昨晩なぜかまったく眠れず、午前2時ごろ寝るのを諦めました。2時半ごろ登校。するとまだI助手が仕事をしており、驚きました。ホントに頭が下がります。
今日はまず、昨日の続き、斎藤純一『思考のフロンティア 自由』(岩波書店、2005年)を読みました。8時ごろになると、いつものようにすさまじい眠気が襲ってきて、字も読めなくなる。たまらずダウン。1時間半おきぐらいに目が覚めるけれど、体が動かないのでそのまま12時半ごろまで椅子に座って寝ていました。顔を洗ってなんとか体が動くようになり、昼食を取った後、21日の主任指導教員の前で発表する博論の研究計画書を書きました。先日書いていた問題意識と目的の部分を訂正、さらに先行研究の検討による課題設定と研究方法(順序)を完成させました。
よし、なんとかなりそうだぞ。
ついでに、斎藤純一『思考のフロンティア 自由』(岩波書店、2005年)を読みっぱなしにするのはもったいないので、以下に第2章「消極的自由への批判」をベースに、ちょっと応用気味に文章にしてみました。第五・第六の理由は疲れたので中途半端に…(笑)
自由であるという状態が実現するための重要な条件の一つに、「他人・外部から干渉されない状態」という消極的な自由に関する考え方がある。ここにAさんがいるとしよう。そして、Aさんがこれから行動するにあたって、誰にも邪魔されず、たくさんの行動を選択することができる状況があるとする。この状況は、Aさんは自由である、といえるか。
答えは、これだけでは自由だと証明できない。
第一の理由は、選択肢が多いという量の問題は、選択肢の質を問題としないからである。Aさんが選択可能な行動は、Aさんが欲する行動かどうかわからない。そもそも、その選択肢が意味するところを、Aさんが認識できるかどうか、わからないのである。Aさんが欲しない行動しか選択できないならば、それは自由とはいえない。現代の教育問題に応用するため、例えば、学校選択制について考えてみよう。B市では約20の小学校があり、AさんはB市の中のどの学校にでも通えるという場合どう考えられるか。小さな学区内で選択の余地がない従来に比べれば、Aさんは自由であるといえるだろう。しかし、準備された約20の小学校に通うことは、Aさんが欲することだろうか。そもそも、その約20の小学校がどんな教育を行っているのか、Aさんは認識できるのだろうか。
第二の理由は、用意された選択肢を選んだとしても、実際にその自由を達成・享受できるかどうかわからないからである。Aさんは、その自由を達成・享受できるだけの資源(社会的地位や金銭、精神的・身体的能力など)を有しているか。また、その自由を達成・享受していると認識できるかどうか。現代日本では、教育機会の均等が保障され、誰でも小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から大学院へと進学できる。しかし、Aさんが高校進学できる経済力を有するか、大学へ進学して伝達される知識や技術を理解したり意味あるものとして享受できる能力や価値観を有するか、大学院進学を両親が意味あるものとして認めるかどうか、ということは教育機会の均等そのものは問題としない。進学できなければそこには自由はないし、進学してもその自由を享受できなければそれは苦痛でしかない。選択肢がある、というだけでは自由は保障されないのである。
第三の理由は、他人・外部からの干渉を受けないことを自由の条件とするだけでは、自分自身が内面化している自由への制約を問題としていないからである。現実には自分を不自由にしているのは、実は自分の価値観や社会的状況であったということがある。そもそも、自分が不自由であると気づかないことの方が多い。家に帰ることすらままならない極めて多忙であり、職能の向上は実践の中にあると信じる中学校教員Cさんは、研究会参加や大学院入学の機会があったとしても、おそらく人生の選択肢として認識すらしないだろう。
第四の理由は、干渉という「意図的な」行為を受けないことを自由の条件とするのみでは、誰も意図しなかった自由への制約を問題としていないからである。不自由は、意図的な干渉だけが生み出すのではなく、不特定多数による意図的でない、やろうとしてやったことではない行為も生み出すことがある。義務教育費国庫補助の廃止や減額を推進が、Aさんが就学できなくなったり、身に付けられるはずだった知識や能力が身に付けられなかったりするならば、たとえそれを意図してなかったとしても、極めて強くAさんの自由を制約することになるだろう。
第五の理由は、干渉されない場合にも支配は存在するからである。他者に干渉されないまでも、他者に依存して自由を得るのなら、それは本当の自由とはいわないと考えられる。主に共和主義の考え方。
第六の理由は、他者からの干渉を排除することのみにこだわると、他者との間ではじめて享受されうる政治的な自由をも排除することになるからである。つまり、他者の干渉を一切排除することを目指すと、自らの自由を相互に保障し合うことによって得られる自由(政治的自由)は、享受できない。
