本日、4月17日は私の誕生日。
28歳になってしまいました。三十路が近いことをじわじわと実感。
ただ、こんな日もなかなか起きられず。うーん…
こんな調子なので、話題が次々出てきても消化できない。「ゆとり教育」と学習意識の関係とか、教育史学会編『教育史研究の最前線』の出版とか、話題はあるのに。
今日は博論を書こうと思っていたのですが、5月の某学会出席のための旅行日程を考えているとどんどん時間が経ってしまいました。唯一よかったのは、法経学部のどこかの講義の教科書に指定されていた、伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』(有斐閣アルマ、有斐閣、2000年)という本に出会えたこと。政治過程論とは、政治学の一領域で、政治アクター(政治を動かす主体?、政治家・政党・官僚・利益団体・市民など)の相互作用の動態を説明するアプローチのこと、だそうです。政治過程論は、政治的装置や法制度の説明だけではなく、現実の政治において何が起こっているかを説明しなくてはならない、という考えから、とくに利益集団の活動に注目して政治の実態を明らかにする研究とのこと。考え方そのものは、とくに最近出てきた考え方ではなくて、100年以上前からあったものです。ただ、これこそまさに、私が教育史研究においてやりたかったことを、学問的に意味づけてくれたもののように思いました。べつに「政治過程論という学問分野がある!云々」といって、大上段から説明するような大袈裟なものではないですが。
私の教育史認識は、「教育史の主体(教育の歴史を動かす者)は人間であり、その集団である」という認識を基礎としています。もちろん、今現在の教育の動きに対しても同じように認識しています。教育史を実際に動かした者は、森有礼文相・沢柳政太郎などといった一個の人格を持った人物や、文部省・帝国大学・○○小学校・××会などといった現実に存在した組織・集団です。教育史の主体は、国家機関や学校だけではないし、「国家」「民衆」「社会」「教師」「生徒」「地域住民」などの抽象的概念でもありません。そう考え、教育会のことを知ったとき、この団体は、近代日本(とくに戦前・戦中まで)において教育史を動かす主体として具体的に認識できる対象なのではないか、と思ったのです。いろいろと調べるうちに、その思いはますます強固なものとなっていきました。
個々の先行研究には、具体的な歴史過程を明らかにする過程で、すでに多くの集団が歴史的主体として現れています。そのなか、教育会は、巨大な組織規模を持ったにもかかわらず、行政組織とほぼ同一視されてほとんど顧みられていないか、一地域に限られた主体として認識されるにとどまっています。しかし、教育会は行政と意見を異にすることもあったし、日本全国にわたるネットワークを持っていました。教育会は、近似したところはあっても行政組織とは区別すべき主体であり、一地域の教育史の主体ではあっても同時に近代日本教育史の主体だと思うわけです。だから私は、文部省と教育会の関係を「御用団体」として切り捨てずに問い直し、教育会の全国的ネットワークの中央にあった大日本教育会・帝国教育会を研究しているのです。
ちなみに、私が両教育会における教育研究活動に注目しているのは、両教育会が中央教育会となっていく過程で主要事業中の筆頭事業であったために、両教育会の中央教育会化に重要な役割を果たしたのではないかと仮説しているからです。中央教育会化とは、全国の教育会を組織化しその中央組織となることであり、国家の中央で行われる教育の政治過程(中央教育政策決定過程)における主体・利益団体(圧力団体)となることです。ただ単に「我々は中央教育会だ!」と宣言しただけでは、地方教育会も文部省も相手にするわけがありません。両教育会は全国連合教育会を開きましたが、ただ漫然と開くだけで20年以上(明治24~25年・明治30年~大正6年)も続くわけがありません。そうなれば、地方教育会や文部省をひきつける何かが、両教育会にはあったはずだ、と考えるのは当然です。皇族がパトロンだったとか、有名人が名誉会員や組織幹部になっていたとかいうことも大事ですが、何もしていない団体に文部省が諮問するわけありませんし、地方教育会も頼りにしません。そのため、地方教育会や文部省をひきつける何かは、おそらく組織構造だけではなく、恒常的に行っていた活動なのではないかと思うのです。そうなれば、その活動とは何か、なぜその活動が行われたのか、どうしてその活動は維持されたのか、などを考える必要があるでしょう。
