歴史は史料に基づく論争を容認する。歴史は我々のアイテンデンティに関わる物語であり、真実を追究する学問である。歴史は他人事ではないからこそ、論争も激しくなる。
歴史は、完全のように見える我々のアイテンデンティに関わる物語を、我々がいつでも誰でも語り直すことのできるものにするために、議論を容認しなければならない。歴史をめぐる議論は、歴史研究者に事実の探究を促し続ける。歴史をめぐる議論・論争と歴史研究は、「歴史の絶えざる民主化」(リン・ハント『なぜ歴史を学ぶか』岩波書店、2019年)を促す。歴史の議論や研究は、歴史をみんなのもの(民主的なもの)にするために必要である。
歴史を国民・市民のためのものにするには、議論・論争を容認しなければならない。フェイクニュースや歴史の政治化が止まない現代において、このことは益々困難になっていく。こんな現代だからこそ重要なことは、議論の作法を国民・市民が身につけておくことである。例えば、議論の相手を尊重する姿勢をはじめ、感情を吐露するのではなく史料に基づいて根拠ある解釈を示す力、論点を論理的に理解して適切に反応する力などを、我々は身につけなければならない。人々にこれらの資質能力を育成することこそ、初等・中等教育ならびに高等教育における歴史教育の使命であろう。
上と同じ事を、教育史についても言えるはずだ。特に近代教育史は、教育が国民形成の仕組みの一つとして働く歴史であり、国民にとって他人事ではない。地域や一国の教育史も、そこに住む市民にとって他人事ではない。教員養成の文脈では、自らの職場・システム・職能の歴史であり、教員にとっても他人事ではないのだ。しかし、現在、国民・教員の間で教育史の論争が起こっているかというと、そうとはとても言えない。教育史は、我々の人生において、それはそういうものとして、議論を生むことなく過ぎ去っていく。
これからの我々には、教育史を自分事にする教育機会が必要だ。それから、議論の論点を探り、整理することも必要だ。おそらく、国民一般にとっての論点と教員にとっての論点とは、あるいは重なり、あるいは異なる。初等・中等教育、高等(教養)教育、教員養成、現職教育、それぞれの違いを意識しながら、論点を整理していくことが必要である。
歴史は、完全のように見える我々のアイテンデンティに関わる物語を、我々がいつでも誰でも語り直すことのできるものにするために、議論を容認しなければならない。歴史をめぐる議論は、歴史研究者に事実の探究を促し続ける。歴史をめぐる議論・論争と歴史研究は、「歴史の絶えざる民主化」(リン・ハント『なぜ歴史を学ぶか』岩波書店、2019年)を促す。歴史の議論や研究は、歴史をみんなのもの(民主的なもの)にするために必要である。
歴史を国民・市民のためのものにするには、議論・論争を容認しなければならない。フェイクニュースや歴史の政治化が止まない現代において、このことは益々困難になっていく。こんな現代だからこそ重要なことは、議論の作法を国民・市民が身につけておくことである。例えば、議論の相手を尊重する姿勢をはじめ、感情を吐露するのではなく史料に基づいて根拠ある解釈を示す力、論点を論理的に理解して適切に反応する力などを、我々は身につけなければならない。人々にこれらの資質能力を育成することこそ、初等・中等教育ならびに高等教育における歴史教育の使命であろう。
上と同じ事を、教育史についても言えるはずだ。特に近代教育史は、教育が国民形成の仕組みの一つとして働く歴史であり、国民にとって他人事ではない。地域や一国の教育史も、そこに住む市民にとって他人事ではない。教員養成の文脈では、自らの職場・システム・職能の歴史であり、教員にとっても他人事ではないのだ。しかし、現在、国民・教員の間で教育史の論争が起こっているかというと、そうとはとても言えない。教育史は、我々の人生において、それはそういうものとして、議論を生むことなく過ぎ去っていく。
これからの我々には、教育史を自分事にする教育機会が必要だ。それから、議論の論点を探り、整理することも必要だ。おそらく、国民一般にとっての論点と教員にとっての論点とは、あるいは重なり、あるいは異なる。初等・中等教育、高等(教養)教育、教員養成、現職教育、それぞれの違いを意識しながら、論点を整理していくことが必要である。
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