教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

道徳教育はなぜ必要か

2009年04月15日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 〈学生たちへ: この記事をコピペしてレポートの字数をかせぐことを禁ず。 2010.8.3追記〉

 たまには学問っぽいことを語りましょう。今日は道徳教育とはなぜ必要か、考えてみましょうか。

 道徳とは、要するに「人間らしいよい生き方」です。「道」とは、社会にける行為の規範のことです。「徳」とは、規範に合致した行為であり、その習慣化を支える性格や能力のことです。自分が実践するわけではないけれど、現として存在する規範は、ただの「道」です(剣道、柔道、茶道、華道、人道…)。ただ知っているだけの規範(ルール)は、「道」ではあっても、「道徳」ではありません。「徳」とセットになっている規範は、実際に行為されなければなりません。行為することによって初めて、「道徳」は成り立ちます。
 道徳は、人間らしい生き方です。人間らしくあるためには、外から押し付けられるものであってはなりません。自主的に選び取られなければなりません。また、人間らしくあるためには、その道徳をひとまず受け入れていなければなりません。その道徳について、批判と反省により、もっともらしい自分の結論を導いていなければなりません。
 たとえば、人権尊重という規範について考えて見ましょう。この規範は、日本国憲法にも規定されている公的な規範です。社会科や公民科で、日本の児童・生徒は重要語として学びます。しかし、しばしば子どもは、クラスメートをいじめるとまでいかなくとも、悪口を言ったり、時には教師や有名人について暴言を吐くなどします。この子どもたちの中では、人権尊重は道徳にはなっていません。これを道徳にするには、まずは人権への理解を知的に、直感的に深める必要があるでしょう。哲学的・歴史的・社会的そして生活的に「人権は尊重すべき」であることを自分の頭で、からだで、心で理解したとき、初めて子どもたちは人権尊重を道徳として選び取るはずです。そうでなければ、本当の意味で、人権尊重が行為となることはないでしょう。ここに道徳教育の出る幕があります。
 別の視点から考えて見ましょう。そもそも、われわれは、ヒトという生物です。生物としてのヒトが幸福であるには、生理的な欲求が満足される必要があります。睡眠、食事、排泄など、生理的欲求が満たされたとき、われわれは生物として幸福を感じます。しかし、われわれは生理的欲求の満足だけで幸福でいられるでしょうか。われわれは、人格の成長、知識の増大、自己実現、計画の達成、他人との意思疎通などを実現させたいという、精神的な欲求をもっています。この精神的欲求が満足されたとき、われわれは幸福を感じます。精神的欲求の満足によって幸福を感じる存在は、ただの生物としてのヒトではないでしょう。そのような存在を人間と呼びましょう。
 精神的欲求を満足させるには、普通、生理的欲求を自ら一時制御しなければならないことがほとんどの場合でしょう。たとえば、講義で新しい知識を得るためには、われわれは眠気と戦い、睡眠という欲求を制御しなければなりません。ヒトが人間になるには、自己の欲求を制御しなければならないのです。制御するための基準こそ、規範であり、規範と合致した道徳です。授業中寝てはいけない、教師の言うことは起きて聞かなければならない、他人が話しているときには聞かなくてはならない、という規範を内面化し、実践に移さなければならないのです。
 道徳教育は、自らが自主的に道徳を選び取るために必要です。精神的な幸福を得るために必要です。つまり、ヒトが人間になるために必要なのです。人間として生きるために必要なのです。

 とか何とかかんとか。

<推薦文献(教科書レベル)>
○藤田昌士『道徳教育―その歴史・現状・課題』エイデル研究所、1985年。
○田中圭治郎編『道徳教育の基礎』ナカニシヤ出版、2006年。
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2 コメント

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Unknown (素晴らしい)
2009-05-06 00:53:41
素晴らしい
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ありがとうございます (白石)
2009-05-06 21:39:26
通りすがりの方(?)、コメントありがとうございました!
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