりもうんと遠いところを想像するようなものだったわけです。
 そう考えると、全国画一の普通教育を実施しようとした明治5年の学制は、本当に荒唐無稽な政策だったように思えてきます。また、こんな距離感覚を持たざるを得ない当時の人々が、明治16年に大日本教育会を結成して全国の教育を普及・改良しようとした事実には、心底驚くと同時に、心底スゴイ!と思わざるを得ません。だって、今で考えたら、世界規模で教育を普及・改良しよう、と言っているようなものなのですから。

 あ、そういえば、「群像」更新しました。「岡五郎」氏を追加。この人も、明治20年代くらいまでに福井→東京→徳島→宮城→東京と転々としています。文部官僚のなかでもあまり注目されない方の人だと思いますが、その業績も調べてみればやはりスゴイ人です。
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