本日は、8時ごろ目が覚めました。体調は微妙なところでしたが、何日もこれじゃあいかんと飛び起きることができました。
登校後まず、資料収集。例の役員分析の資料です。役員の名前は会員名簿があれば簡単にわかるのですが、いかんせん利用できる状態にある大日本教育会・帝国教育会会員名簿は飛び飛びなのです。復刻版に所載されている名簿は、明治17年、明治20年~24年、明治26~28年、明治38年、大正元年、大正4年、昭和8年のみです。明治三十年代前半に一度発行されたことはわかっているのですが、私も見たことがありません。資料はこんな状態なので、役員名を調べるために、毎年一月に掲載された正月挨拶の広告を使っています。ただ、記載されている役員名が不充分であったり、まったく乗っていなかったりする年のものもあるので、そういうのは地道に毎号に掲載された会報を頼りに調査していくしかありません。とりあえず、正月挨拶の広告を収集しておきました。写真は大正11年1月号の正月挨拶の広告。隣の頁は三越呉服店の広告です。たぶん見えないと思いますが、主事の吉田熊次(東京帝国大学教育学教授)の名前が「熊治」になっています。雑誌記事は誤植が多いのでご注意を。
資料収集後、東広島運動公園体育館へ行って運動。その後、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)の原稿修正。昼飯を食べて、久しぶりに読書勉強にとりかかる。なかなか集中できなかった上に、ちょこちょこ博士論文の目的を書いていたので、あまり進みませんでしたが。
今日はまず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』の第二部「『ヘルバルト主義』教授理論の導入・変容・定着」第一章「『ヘルバルト主義』教授法の導入と展開」第四節「『ヘルバルト主義』の変容」と第五節「『ヘルバルト主義』の定着」を読みました。前の続きですが、だいぶ経っているのでかなり前の内容を忘れてしまって、なかなか入り込めませんでした。第四節「『ヘルバルト主義』の変容」では、明治三十年代初期(第三次小学校令公布前)の文部省検定済みの教授法書が分析されています。この時期に、形式的段階(いわゆる五段階教授法:予備→提示→比較→総括→応用とか)の全教科にわたる機械的適用に対する批判が、教科・教材の性格を根拠として提示されました。要は、教授段階はどんな教科・教材にでも適用できるものではない、という批判です(例えば歴史は適用できない、理科は最も適用できるとされます)。ただ、その結果作り上げられた教授法には、四つの問題がありました。第一に、段階の整理に止まっていること。第二に、肝心の教材そのものは、かつての開発主義教授法と同様に、「教則」や「教授細目」といった所与のものに規定されていたこと。第三に、段階説の基礎にある「認識」(人間の解放を目指す)といった価値を含んだ概念が、形式的な心理的・論理的説明に止まって価値が抜け落ちていること。第四に、内容と形式(認識)との統一ではなく、所与の内容への段階の適用という性格をもったこと。明治三十年代初期の教授法理論は、そもそもヘルバルトや近代教授理論史が求め続けてきた、人間の解放を目指す方法原理と教育内容とを関連づけることからは、まったく別のところに変質してしまっていたというわけです。第五節「『ヘルバルト主義』の定着」では、明治33年以後の教授法書もまた、上記のような問題を抱えたまま出版・検定合格を経ていたことが明らかにされています。使えればいいや、ということで、我々はよくその精神を抜き去って方法・技術のみを使おうとしますが、そういうやり方はこれと同じ問題を抱えていることを知らなければなりません。
次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』の第三章「『文検』と教育学者」第三節「吉田熊次とその役割」を読みました。吉田熊次という人は、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(「文検」)の委員を明治41(1908)年から昭和17(1942)年まで務めた教育学者です。テーマとしては、吉田の学説・研究関心を探りながら文検に果たした役割を明らかにしよう、という研究のはずですが、どちらかといえば、文検における役割を明らかにしながら吉田の学説・研究関心を探ろうという感じになっているように思います。執筆者の榑松(くれまつ)かほるさん(桜美林大学教授)が、教育学説史研究者なのでかもしれません。吉田熊次は有名な戦前の教育学者で、帝国教育会でもキーパーソンでした。どういう学者だったのか、つまりその学説はどのような特徴があったのか、という問題は個人的に非常に興味があったので、面白く読ませてもらいました。吉田の学説のポイントは、「国家を構成する国民の道徳的陶冶の問題」だそうです。時期によって、学校教育に限定されたり、社会教育に延長されたりしたそうです。
さて、明日から二日間の土日は、センター試験のため、大学構内は進入禁止。資料と本とパソコンを持ち帰りましょう。