以上のようなことを、最近、「大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開」という私の博士論文のテーマについて、考えています。近代日本教育史(とくに政治過程)を動かす重要な主体として、教育会を浮上させる重要な研究だと考えているわけです。国家機関・学校中心または国家対民衆の単純化された対立構造で近代日本教育史を捉える歴史認識では、「今、実際に行われている」歴史を正しく認識することはできないと思います。歴史を正しく認識し、現在を正しく認識するために、近代日本教育史の歴史的主体として集団を出現させることは重要です。そのために重要な研究の一つとして、教育会の歴史研究は位置づくと考えています。
いつのまにか長々と書いてしまいました。誕生日なのに… まぁ、今の私には研究が生活であり生き甲斐なので、そんな私としては記念日らしい話題なのかもしれません。
あぁ~あ、博論構想、これでOK出ないかなぁ…
28歳になってしまいました。三十路が近いことをじわじわと実感。
ただ、こんな日もなかなか起きられず。うーん…
こんな調子なので、話題が次々出てきても消化できない。「ゆとり教育」と学習意識の関係とか、教育史学会編『教育史研究の最前線』の出版とか、話題はあるのに。
今日は博論を書こうと思っていたのですが、5月の某学会出席のための旅行日程を考えているとどんどん時間が経ってしまいました。唯一よかったのは、法経学部のどこかの講義の教科書に指定されていた、伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』(有斐閣アルマ、有斐閣、2000年)という本に出会えたこと。政治過程論とは、政治学の一領域で、政治アクター(政治を動かす主体?、政治家・政党・官僚・利益団体・市民など)の相互作用の動態を説明するアプローチのこと、だそうです。政治過程論は、政治的装置や法制度の説明だけではなく、現実の政治において何が起こっているかを説明しなくてはならない、という考えから、とくに利益集団の活動に注目して政治の実態を明らかにする研究とのこと。考え方そのものは、とくに最近出てきた考え方ではなくて、100年以上前からあったものです。ただ、これこそまさに、私が教育史研究においてやりたかったことを、学問的に意味づけてくれたもののように思いました。べつに「政治過程論という学問分野がある!云々」といって、大上段から説明するような大袈裟なものではないですが。
私の教育史認識は、「教育史の主体(教育の歴史を動かす者)は人間であり、その集団である」という認識を基礎としています。もちろん、今現在の教育の動きに対しても同じように認識しています。教育史を実際に動かした者は、森有礼文相・沢柳政太郎などといった一個の人格を持った人物や、文部省・帝国大学・○○小学校・××会などといった現実に存在した組織・集団です。教育史の主体は、国家機関や学校だけではないし、「国家」「民衆」「社会」「教師」「生徒」「地域住民」などの抽象的概念でもありません。そう考え、教育会のことを知ったとき、この団体は、近代日本(とくに戦前・戦中まで)において教育史を動かす主体として具体的に認識できる対象なのではないか、と思ったのです。いろいろと調べるうちに、その思いはますます強固なものとなっていきました。
個々の先行研究には、具体的な歴史過程を明らかにする過程で、すでに多くの集団が歴史的主体として現れています。そのなか、教育会は、巨大な組織規模を持ったにもかかわらず、行政組織とほぼ同一視されてほとんど顧みられていないか、一地域に限られた主体として認識されるにとどまっています。しかし、教育会は行政と意見を異にすることもあったし、日本全国にわたるネットワークを持っていました。教育会は、近似したところはあっても行政組織とは区別すべき主体であり、一地域の教育史の主体ではあっても同時に近代日本教育史の主体だと思うわけです。だから私は、文部省と教育会の関係を「御用団体」として切り捨てずに問い直し、教育会の全国的ネットワークの中央にあった大日本教育会・帝国教育会を研究しているのです。
ちなみに、私が両教育会における教育研究活動に注目しているのは、両教育会が中央教育会となっていく過程で主要事業中の筆頭事業であったために、両教育会の中央教育会化に重要な役割を果たしたのではないかと仮説しているからです。中央教育会化とは、全国の教育会を組織化しその中央組織となることであり、国家の中央で行われる教育の政治過程(中央教育政策決定過程)における主体・利益団体(圧力団体)となることです。ただ単に「我々は中央教育会だ!」と宣言しただけでは、地方教育会も文部省も相手にするわけがありません。両教育会は全国連合教育会を開きましたが、ただ漫然と開くだけで20年以上(明治24~25年・明治30年~大正6年)も続くわけがありません。そうなれば、地方教育会や文部省をひきつける何かが、両教育会にはあったはずだ、と考えるのは当然です。皇族がパトロンだったとか、有名人が名誉会員や組織幹部になっていたとかいうことも大事ですが、何もしていない団体に文部省が諮問するわけありませんし、地方教育会も頼りにしません。そのため、地方教育会や文部省をひきつける何かは、おそらく組織構造だけではなく、恒常的に行っていた活動なのではないかと思うのです。そうなれば、その活動とは何か、なぜその活動が行われたのか、どうしてその活動は維持されたのか、などを考える必要があるでしょう。
