教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

一高の伝統を見たり

2006年04月10日 21時19分57秒 | 教育研究メモ
 今日はよくも悪くもない寝起きでした。11時前に登校。読書の後、17時すぎに邦楽部へいって三味線の練習。まだ学年始めだというのに、熱心な女学生2年生が2人、すでにこれからやる曲の選定と練習を始めていました。18時ごろ見学したいという1年生がやってきたので、彼女らが対応。その対応は、なんとも初々しい。自分も新入生の対応をした最初頃は、こんな感じだったなあと思い出しました。何度もやるうちに、次第に要領を得てくるんですよねー。かつて簡単なマニュアルを作ったような覚えもあるけど、まあサークルの資料はなぜか見あたらなくなるもんだ(苦笑)。沈黙がちだったので、簡単な質問をしたりしてちょっと手助け。見学希望者が帰った後、彼女らは今回の反省から、次なにをすればいいか感じたようです。この子らはいろんな意味でのびるね! 頼もしく思いながら、20代後半のオヤジは研究室へ退散しました。
  
 今日の読書。13日に勉強会があるため、J・S・ミル『自由論』(岩波文庫版)を二章の途中まで読みました。単純な感想になりますが、訳本のくせにものすごい読みやすいです。あとがき等を読むと、岩波文庫版の『自由論』は、昭和13(1938)年に河合栄治郎氏に翻訳を依頼して以来、河合氏に代わって底本となった塩尻公明氏の翻訳(昭和23年ごろ岩波に出版依頼の話がいったらしい)を、昭和45(1970)年に吉野源三郎氏が整理し、木村健康氏が訂正・補注等を完了するまで、計画から完成まで33年の月日をかけたそうです。きわめて丁寧な翻訳・訂正作業が、この読みやすい訳文を生んだわけですね。ちなみに、河合は旧制第一高等学校の教員、塩尻・吉野は河合の講義を聴講した旧制第一高等学校卒業生、木村は塩尻の門下とか。しかもそのつながりを自覚しながら、翻訳・出版作業を進めている。近代日本の教養の牙城、一高の伝統、ここにあったか。
 それから、19世紀半ばの著作だってのに、つっこみたくなる言葉より共感する言葉が多くて驚きです。ミルによれば、自由とは、他人の幸福を侵害しない限りにおいて、自分自身の幸福を自分で追求すること。この間、斎藤純一『思考のフロンティア 自由』を読みましたが、その自由の定義「自由とは、人びとが、自己/他者/社会の資源を用いて、達成・享受するに値すると自ら判断する事柄を達成享受することができる、ということを意味する(ただし、他者の動揺の自由と両立するかぎりでその自由は擁護される)」とも、くらべて遜色ない感じです(もちろん意味するところは微妙に違うと思いますが)。ミルの思想上の到達点が感じられます。
 さて、何百年も前のしかも外国人の著作を読む意味はどこにあるでしょうか。現代の人間の思考能力は、数千年前とたいして変わったわけではありません。日本人の思考能力は、ヨーロッパ人とたいして違わないはずです(たとえ違ったとしても、それはサルと人間ほどには違わないでしょう)。だから、現代の一般日本人が、19世紀のイギリス人哲学者・ミルを読んでも、知的な刺激をうけることはできるのです。また、近代ヨーロッパのあらゆる知的活動が、古代ギリシャ・ローマの知的活動を出発点としていることはよく知られています。ミルの知的活動を起点として、私たちは私たちなりの見方考え方で、自分だけで考えるよりも、そしてミル自身の考えよりも、さらに知的活動を発展させることができます。
 
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