登校後まず、資料収集。例の役員分析の資料です。役員の名前は会員名簿があれば簡単にわかるのですが、いかんせん利用できる状態にある大日本教育会・帝国教育会会員名簿は飛び飛びなのです。復刻版に所載されている名簿は、明治17年、明治20年~24年、明治26~28年、明治38年、大正元年、大正4年、昭和8年のみです。明治三十年代前半に一度発行されたことはわかっているのですが、私も見たことがありません。資料はこんな状態なので、役員名を調べるために、毎年一月に掲載された正月挨拶の広告を使っています。ただ、記載されている役員名が不充分であったり、まったく乗っていなかったりする年のものもあるので、そういうのは地道に毎号に掲載された会報を頼りに調査していくしかありません。とりあえず、正月挨拶の広告を収集しておきました。写真は大正11年1月号の正月挨拶の広告。隣の頁は三越呉服店の広告です。たぶん見えないと思いますが、主事の吉田熊次(東京帝国大学教育学教授)の名前が「熊治」になっています。雑誌記事は誤植が多いのでご注意を。
資料収集後、東広島運動公園体育館へ行って運動。その後、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)の原稿修正。昼飯を食べて、久しぶりに読書勉強にとりかかる。なかなか集中できなかった上に、ちょこちょこ博士論文の目的を書いていたので、あまり進みませんでしたが。
今日はまず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』の第二部「『ヘルバルト主義』教授理論の導入・変容・定着」第一章「『ヘルバルト主義』教授法の導入と展開」第四節「『ヘルバルト主義』の変容」と第五節「『ヘルバルト主義』の定着」を読みました。前の続きですが、だいぶ経っているのでかなり前の内容を忘れてしまって、なかなか入り込めませんでした。第四節「『ヘルバルト主義』の変容」では、明治三十年代初期(第三次小学校令公布前)の文部省検定済みの教授法書が分析されています。この時期に、形式的段階(いわゆる五段階教授法:予備→提示→比較→総括→応用とか)の全教科にわたる機械的適用に対する批判が、教科・教材の性格を根拠として提示されました。要は、教授段階はどんな教科・教材にでも適用できるものではない、という批判です(例えば歴史は適用できない、理科は最も適用できるとされます)。ただ、その結果作り上げられた教授法には、四つの問題がありました。第一に、段階の整理に止まっていること。第二に、肝心の教材そのものは、かつての開発主義教授法と同様に、「教則」や「教授細目」といった所与のものに規定されていたこと。第三に、段階説の基礎にある「認識」(人間の解放を目指す)といった価値を含んだ概念が、形式的な心理的・論理的説明に止まって価値が抜け落ちていること。第四に、内容と形式(認識)との統一ではなく、所与の内容への段階の適用という性格をもったこと。明治三十年代初期の教授法理論は、そもそもヘルバルトや近代教授理論史が求め続けてきた、人間の解放を目指す方法原理と教育内容とを関連づけることからは、まったく別のところに変質してしまっていたというわけです。第五節「『ヘルバルト主義』の定着」では、明治33年以後の教授法書もまた、上記のような問題を抱えたまま出版・検定合格を経ていたことが明らかにされています。使えればいいや、ということで、我々はよくその精神を抜き去って方法・技術のみを使おうとしますが、そういうやり方はこれと同じ問題を抱えていることを知らなければなりません。
次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』の第三章「『文検』と教育学者」第三節「吉田熊次とその役割」を読みました。吉田熊次という人は、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(「文検」)の委員を明治41(1908)年から昭和17(1942)年まで務めた教育学者です。テーマとしては、吉田の学説・研究関心を探りながら文検に果たした役割を明らかにしよう、という研究のはずですが、どちらかといえば、文検における役割を明らかにしながら吉田の学説・研究関心を探ろうという感じになっているように思います。執筆者の榑松(くれまつ)かほるさん(桜美林大学教授)が、教育学説史研究者なのでかもしれません。吉田熊次は有名な戦前の教育学者で、帝国教育会でもキーパーソンでした。どういう学者だったのか、つまりその学説はどのような特徴があったのか、という問題は個人的に非常に興味があったので、面白く読ませてもらいました。吉田の学説のポイントは、「国家を構成する国民の道徳的陶冶の問題」だそうです。時期によって、学校教育に限定されたり、社会教育に延長されたりしたそうです。
さて、明日から二日間の土日は、センター試験のため、大学構内は進入禁止。資料と本とパソコンを持ち帰りましょう。
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