以上のようなことを、最近、「大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開」という私の博士論文のテーマについて、考えています。近代日本教育史(とくに政治過程)を動かす重要な主体として、教育会を浮上させる重要な研究だと考えているわけです。国家機関・学校中心または国家対民衆の単純化された対立構造で近代日本教育史を捉える歴史認識では、「今、実際に行われている」歴史を正しく認識することはできないと思います。歴史を正しく認識し、現在を正しく認識するために、近代日本教育史の歴史的主体として集団を出現させることは重要です。そのために重要な研究の一つとして、教育会の歴史研究は位置づくと考えています。
いつのまにか長々と書いてしまいました。誕生日なのに… まぁ、今の私には研究が生活であり生き甲斐なので、そんな私としては記念日らしい話題なのかもしれません。
あぁ~あ、博論構想、これでOK出ないかなぁ…
>わたくしだったら、史料を通覧することから始めます。
確かに、史料をまず読むことも大事ですね。先行研究を読んでからだと、引きずられてしまって、自分なりの問題意識や視点を見出すことが難しくなることもありますし。私の教育会研究も、史料通覧から始まりました。ただ、先行研究調査になかなか本格的に取り組まなかったので、何が新しい知見なのかわかるまで相当に時間がかかりました。
また、私たちのような知識・見識(専門的内容だけに限らない)が不足する学生からすると、ただ史料を読んでも切り口がわからないという問題が出てきます。初学者にとって、史料通覧によってまったく新しい自分なりの問題・視点を見出すのが先か、先行研究調査によって学問の常道を確認するのが先か。難しいところです。
結局、史料通覧と先行研究調査は並行して行う、ということに落ち着くのかもしれません。
わたくしだったら、史料を通覧することから始めます。まず、府県単位の農会の『年史』を探して閲覧し、つぎに、会報が残っている近隣県を探して通読してみます。
また、国会図書館に出掛ける際に、あるいは、近くで持っている図書館があれば、『読売新聞』のCD-ROM版で、明治、大正、昭和のそれぞれの時代を「農会」で検索し、だいたいどういう展開になるのかを概観してみます。
教育会と農会の比較に関する視点は、かつて渡部宗助氏が『府県教育会に関する歴史的研究―資料と解説』(平成2年度文部省科学研究費一般研究C研究成果報告書、1991年)で指摘したことがあります。ただ、そのような研究は、その後進んでいないのではないでしょうか。その理由は、渡部氏が指摘した後、教育会に関する研究があまり進まなかったからだと思います。
ただ、この数年で、岐阜女子大学の梶山雅史氏(昨年度まで東北大学教授)を中心に教育会研究は格段に進みつつあります。私もその末席に加えていただき、がんばらせていただいてます。農会との比較を研究方法として本格的に取り組んでいる教育会研究者はまだいないようですが、大変興味深いテーマが現れるのではないかと私も思います。
ともかくまずは、農会研究がどこまで進んでいるか勉強しないといけませんね。またいつかお時間のあるときに、情報提供いただけると幸いです。
ついでにこちらにもコメントしておきます。
大日本教育会/帝国教育会は、系統組織(全国、府県、郡、市町村という系統の意味)を組織してくのですから、同種の他分野の団体と比較してみると面白いかも知れません。
すぐ思いつくのは、大日本農会です。「系統農会」という表現も、同時代にあったはずです。
大日本水産会は、内陸地方には関係しませんので、系統組織をつくる実例としては少し違います。
*
日本赤十字社、愛国婦人会、大日本武徳会、日本海員掖済会、帝国海事協会、帝国水難救済会などの公益団体はまた別種で、お金集めのための募金組織の面と、実際の仕事をする実行組織の面の二重性として捉える必要があります。
教育会や農会は、募金組織と実行組織に分かれず、それ自体が活動するということで同じ種類かと考えます。