さて、お勉強の記事。前回の続きにあたります。若干論理が錯雑としていますが、今回は、「学習」という文字の語源から、学習とは何か考えて見ましょう。また、最終的には、前回の語源から考えた「教育」の意味と絡ませ、学習とは何かという観点から教育とは何か考えてみたいと思います。
「學(学)」という漢字と「まなぶ(学)」という日本語、および「習」という漢字と「ならう(習)」という日本語は、そもそもどんな意味を持っていたのでしょうか。
「學」の漢字は、記事の図のように、「コウ(例の×が2つ上下に重なった字)」が「キク」という字にはさまれて「ヤネ(ウ冠のような字)」の上にのっている部分と、「子」の部分から成る漢字です。「コウ」は交差・交流などの意を表し、「キク」は両方(2人?)の手、「ヤネ」は屋根のある家を表します。子(弟子)が師に向き合って交流し、知識などを伝授される様を表す漢字です。師と弟子との間における知識等の伝授は、まずは師による行為としてあらわれます。続いて、「コウ」の字があることからわかるように、弟子による授けられた知識等を受け取る行為も意味しています。すなわち、「學」の字は、師弟が向き合い、師が知識等を授け、弟子がそれを受取ることを意味しているのです。
「まなぶ」という日本語は、「マネブ」「マ・ナラフ」という語が転じたものと言われています。「マネブ」は「真似ぶ」「真(誠)擬ぶ」であり、マコトたる真理と誠実とについて、正しい手本をまねることです。「マ・ナラフ」は「真(誠)習ふ」であり、真理と誠実とについて習うことです。「まなぶ」という日本語には、真理(すなわち深い知識)と誠実(すなわち道徳)について、正しい手本からまね、習うことという意味があるのです。
では、「習」という漢字はどうでしょう。「習」という漢字は、「羽」と「白」の2つの部分から成っています。「羽」は、鳥の二枚のはねを並べた象形文字。「白」は、この場合、「曰」の変形文字で、発語に限らず、さまざまな行為が行われる意味を示す字です(「自」の変形で鼻を表すという説もあります)。「習」の漢字は、鳥が二枚の羽を何度も何度も羽ばたかせている様を示した文字です。習得しなければならない行為は、習得しようとした時点ではまだ十分に身に着けていない行為です。そうなると「習」の字は、もっと言えば、巣立ちを迎えた雛鳥やうまく飛べない若鳥が、繰り返し羽根を羽ばたかせて、よりよい飛び方を身に着けようとしている様を示しているともいえましょう。「習」という漢字は、何度も繰り返してある行為などを身に着けようとする行為を意味しています。
「ならう」という日本語は、「ナレアフ」「ナラシフ」「ナラブ」という語が転じた語といわれています。「ナレアフ」は「馴合う」であり、「ナラシフ」は「馴歴」であり、何らかのものごとやルールに合った行動をするようになることです。「ナラブ」は「並ぶ」であり、高度な知識・態度・能力などを身に着けている者と、同等程度のものを身に着けている状態のことです。「ならう」という日本語には、手本とすべき人物などを見習って、高度な知識・態度・能力を身につけるという意味があるのです。
以上、語源から「学習」の意味を探ってきました。「学習」とは、師によって伝授された高度な知識・態度・能力などについて、学習者が何度も何度も繰り返しまねをして、ついに同程度のものを身に着けるという、一連の主体的行為なのです。ここには、師から施された教育的行為がなくては、「学習」が成り立たないことがわかります。
前回、教育が成立するには、被教育者の学ぶ姿勢が必要だとしました。つまり、教育と学習とは、別々に成立しうるものではなく、不即不離の関係において成立すると言えるでしょう。教育者による教育は被教育者の学習あってはじめて成立し、学習者による学習は教育者による教育あってはじめて成立するのです。
ということで、教師が学生をほったらかしにしていては、教育は成り立たないのではないかと思います。教師には、学ぶべきもの(知識・態度・能力)に学生を近づけていく姿勢が必要でしょうね。そして、学生には、教師が教えることを素直に受け止める姿勢が必要でしょうね。
<参考文献>
藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光『漢字源』学習研究社、2006年。
江原武一・山崎高哉編『基礎教育学』放送大学教育振興会、2007年。
(以上は、白石崇人『幼児教育とは何か』幼児教育の理論とその応用1、社会評論社、2013年に所収しております)
あれは思い出に残る転倒でした(笑)。