すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、先日、とても嬉しいことがありました。
拙稿「明治20年代後半における大日本教育会研究組合の成立」が、日本教育学会編『教育学研究』第75巻第3号(2008年9月号)に掲載されたのです。これで、時々このブログで「某学会へ投稿」と報じていた分は、すべて結果が出たことになります。
このブログは教育学者以外の方も見ていますので、少し解説します。日本教育学会とは、3千人近い会員によって構成されている学会で、日本で最も権威ある教育学会です。その機関誌『教育学研究』に研究論文が掲載されたということは、自分の教育学研究が意義あるものだと評価してもらったということです。これはとても喜ばしいことです。また、今後の教育・研究活動によって、日本の教育学の権威をおとしめず、その質を高め、次代へと引き継いでいく重い責任を背負うことでもあります。そのため、今の私の気持ちは、嬉しいという感情以上に、気が引き締まる思いでいっぱいだ、というのが正直なところです。
ここに到達するまでは、本当に、長い道のりでした。
2006年8月、日本教育学会『教育学研究』へ初投稿。これが最初の挑戦であり、この後続く長い戦いの幕開けでした。同年11月、掲載不可の結果が返ってきました。当時のログを見ると、相当に落ち込んでいることがわかります(苦笑)。めげずに、2007年4月、再投稿しました。7月、ついに再投稿再審査の結果が。9月に再々投稿すると、11月に修正指示が送付されてきました。その後、翌2008年1月から8月まで、修正←→修正指示の往復を、4度繰り返しました。2008年8月、ようやく最終原稿の提出の運びとなり、初稿・二校・三校を経て、ついに掲載に至ったというわけです。再投稿再審査の判定から約1年3ヶ月、最初に投稿してからだと2年4ヶ月かかりました。
編集委員会・査読者から言い渡された修正指示は、いずれも厳しい内容で、そう簡単に修正できる生やさしいものではありませんでした。その作業は、長期にわたる修正作業は精神上かなり過酷なものでした。しかも、当時の日本東洋教育史研究室には指導者となる教員がなく、同志である日本教育史専攻の院生もいませんでした。同時に進行した博士課程後期4年目・5年目の在学延長申請のために、かかった精神的負担も強烈でした。様々な機会にお会いする先生方、専門を異にする友人たち、応援してくれた両親に、本当に本当に支えてもらいました。皆さんがいなければ、最後の最終原稿提出どころか、修正指示への対応すらできなかったと思います。
また、日本教育学会編集委員会の先生方と、査読者の先生には感謝してもしきれません。私の未熟さのため、長い間、お手数をおかけしました。先生方が粘り強く対応してくださらなかったら、この結果はありませんでした。なにより、厳格で精細な査読意見を毎回まとめてくださった査読者の先生には、本当に御世話になりました。
皆さん、本当に、本当に、ありがとうございました。
今、切に思うのは、研究は一人でやるものではない、ということです。
研究とは、協同作業です。
拙稿「明治20年代後半における大日本教育会研究組合の成立」が、日本教育学会編『教育学研究』第75巻第3号(2008年9月号)に掲載されたのです。これで、時々このブログで「某学会へ投稿」と報じていた分は、すべて結果が出たことになります。
このブログは教育学者以外の方も見ていますので、少し解説します。日本教育学会とは、3千人近い会員によって構成されている学会で、日本で最も権威ある教育学会です。その機関誌『教育学研究』に研究論文が掲載されたということは、自分の教育学研究が意義あるものだと評価してもらったということです。これはとても喜ばしいことです。また、今後の教育・研究活動によって、日本の教育学の権威をおとしめず、その質を高め、次代へと引き継いでいく重い責任を背負うことでもあります。そのため、今の私の気持ちは、嬉しいという感情以上に、気が引き締まる思いでいっぱいだ、というのが正直なところです。
ここに到達するまでは、本当に、長い道のりでした。
2006年8月、日本教育学会『教育学研究』へ初投稿。これが最初の挑戦であり、この後続く長い戦いの幕開けでした。同年11月、掲載不可の結果が返ってきました。当時のログを見ると、相当に落ち込んでいることがわかります(苦笑)。めげずに、2007年4月、再投稿しました。7月、ついに再投稿再審査の結果が。9月に再々投稿すると、11月に修正指示が送付されてきました。その後、翌2008年1月から8月まで、修正←→修正指示の往復を、4度繰り返しました。2008年8月、ようやく最終原稿の提出の運びとなり、初稿・二校・三校を経て、ついに掲載に至ったというわけです。再投稿再審査の判定から約1年3ヶ月、最初に投稿してからだと2年4ヶ月かかりました。
編集委員会・査読者から言い渡された修正指示は、いずれも厳しい内容で、そう簡単に修正できる生やさしいものではありませんでした。その作業は、長期にわたる修正作業は精神上かなり過酷なものでした。しかも、当時の日本東洋教育史研究室には指導者となる教員がなく、同志である日本教育史専攻の院生もいませんでした。同時に進行した博士課程後期4年目・5年目の在学延長申請のために、かかった精神的負担も強烈でした。様々な機会にお会いする先生方、専門を異にする友人たち、応援してくれた両親に、本当に本当に支えてもらいました。皆さんがいなければ、最後の最終原稿提出どころか、修正指示への対応すらできなかったと思います。
また、日本教育学会編集委員会の先生方と、査読者の先生には感謝してもしきれません。私の未熟さのため、長い間、お手数をおかけしました。先生方が粘り強く対応してくださらなかったら、この結果はありませんでした。なにより、厳格で精細な査読意見を毎回まとめてくださった査読者の先生には、本当に御世話になりました。
皆さん、本当に、本当に、ありがとうございました。
今、切に思うのは、研究は一人でやるものではない、ということです。
研究とは、協同作業です。
いつもブログを読ませていただいております。私も博士論文の完成を目指しているところです。日本教育学会員ですので、もうすぐ玉稿を拝読できると思います。
邦楽の話題も楽しみにしております。
わざわざのお祝いありがとうございました!
記事には書くのを忘れましたが、何とかここまで来られたのは、このブログとその読者の皆さんがあったからでもあります。読者の皆さんに見守っていただいているという安心感(同時に緊張感)があったからこそ、高ぶるまたは落ち込む気持ちを適度に整理・調節できたのだと思います。
>だいふくさん
邦楽の話題…最近はほとんどしていませんね(苦笑)。また機会を見つけて、出していきます。