教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

2 明治中期における科学教育・研究の制度化

2011年04月01日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 今日から新年度開始。さあ、気をしっかり保って、がんばろう。

 で、続きです。本文を何かで利用される時は以下のように書かれるのがよいのではないかと。↓

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「2 明治中期における科学教育・研究の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.1(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

(2)明治中期における科学教育・研究の制度化
 では、明治中期における科学の制度化は、どんな状況にあったのか。以下、日本における科学の制度化の視点を有する通史書を参照して、明治中期における科学の制度化過程を明らかにする。
 日本における科学の制度化は、まず教育面で自立した。明治政府は、西欧列強の強大な国力の源を科学・技術に見て取り、西欧列強中心の国際社会における生き残りをかけて科学の移植を推進した。文部省・工部省・開拓使・農商務省は、各々教育制度を整備し、御雇い外国人を使って科学の技術的側面を中心に移植していった。明治中期に至ると、各政府機関が各々管理していた高等教育機関が、次々と文部省へ移管され、帝国大学の下に収斂されていく。また、科学教育の担い手の中心が、従来の御雇い外国人から、国内での教育や外国留学によって養成された日本人へと移行した。明治23(1890)年前後には、日本の科学は教育面で独り立ちするに至ったとされる。
 制度化された科学教育を受けて養成された科学者たちは、明治中期に至る頃、学協会を結成して集団を形成していく。例えば、工部省管轄の工部大学校卒業生たちは、明治12(1879)年に「工学会」を中心となって結成した。帝国大学教員や学生・卒業生たちも、物理学会・生物学会などを結成した。明治16(1883)年には、東京大学理学部・同医学部・工部大学校・駒場農学校の関係者が集まって、理工系の諸学科を網羅した総合的な専門家集団としての「理学協会」を結成した。理学協会は、科学研究を推進するための基礎固めを目指して、各学科の共通性に注目し、相互交流を行うために結成された。理学協会の活動は長く保たなかったようだが、その結成の背景には、制度化された教育制度の枠組みを超えて、科学者の集団を形成しようとする動きが見て取れる。
 明治20年代~30年代の時期は、各種の企業が成長し、多くの専門家幹部を必要とした。明治27(1894)年、文部省は高等学校令を制定し、帝国大学予備校と実質的に化していた高等中学校を、専門職業教育のための高等学校へと編成しようとした。ただ、その後も相変わらず大学予備科ばかりが注目されたため、目的を果たすことはできなかった。専門職業教育に従事する私立学校はこれ以前からも設置されていたが、専門職業教育の制度的確立は、明治36(1904)年の専門学校令を待たなければならない。また、企業(財閥)の寄附等による科学教育の支援が多く見られるようになるのは、明治30年代以降である。明治中期における科学教育は、企業との連繋を制度化するまでには至っていなかった。
 では、研究面での科学の制度化はどうだったか。政府は、明治初年から、科学技術に関する試験・調査のため、行政機関内に各種の機関を設置していった。早いものでは、例えば、海軍省水路局(明治4年設置)、東京衛生試験所(明治7年設置)、東京気象台(明治8年設置)などがある。明治20年代以降はさらに増え、震災予防調査会(明治25年設置)や農事試験場・水産調査所(明治26年設置)などが設置されていった。これらの機関は、日本の自然的・社会的環境に適合したものの選定や、資源調査、産業振興のための技術的な試験・調査などを行った。ただ、研究によって知的な開発を目指す動きは、明治30年代以降のことになる。
 大学における科学研究の制度化は、明治19(1886)年の帝国大学令を画期とする。帝国大学令は「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ、及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」と規定し、教育と並んで、はじめて学問研究を大学の目的とした。明治26(1893)年には、講座制の採用によって帝国大学における科学教育・研究の専門分化が進められ、講座の枠に限定された領域を深く研究させることが目指された。もちろん帝国大学令以前にも、御雇い外国人たちが日本の自然と物産を対象とした研究を活発に行ったが、当時、研究を大学・教授の任務とする制度はなかった。19世紀半ばの時期は、西欧でようやく大学教授の任務は研究にあるという理念が定着し始めた時期であり、御雇い外国人たちは、新しい傾向と科学研究を個人的活動とする従来の傾向との間で養成された者たちだった。そのため、彼らの研究活動は、むしろ彼らの個人的なイニシアティブによるものと考えられている。明治19年の帝国大学令は、大学教員たちが個人的に行っていた科学研究を制度化した。しかし、科学研究を推進するにはどうしても費用がかかる。研究室の費用は、ほとんどが教育のための費用に使われ、研究費はわずかであったという。明治中期の帝国大学は、科学研究を推進するための決定力に欠けていたといわざるを得ない。費用面で科学研究が支援されるようになるのは、学士院における研究費補助制度が整備されていった明治30年代後半以降のことである。
 明治中期における科学の制度化は、帝国大学における科学教育の制度が確立され、学協会の結成による科学者の集団化を始める一方で、科学研究の制度化は始まったばかりともいえる段階にあった。明治中期には、明治前期から続く、科学の急速な移植を必要として先行させた科学者養成制度の一応の完成と、明治後期以降に続く、科学・国家・企業の連繋による科学の体制化と科学研究の制度化への芽生えがあったといえる。

 (以上、2007年1月19日稿)

<参考文献>
①日本科学史学会編『日本科学技術史大系』第1巻通史1、第一法規、1964年。
②廣重徹『科学の社会史』中央公論社、1973年。
③杉山滋郎『日本の近代科学史』朝倉書房、1994年。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1 明治中期における学問の... | トップ | 3 明治中期における人文・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本教育学史」カテゴリの最新記事