今日はまず、昨日の続き、斎藤純一『思考のフロンティア 自由』(岩波書店、2005年)を読みました。8時ごろになると、いつものようにすさまじい眠気が襲ってきて、字も読めなくなる。たまらずダウン。1時間半おきぐらいに目が覚めるけれど、体が動かないのでそのまま12時半ごろまで椅子に座って寝ていました。顔を洗ってなんとか体が動くようになり、昼食を取った後、21日の主任指導教員の前で発表する博論の研究計画書を書きました。先日書いていた問題意識と目的の部分を訂正、さらに先行研究の検討による課題設定と研究方法(順序)を完成させました。
よし、なんとかなりそうだぞ。
ついでに、斎藤純一『思考のフロンティア 自由』(岩波書店、2005年)を読みっぱなしにするのはもったいないので、以下に第2章「消極的自由への批判」をベースに、ちょっと応用気味に文章にしてみました。第五・第六の理由は疲れたので中途半端に…(笑)
自由であるという状態が実現するための重要な条件の一つに、「他人・外部から干渉されない状態」という消極的な自由に関する考え方がある。ここにAさんがいるとしよう。そして、Aさんがこれから行動するにあたって、誰にも邪魔されず、たくさんの行動を選択することができる状況があるとする。この状況は、Aさんは自由である、といえるか。
答えは、これだけでは自由だと証明できない。
第一の理由は、選択肢が多いという量の問題は、選択肢の質を問題としないからである。Aさんが選択可能な行動は、Aさんが欲する行動かどうかわからない。そもそも、その選択肢が意味するところを、Aさんが認識できるかどうか、わからないのである。Aさんが欲しない行動しか選択できないならば、それは自由とはいえない。現代の教育問題に応用するため、例えば、学校選択制について考えてみよう。B市では約20の小学校があり、AさんはB市の中のどの学校にでも通えるという場合どう考えられるか。小さな学区内で選択の余地がない従来に比べれば、Aさんは自由であるといえるだろう。しかし、準備された約20の小学校に通うことは、Aさんが欲することだろうか。そもそも、その約20の小学校がどんな教育を行っているのか、Aさんは認識できるのだろうか。
第二の理由は、用意された選択肢を選んだとしても、実際にその自由を達成・享受できるかどうかわからないからである。Aさんは、その自由を達成・享受できるだけの資源(社会的地位や金銭、精神的・身体的能力など)を有しているか。また、その自由を達成・享受していると認識できるかどうか。現代日本では、教育機会の均等が保障され、誰でも小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から大学院へと進学できる。しかし、Aさんが高校進学できる経済力を有するか、大学へ進学して伝達される知識や技術を理解したり意味あるものとして享受できる能力や価値観を有するか、大学院進学を両親が意味あるものとして認めるかどうか、ということは教育機会の均等そのものは問題としない。進学できなければそこには自由はないし、進学してもその自由を享受できなければそれは苦痛でしかない。選択肢がある、というだけでは自由は保障されないのである。
第三の理由は、他人・外部からの干渉を受けないことを自由の条件とするだけでは、自分自身が内面化している自由への制約を問題としていないからである。現実には自分を不自由にしているのは、実は自分の価値観や社会的状況であったということがある。そもそも、自分が不自由であると気づかないことの方が多い。家に帰ることすらままならない極めて多忙であり、職能の向上は実践の中にあると信じる中学校教員Cさんは、研究会参加や大学院入学の機会があったとしても、おそらく人生の選択肢として認識すらしないだろう。
第四の理由は、干渉という「意図的な」行為を受けないことを自由の条件とするのみでは、誰も意図しなかった自由への制約を問題としていないからである。不自由は、意図的な干渉だけが生み出すのではなく、不特定多数による意図的でない、やろうとしてやったことではない行為も生み出すことがある。義務教育費国庫補助の廃止や減額を推進が、Aさんが就学できなくなったり、身に付けられるはずだった知識や能力が身に付けられなかったりするならば、たとえそれを意図してなかったとしても、極めて強くAさんの自由を制約することになるだろう。
第五の理由は、干渉されない場合にも支配は存在するからである。他者に干渉されないまでも、他者に依存して自由を得るのなら、それは本当の自由とはいわないと考えられる。主に共和主義の考え方。
第六の理由は、他者からの干渉を排除することのみにこだわると、他者との間ではじめて享受されうる政治的な自由をも排除することになるからである。つまり、他者の干渉を一切排除することを目指すと、自らの自由を相互に保障し合うことによって得られる自由(政治的自由)は、享受できない。
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