教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教授定型の普及ルート=教育会

2006年01月26日 19時39分29秒 | 教育研究メモ
 今日は、またも遅起き。寝不足な感じが残っており、寝覚めは悪いっス。
 登校後、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年・旧版1966年)の第二部第二章を「『ヘルバルト主義』教授法の普及と浸透」第一節「普及の形態」を読みました。この節は、明治二十年代から明治三十年代における教授法の定型化過程と定型の普及ルートを検討したものです。構成は以下の通り。
 (一)教育ジャーナリズムにおける普及
 (二)制度的ルートによる普及
   (A)師範教育の内容
   (B)師範学校付属小学校の役割
   (C)教員検定試験
 (三)講習会その他による普及
すなわち、教授法の定型の形成と普及ルートの形成は、中央の制度やジャーナリズムにおいて相互に関連しながら並行的に進行し、明治三十年代前半においてその基本的形態を完成させ、明治三十年代後半において講習会や学校での授業研究会を通して拡大していったといいます。また、明治三十年代における講習会による普及ルートは、教育会が発展したものとされます。明治二十年代後半は、教育会が行政公認の教授法を普及させる「パイプ」となり、教授定型の普及・浸透の最大の役割を果たしたとされています。これによると、最近の教育会研究の傾向である教育会=教育情報メディアと捉える考え方に通じる教育会観が見られます。
 さらに、教師の教育研究の熱意・エネルギーは、教育会という「制度化されたアパラート」(誰か「アパラート」の意味分かる人います?調べたんですがわからなくて…)に吸収され、解消させられたとされています。ここには、私のテーマとしている「教育会における教育研究活動」に通じる示唆があるように思います。教育会が教員の熱意・エネルギーを吸収した、というには、本著にはその根拠が足りないなあと思いますが、結論が同じなら私の研究の意味は薄れてしまいます。根拠がないだけで批判することは薄っぺらいわけで(実証してその通りだったら、その批判そのものが意味無くなるので)。さて、私の研究はこの結論を越えることができるのでしょうか? 請うご期待。
 今日はさらに「大日本教育会・帝国教育会の群像」執筆の続き。公開はもうちょっと後になりそう。

 ところで、ふとYAHOOニュースを見ていると、本日26日の構造改革特区推進本部で公立小学校で英語を正式科目とすることを可とすることが決まったそうな。小学生を英語に親しませるのは結構だが、誰に教えさせるつもりなのだろう? 小学校教員は英語を教える訓練はされていないし、外部から講師を呼ぶにしても正式科目を非常勤講師に教えさせるのは、それでいいのかな? 小学校教員なんて誰でもできるっていう短絡的な思想が裏にないかな?
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2 コメント

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Unknown (生禿)
2006-01-27 00:11:41
後輩が困った時こそ先輩の出番です。今晩も酔っているため微妙なコメントになりますが。ぼーっとしながら調べてみました。簡単に言えば機関ってことかな~。多分ドイツ語です。手元に辞書がないので調べられませんので、気が向いたら調べてみて下さい。ググッてみたらウェーバーが「装置」という意味で使っているような検索結果が出ましたが、文脈的には機関、若しくは組織ということになると思われます。まー白石氏が普段使っているように、教育会が教員の組織的研究活動の場であったというのと意味的には変わらないと思われます。醒めた状態だともちっとちゃんと書けたと思うんだけどフラフラなので落ちます。オヤスミ・・・
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ドイツ語っすか (白石)
2006-01-28 08:57:18
 生禿さん、ありがとうございます! 十分理解できますよ。

 道理で辞書繰ってもわからないわけですね。
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