教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

穂積陳重と大日本教育会・帝国教育会

2008年06月30日 21時12分04秒 | Weblog
 先週から持ち越した仕事にカタをつけて、次の仕事の準備にとりかかり始めました。
 それから、やるやると言いながら先週できなかった「大日本教育会・帝国教育会の群像」の更新。ようやく更新。これまでは、明治大正期の会長、および大日本教育会結成直後の幹部の履歴および会での功績をおおざっぱに明らかにしてきました。今度は趣向をかえて、ぐっと問題史的な視点からファイルをまとめていきたいと思います。
 今後しばらくは、明治30年代の公徳養成問題に深く関わった会員をまとめていくつもりです。今度、この問題に関する研究を論文にまとめようと思っているので、その基礎研究として、関係者(会員)を調べていこうと思っています。「群像」の有効活用といったところでしょうか。
 今日まとめたのは、穂積陳重氏でした。日本法学の先駆者、現行民法の起草者として有名な明治大正期の超大物ですが、彼もまた大日本教育会・帝国教育会の会員でした。今回彼をとりあげたのは公徳養成がらみですが(詳しくは「群像」を参照のこと)、その他にも彼を通して、結成初期の大日本教育会の有識者集団ぶりや、有識者と文部省とをつなぐ帝国教育会のメディア的機能を見て取ることもできます。実質的な幹部ではありませんでしたが、見逃せない人物です。
 あと、穂積氏は同郷(県単位)なのですね、実は。私の母が宇和島出身なので、さらに近く感じます。ゆかりのものとしては、宇和島市内の辰野川に「穂積橋」という橋がかかっているそうです。なんでも、穂積氏の死後に銅像を建てようという計画があったそうですが、遺族は固く辞退したそうです。それは、穂積氏が生前、銅像になって皆に仰がれるよりも、橋となって万人に渡られる方がよいと言い残していたからだとか。神仏のようにあがめ奉られるよりも、踏み越えられるべき礎(いしずえ)になりたい、という気持ちでしょうか。穂積陳重氏の人がらを感じるエピソードです。宇和島遠いんだけれど、行ってみたいなぁ、穂積橋…。
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