久しぶりに邦楽の話題。ただの自分の趣味に関するメモです(笑)。
邦楽とは「我が邦(国)の音楽」のこと。J-popも邦楽と言いますが、ここでは和楽器(箏、三味線、尺八、笛、琵琶、和太鼓など)を使った音楽を取り扱おうと思います。和楽器を使った音楽は、「純邦楽」と呼ばれることが多いです。私は、大学時代から純邦楽にのめり込み、時間があれば曲を聴き、いいなと思ったものを集める日々を送ってきました(最近の新しい作品はほとんど聴いてませんが)。純邦楽マニアとか純邦楽オタクといってもいいと思います(笑)。最近、自分が学生時代から集めてきた純邦楽のコレクション(500曲くらい)を整理していて、ふと思ったことがありましたので、メモを書き綴ってみます。なお、私は、現代音楽的なものよりもメロディのはっきりしたものを好むので、ただの作品というよりは「通俗的」作品の特徴と言った方がいいかもしれません。以下、存命の方を含め、名前は敬称略です。
私の集めた作品は、作曲年が1960年代から70年代にかけて集中していました。長澤勝俊、三木稔、杵屋正邦、牧野由多可、唯是震一、船川利夫、山本邦山、野村正峰、沢井忠夫、宮田耕八朗、伊福部昭…。今でも邦楽愛好家の間では人気のある作曲家たちですが、彼らの代表作の作曲年がこの時期に集中しています。1950年代に作曲または演奏活動を始めた人々が多いようです。彼らがこの時期に活発に作曲していたのは、多くの演奏家がいたこともあるようです。とくに、邦楽4人の会(1957結成、委嘱活動は59年から、北原篁山・後藤すみ子・矢崎明子・菊地悌子)、日本音楽集団(1964結成)や、尺八三本会(1964結成、青木鈴慕・山本邦山・横山勝也)など。そして、「通俗的」作品の最たる担い手としては、邦楽サークルや大学邦楽部が活発化したことも大きいのではないでしょうか。なお、この時期に活躍した作曲家は、80~90年代にかけても名曲を作り続けていきました。
この時期は、高度経済成長期の末期であり、高等教育の拡大期です。この時期には、経済成長の担い手として大学生が急増しました。「通俗的」な邦楽の隆盛には、邦楽に親しむ人々が増えることが不可欠ですが、この時期に増えた大学生がその重要な部分を担ったことは間違いありません。いわゆる「学生邦楽」の役割は大きかったと思われます。また、邦楽が盛んになり、かつ作曲が集中するということは、この時期に、国内伝統文化に対して興味が拡大するとともに、伝統の継承にとどまらずに、さらに創作へと向かわせる積極的な雰囲気があったということでしょうか。それは何だったのでしょう。また、邦楽についてはナショナリズムと無関係ではいられないと思いますが、その意味ではどうなのでしょうか。わからないことだらけです。
ちなみに、この時期に集中している名曲は次の通り。長澤勝俊なら、「子供のための組曲」(1964)、「三味線協奏曲」(1967)、「萌春」(1971)など。三木稔なら、箏譚詩集(1966~)、「ダンス・コンセルタントⅠ」(1973)、「巨火(ほて)」(1976)など。杵屋正邦なら、「呼応」(1964)、「風動」(1965)、「去来」(1967)、「波」(1967)、「明鏡」(1975)など。牧野由多可なら、「茉莉花」(1964)、「太棹協奏曲」(1966・1970)、「篝火」(1966)など。唯是震一は1950年代に代表作があるが(神仙調舞曲など)、「合奏組曲"石狩川"」や「火の島」(1966)など。船川利夫なら、「組曲"出雲路"」(1960)、「複協奏曲」(1963)など。挙げていけばきりがないのでこのくらいで。
なお、1990年代にも集中しています。少しずつ新しい作曲家が目立ってきた時代ではないかな、と思います。とくに吉崎克彦と水野利彦は、新曲を出せば楽譜やカセット・CDが売れるといった風でした。集中しているのは、この2人の作曲家の活躍が大きいのかもしれません。他にも多くの作曲家が次々に作品を発表しています。私が純邦楽の洗礼を受けたのは、この時期の末期でした。また、逆に60年代以前を振り返ってみると、戦前・戦中にも集中しています。宮城道雄や中能島欣一などの世代です。これらの時期のことを考えるのも面白そうです。
邦楽の作曲年にも、考えることのできる問題がこんなにあるのだなぁ。
昔の記事ですが読んでいただいて恐縮です。
最近は忙しくて邦楽を聴きに行くことができていませんが、いずれはまた和楽器の音を味わいにいきたいです。